芽衣のお願い


「ずいぶん疲れているんだな。少しは休んだ方がいいぞ」


 芽衣が目を覚ましたので、私は新たに入れなおしたコーヒーをデスクに置く。芽衣はなぜか不服そうな様子でコーヒーを勢いよく飲む。


「……あちぃ」


「当たり前だろ!? 大丈夫か?」


「大丈夫よ。おかげで目が覚めたわ。私の寝顔を見た事は、ブルーマウンテンに免じて許してあげる。ありがたく思いなさい」


 どうやら不機嫌な理由は私に寝顔を見られた事らしい。勝手に眠り始めたのは自分だし、なにより長い付き合いなのだから今更その程度で不機嫌になられても困る。しかし、思った事を全て口に出せば更に機嫌が悪くなる。私は不条理だと思いながらも、ぐっと言い返したい気持ちを抑え込んだ。


「……今更寝顔ぐらいでガタガタ言うなって思ってるでしょ?」


「何で分かるんだよ。俺は何も言ってないぞ。エスパーか?」


「口にしなくても顔に出てるのよ。まったく蓮は……」


 芽衣が説教を始めた途端、電話が鳴る。私が逃げるように受話器を取ると、重く鋭い声の男が、芽衣を出すように言う。私は男に少し待つように伝え、保留ボタンを押す。


「芽衣宛だ。この前電話してきた本部会の人間だと思う」


「本部会? 前にも電話あったの?」


「ああ。このところ芽衣と会ってなかったから伝え損ねていたけど……」


「ふぅん。何度も電話かけて来るって事は、よほど重要な理由ね」


 そう言いつつ芽衣は受話器を受け取る。


「……お電話代わりました。結月です」


 芽衣は流暢な声で応対している。しかし、出て来る言葉は「はい」「そうですね」「ええ、わかりました」といった、至ってシンプルな言葉ばかりで、会話の内容を推測する余地がない。


 しばらくして芽衣が「では、代わりの者を向かわせます」と言って電話を切る。顔色を伺うと、不敵な笑みを浮かべている。


「何の電話だった? 随分嬉しそうだけど、吉報か?」


「吉報ではないわね。内容自体は毒にも薬にもならない話だったわ。今度、尊主がこの研究室に来るって」


「尊主って……まさか!」


「ええ。この組織のトップにして、不死を餌にしたビジネスを思いついた人。一応宗教法人という建前だから、尊主なんて大仰な肩書だけれど、実際のところは社長よね」


 社長という言葉は、あの人に似つかわしくない気がする。非合法な研究に大掛かりな詐欺。やっている事は、ゲームや漫画に登場する悪の組織のボスだ。もっとも、行為と人間性が一致しているかと問われると首をかしげるが。


「一体何をしに?」


「研究施設の視察って事らしいわ。ついでに、見込みのありそうな研究をしている人間に、進捗や展望をプレゼンする機会が与えられるそうよ」


「……じゃあ、芽衣は尊主に会うのか?」


「いいえ、私は会わないわ。蓮が会ってきなさいよ」


「おいおい、悪い冗談は止せ。俺はプレゼンなんて面倒な事は絶対にやらないからな」


 芽衣はニヤニヤと笑みを浮かべたまま、首を横に振る。


「蓮には会ってもらうだけで十分よ。必要な資料は私が用意しておくから、それを老いぼれ詐欺師に渡してくれればいいの。たぶん、視察とかプレゼンは全部カモフラージュで、尊主がここに来るのは会いたい人が居るってだけだと思うし。ナユタちゃんにも引き合わせるかは、アナタに任せるわ」


「……」


 私は黙って頭を抱える。正直言って、あの人間が私は苦手だ。向こうも私にどんな印象を持っているのか分からない。しかし、間違いなくこれだけは言えるだろう。


「正直、会いたくない。たぶん、会っても気まずいだけだ」


「何を弱気な事を……色々あったんでしょうけど、蓮にはお願いしたい事があるの。尊主に私の資料を叩きつけたら『結月と湊の共同研究です』とだけ言いなさい。それで仕事は終わり。後は世間話でもしてれば? 付き合い長いんじゃないの?」


「……確かに子供の頃は遊んでもらった記憶もある。でも、随分昔の話だ。それに今はナユタの事がある。俺はきょう爺さんどんな顔して会えあいいか分からない」


「因果応報よ。むしろ私は感心したわ。自分にされて嫌な事は人にしてはいけませんって小学校ではよく言われるけど、それが守れる人間ってそうそう居ないわよ」


 言わんとしている事は分かるが、それならば自分自身を実験体として提供するべきだ。


「そういう問題ではない。俺はただ……」


「あー、はいはい。言い訳しないで会ってきなさい。というか、会う必要があるはずよ。宗教法人・阿僧祇あそうぎ会の尊主である阿僧祇きょうに。孫娘である阿僧祇那由多なゆたを実験体として提供して貰ってるんだから、幼馴染であるアンタがこの研究に関わっている以上、アンタが出てこないと話にならない訳よ」


「いや、そうは言っても……」


 芽衣の中では私と尊主を引き合わせる事は決まっているらしい。しかし、自分の組織の行う人体実験に孫娘が使われ、その研究にその幼馴染が関わっている状況に、一体あの老人は何を思っているのだろうか。


 その心境を想像して、私の心は深く沈んでいた。

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