奇々舞々・上


「お待ちしておりましたよ。湊先生」


 研究室を訪れた私を、甲斐先生は出迎えた。研究室の広さは芽衣の部屋と変わらないが、甲斐先生以外に人の姿は見えなかった。


 研究室の奥には別の部屋へと続く扉があった。芽衣の研究室にもナユタの脳を保存している部屋があるが、ナユタの部屋と違い重々しい鉄扉で何重にも鍵が取り付けられている事に違和感を感じる。


「すいませんが、今日は大切な用がある日なので、手短に説明願えないでしょうか?」


 私がそう切り出すと、甲斐先生は悪戯っぽく笑った。


「ええ、存じ上げております。ナユタ様の事でしょう?」


 ナユタの名前が唐突に上がり、私は警戒を強める。これは脅しのつもりなのだろうか。


「……それで、なぜ私が欲しいのですか?」


 私は断りなく椅子に座り、早くこの用事を終わらせて芽衣の部屋へと戻りたかった。


 今日はナユタと季舞ララのコラボ配信の日だ。よりにもよって、甲斐先生は私との面会の日時を配信の日に合わせてきた。


 配信開始まで後三十分。それまでに何とか断る口実を見つけ出し、会話を切り上げたいものだ。


「もちろん、湊先生のお力添えが必要だからですよ」


「失礼ですが、私の専門がBCIであることはご存知ですよね? この表現が適切かは分かりませんが、人間の遺伝子組み替えを行われている甲斐先生のお役に立てるとは思えません」


「ええ。結月先生にも同じ事を言われました。湊先生を引き抜いても、ゴミ掃除やお茶汲みすら満足にできませんよって。あまりにも失礼な物言いに、思わず笑ってしまいましたよ」


 芽衣のやつ。この前はゴミ掃除とお茶汲みぐらいしかと言っていたじゃないか。


「芽衣の言葉は癪に触りますが、彼女の言う通りですよ。私はBCIの分野以外ではお茶も満足に入れられない無能です」


「あまり卑下なさらないでください。なにも私だってその冗談を真に受けたわけではありませんよ。それに、私が欲しいのは湊先生のBCIの技術ですから」


「遺伝子工学とBCIがどの様に結びつくとは考えにくいですが、一体私に何を求めているのでしょう?」


「……その前に、私の研究の現状の成果についてお伝えする必要がありますね」


 研究たるもの物事の結論だけでなく、その過程を重んじる姿勢は美徳と言えるだろう。


 しかし、私には時間が無い。今はその回りくどさが苛立たしく思えた。


「私の研究は老化しない生物の特性を人間に転用できないか、という視点からスタートしております。湊先生は老化しない生物と聞いて心当たりはありますか?」


「確かベニクラゲが不老不死のクラゲと言われていたと思います」


 私は何かのテレビ番組で見かけた知識を記憶の引き出しから取り出す。専門家相手に付け焼き刃の知識で応対している事に若干の申し訳なさを感じつつ、スムーズに面会を終わらせる為だと割り切る。


「確かにベニクラゲも一瞬の不死性を持っている生物ですね。しかし、ベニクラゲの特異性は生殖後にポリプに戻る事ができる点です。分かり易く言えば、寿命を終えた鳥が死なずに卵へと戻るようなイメージです。そのような若返りをせずとも、不老の生物は数多く存在しています」


「……例えば?」


「サンゴやイソギンチャクのような腔腸動物こうちょうどうぶつの中には細胞単位で老化しない生き物がいます。後は扁形動物へんけいどうぶつも殆どの種が寿命を持ちません。プラナリアとか、聞いたことはありませんか?」


「ええっと……切っても分裂する生き物でしたっけ?」


「そうです。分裂して個体を増やす生き物は、基本的に老化がありません。ある意味でのクローンで仲間を作るのですから、コピーした細胞が老化すれば、その種はいずれ絶滅してしまいます。そもそも老化という概念は一部の動物が進化の過程で獲得した特性の一つであり、微生物などを含めると、殆どの生物は老化という能力を持ち合わせておりません」


 私は畑違いの専門的な話に辟易しながら、何とか話を終わらせようと頭を回す。


「老化の認識について、事実と齟齬があった事は理解しました。しかし、不老の特性が一般的だとしても、人間がその特性を得られるとは思いません。甲斐先生の現状の研究成果はどこまで進んでいるのですか?」


「特殊な触媒を用いて、人間の遺伝子と他の生物の遺伝子を結合させ、特性の一部を獲得する事は実現しております。成功率は極めて低いのですが」


 甲斐先生は立ち上がり、部屋の奥の重々しい扉へと向かう。そして、胸ポケットから数本の鍵を取り出し、扉にかけられた錠を外し始める。


「……甲斐先生。そろそろ予定の時間になりますので、お暇させて頂きたく。研究チームへの引き抜きについては、後日改めて相談させていただければと思います」


 私は甲斐先生の恐ろしい研究を聞いて、あの扉の奥に何が居るのか全く予想できなかった。少なくとも、扉の先は常識で計れる世界ではないのだろう。正直に言って、逃げ出したい。


「ナユタ様とララのコラボ配信を見たいのでしょう? 私も視聴させて頂きますから、どうぞこちらに」


 扉が軋む音を立てながら、ゆっくりと開く。


「……この先は?」


「個体コードHC-Lal10の部屋へと繋がる通路です。彼女は唯一不死性と理性を兼ね備えた実験体でした。しかし、最近発声器官にエラーが……」


「ちょっと待ってくれ! 不死の人間は完成しているのか!?」


「はい。訳あってこちらの部屋に隔離しておりますが……ただ不死の存在を生み出して永遠に隔離するのも哀れに思い、情操教育の一環にとネット環境を整えたところ、随分と動画配信サイトに入れ込むようになりまして」


 混乱する私に対して、甲斐先生は更にとんでもない事を言った。


「最近、HC-Lal10はという名前で動画配信を行っていますよ」

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