奇々舞々・中


 扉の先はコンクリート張りの無機質な通路だった。もちろん窓は無く、頼れる明かりは蛍光灯のみ。ビルの地下駐車場のような印象を受ける。


 できることなら引き返したい気持ちはあった。しかし、ナユタのコラボ相手である季舞きまいララが甲斐かい先生の実験体であることを知った以上、私に逃げ出す選択肢は無い。甲斐先生と季舞ララの思惑と、それによるナユタへの影響を検討できるだけの情報を引き出さなければならない。


「HC-Lal10というのはどういった存在なのですか?」


「腔腸動物の不老能力を持つ人間です。複数の生物の遺伝子を結びつける触媒のような塩基配列によって特殊な万能細胞を生み出し、それを培養して一から生み出しました。私はこの触媒をキメラ遺伝子と名付け、安定した運用に向けて研究を続けております。もし湊先生が希望されるのであれば、キメラ遺伝子に関する詳細な研究データを提供いたしますが、いかがでしょうか?」


 甲斐先生は振り向かずに丁寧な言葉で答える。丁寧な言葉使いというものは、互いが共通の価値観や倫理観、教養を持ち合わせていると証明する事で、会話が成り立つ相手であると警戒心を解く作用がある。


 しかしこの彼女からは丁寧な物言いが、逆に私の警戒心を掻き立てていた。底知れぬ恐ろしさを湛えた腹の内を、他人に悟られぬよう丁寧な言葉遣いで覆い隠している。


 人間観察など私が最も苦手とする技術だが、この女性の纏う雰囲気がどこか正常ではないことぐらいは読み取ることが出来た。


「再三申し上げている通り、私は遺伝子工学に関しては門外漢ですから遠慮いたします。それよりも、HC-Lal10について教えてください。本当に季舞ララはHC-Lal10なのですか?」


「さようでございます。彼女の希望で、自身の正体について一切の情報を外部に漏らさない事を条件に、架空のプロフィールを用意させ活動を許可致しました」


「随分と実験体の事を信頼されているのですね。口約束を守る保証も無いのに、そんなリスクを負うという事は、季舞ララの活動には甲斐先生にとって何かメリットがあるのではないでしょうか?」


 私の問いに甲斐先生は驚いたような表情で振り向き立ち止まる。


「……湊先生になら理解していただけると考えていたのですが。その質問に対する答えは、イエスでもありノーでもあります。人間というものは難しいもので、利害の相対する立場に同時に立ってしまう事がままあります」


「どういう事でしょう?」


「研究者や組織の人間としは、ララの活動はリスクでしかなく許容できるものではありません。しかし、彼女という存在を生み出してた親の心情としては、子が自ら進んで挑戦したいと言い出した事に喜びを見出し、応援したいと考えてしまうものです。湊先生も同じ葛藤を抱えているのではありませんか?」


 すぐにナユタの事を言っているのだと思い至る。幼なじみという関係性は甲斐先生と違うが、応援したい気持ちは同じだろう。


「……どうやら自分の事を棚に上げた質問だったようですね」


 私たちは再び通路を歩き、突き当りの扉へと行きつく。扉の脇にはカードキーのリーダーが有り、甲斐先生が首にぶら下げた身分証をかざす。


 扉が開く。中は数人の人間が入る程度の狭い小部屋。どうやら昇降機らしい。


「随分とセキュリティが厳重なのですね」


「組織の人間には機密保持と実験体HC-Lal10の収容が目的と説明しております。HC-Lal10に危険はありませんが、過去の実験体の中には明らかに人間に対する敵意を持つ個体も存在していましたから。ただ、正直な所を申し上げますと、このセキュリティはHC-Lal10から外の人間を守る為ではなく、組織の人間からララを守る為に用意いたしました」


 昇降機を操作するパネルに甲斐先生が触れると、部屋がゆっくりと下り始めた。


 私は甲斐先生がHC-Lal10とララの二つの呼び名を明確に使い分けている事に気づく。彼女はHC-Lal10を一人の人間として見るときにララと呼んでいる。私も今後の会話では気を付けなければ。


「ララにナユタの存在を教えたのは甲斐先生なのですか?」


「はい。以前、結月先生の研究室を訪れた際にナユタ様の事を伺いまして。ララもコラボ相手を欲しがっていたので、ナユタ様とであればコラボ配信を許すことにしました。似たような事情を抱えた配信者同士なら、他の方よりも危険は少ないですから」


 確かに、お互いに抱えている地雷が同じ箇所ならば、他のVtuberよりもその地雷を踏んでしまう可能性は少ないだろう。


「……随分と喜ばれたのではありませんか?」


「ええ。ナユタ様に失礼があってはならないからと、メールの書き方から勉強しておりました。私がHC-Lal10の知能を測るため小学生レベルの授業を行った時は、途中で居眠りをしていたぐらい勉強嫌いなララがですよ?」


 そう語る甲斐先生には笑みが浮かんでいた。

 

 昇降機の扉が開く。


「どうぞこちらに」


 甲斐先生に促されるまま、扉の先へ出る。


 ふと腕時計を見ると、既にナユタと季舞ララのコラボ配信が始まる時間を過ぎていた。

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