平穏な日常


「それじゃあ、とりあえずは問題なさそうって事で……ナユタ様も変わらぬ様子で安心いたしました……」


「うん! 海珠みたまちゃんも来てくれてありがとう。よかったら配信にも遊びに来てね」


「……気が向いたら拝見させていただきます」


 海珠は端末の画面をオフにして席を立つ。今日は彼女に作ってもらった補助プログラムのアフターフォローとして、その後の使用感をヒヤリングしに来てくれていた。


「もう行くのか? コーヒーでも飲んでいけばいいのに」


「……私が何かと理由を付けて断ってるって、気づいてないんですか?」


 海珠が芽衣の研究室を初めて訪れた時の事を思い出し、思わず笑いそうになる。彼女はコーヒーに大量の砂糖を入れ、あまりの甘さにむせ返っていた。


 その様子が面白かった為、彼女が私の元を訪ねる度にコーヒーを勧めていた。


「いや、気づいてはいたが社交辞令みたいなものだよ。世話になってる客人に、飲み物の一つも出さないのは、大人としての常識を疑われてしまうからな」


「……大人なら本心でも社交辞令って言わないですよ。っていうか、本当に気を使うつもりがあるのなら、話しを始める前に聞きなさいよ!」


「海珠ちゃん。蓮さんに普通の大人の人らしさを求めちゃダメだよ? 私も蓮さんとの付き合いは長いから、よく分かるんだ」


 ナユタによく分からないフォローを入れられ、少し傷つく。しかし、海珠も私に対して軽口を叩くようになった。初めはぶっきらぼうな態度の少女だったが、少しは打ち解けてきたのだろう。


 ナユタも海珠に対しては友人に接するような気軽さで関わっていた。実際の年齢は知らないが、見た目年齢はナユタとは年が近いように思える。ナユタの秘密を知りながらも、普通に関わる事の出来る同年代の友人という唯一無二の存在。この閉鎖的な研究所でそんな友人に恵まれた事を、私も嬉しく思う。


「……それじゃあ、本当に帰りますからね」


「ああ、本当にいつもありがとう」


 海珠は私から視線を逸らす。


「……貸しは飲み物以外のもので返しても貰いますからね」


 扉を僅かに開けて、体を滑り込ませるようにして外へと出ていく。


「……やっぱり海珠って変わった子だよな」


「そうかな? 普通に面白い子だと思うけど」


 脳だけで配信活動を行う自分の事を、普通だと言い張るナユタの”普通”の基準は当てにならない。


「そういえば、何かこの後予定あるとか言ってなかったか?」


「あっ、蓮さんナイス! このあと季舞ララちゃんの配信あるんだった。ちょっと見て来るね~」


 ナユタは慌ただしく私のモニターから姿を消した。季舞ララという名前を聞くと、その正体が同じ研究所の実験体である事を知っている私は、なんだか複雑な気持ちになる。


 季舞ララは今やチャンネル登録者数が数万人もいる大物配信者だ。ナユタと違い、その正体を憶測するサイトや掲示板が乱立されており、正体を知っている私は興味本位でそれらのページを閲覧した事もあった。


 もっとも有力だとされている説が、中堅の女性声優が正体だという事らしい。曰く、声が似ている。曰く、共通の趣味がある。曰く、同じ時期に同じ物を購入していた。どれもが単なる偶然なのだろうが、サイトの住民たちはまるで鬼の首を取ったかのように、断定した特定したと騒ぎ立てていた。


 Vtuberの正体を憶測する楽しみ方を否定するつもりは無い。しかし、もしも季舞ララの正体が露見し炎上した際に、その女性声優へ飛び火しないか心配だ。


「まぁ、私が心配する事でもないし、何よりこの組織の情報統制能力なら大丈夫か」


 研究所を管理する宗教団体は、財界や政界にも強いパイプを持つ。そのうえで非合法な人体実験を行っているのだから、まさしく漫画や小説に登場する悪の組織である。そして、そんな研究所に所属する芽衣も甲斐も海珠も、そして私も、悪のマッドサイエンティストだろう。


 私がそんな事を考えていると、この研究室の主である芽衣が帰還する。


「久しぶりだな。どうしたんだ? 最近ここに顔出していなかったけど」


 芽衣は少し疲れた様子で給湯室に行きお湯を沸かしながら白衣を脱いだ。彼女が自身の研究室へ戻るのは、実に数日ぶりだ。


「はぁ……ちょっと政治にかまけていたの」


「政治って、芽衣には縁のなさそうな事を言うなぁ」


 芽衣は鋭い目で私を睨む。疲れにより心の余裕を失っているらしい。しかし、何かを言い返すことは無く、ソファーへと倒れこむ。


「この研究施設って閉じられた空間でしょ。しかも、外部には公開できない研究ばかりやっているじゃない。だから、人の研究をかすめ取ったり、便乗したりして成果を横取りしようとする小物連中もいるの。そういう事やってもお咎め無しだからね。ナユタちゃんの実験も大詰めだから、小物に手出しされないよう、今のうちに方々へ牽制してるのよ」


「なんか要領を得ないけど、とりあえずお疲れ様。何か俺にできる事は無いか?」


 芽衣は起き上がって私を見る。


「……蓮の入れるコーヒーが飲みたい」


「ああ、お安い御用」


 私は給湯室に向かい、自分用に買っておいた少し高級なブルーマウンテンを開ける。コーヒーミルで丁寧に豆を砕き、ドリッパーにペーパーをセットしコーヒー粉を入れた所でお湯が沸く。マグカップに湯を注いで温めている間に、ドリッパーをサーバーにセットしてペーパーを湿らす程度に湯を入れる。数十秒蒸らしたら、ゆっくりと円を描くようにお湯を注いで、砕いた豆を躍らせる。


 ドリップが終わり、マグカップの湯を捨ててコーヒーを注ぐ。華やかな香りが立ち込め、我ながら上手く入れられたと自賛する。


「入ったぞ……っておい」


 ソファーを見ると、息絶えたように横たわる芽衣が寝息を立てている。


「やれやれ。世話の焼ける女王様だ」


 私はコーヒーを自席に置き、ソファーの背もたれに掛けられた白衣を芽衣にかぶせた。



 

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