休日

坂本梧朗

一話完結


 靴脱ぎ場に立って、ドアを開けようとした時、これしかないのかな、という思いが安男の胸を掠めた。それは〈これで貴重な休日を失うことになる〉という思いと繋がっていた。しょうがあるか、と安男は苦笑いをしてドアを開けた。

 今日は日曜日だが、妻の頼子は不在だった。一人になると、と言うより朝食が終わる頃から、その思いがムクムクと大きくなった。今日頼子はいないと知った二日前から、それは安男の心中で小さく点っていたのだが、彼は好ましいとは言えないその火が大きくなるのを抑えていた。ところが朝食が終わり、頼子の出発が近づくと、その火が急に燃え上がった。他にも休日の過ごし方はいろいろあった。読みたい本もあったし、近づくラウンドに備えてゴルフの練習もしておいた方がよかった。休日のテレビで放送される名作と言われる日本映画や、珍しいアジアの国々の映画などをゆっくりと見るというのも悪くなかった。会員になっているフィットネスクラブに行って、ひと泳ぎしてくるというのも一案だった。実際安男はそれらの中のどれかをして休日を過ごすつもりだった。火が燃え上がるまでは。 朝食が終わると、頼子は出かける準備を始めた。彼女はパートで姉夫婦が経営しているレストランを手伝っている。平日の昼の勤務なのだが、今日は団体の予約が入ったということで臨時に出ることになったのだ。こんなことが二カ月に一回くらいあった。そんな日は安男が一人で過ごす休日となるわけだが、近頃こういう日が彼にとって危険を孕む日となっていた。

 危険は安男の胸中にムクムクと起きる欲求にあった。それはアダルトビデオを見ようという欲求だ。妻が不在の間にこっそり楽しもうと思うのだ。既に安男はそれを何回か実行していた。そして不運なことに、それは幾度か妻にばれていた。この事に対する頼子の感覚は異様に鋭く、安男が考えも及ばない痕跡を目敏く見付けて、隠し事を暴いてしまうのだ。それは安男にとって恐れ入ったと思うほかはない鋭さであり、油断も隙もないという圧迫感さえ抱かせた。事が発覚すると、みっともない、変態、スケベ、と頼子は安男を詰った。夫婦生活では満足させきらんくせに、という言葉も出た。確かに若い頃から安男はそれが下手で、頼子を満足させたことがなかった。そしてその性交渉もこの一、二年は月に一回ほどになっていた。詰られた安男は抗弁できず、苦笑いするほかはなかった。頼子はそんな事があると二、三日は安男とまともに口をきこうとしなかった。軽蔑をこめた目で安男を見て、彼の頼み事には一切耳を貸さなかった。安男はその間、腫れ物に触るように彼女に対さなければならなかった。身から出た錆、と自嘲しながら。

 それがこの楽しみの一番はっきりした危険性だった。しかし、その誘惑には抗し難い魔力があった。それは起きると途中で止められない発作のようなものだった。体裁への虚飾に満ちたあらゆる顧慮をかなぐり捨てて、本能むき出しの行為に身を委ねる快感、という思いが安男の脳天を突き抜けるのだ。酒を飲みながらアダルトビデオを見るという図が示す放恣さに、安男は途方もない解放感を覚えるのだ。そんな解放感は一瞬の幻に違いない。しかしいいではないか。ストレスの続く生活にたまにそんな寛ぎがあっても。それが安男の弁明だった。

 そんな思いで頭を満たしながら、安男はバイクに乗るための着替えを始める。着替えて、アパートを出ようとした時、これしかないのか、という思いが彼の胸を掠めたのだ。この楽しみがもたらす苦い目にもう何度か会っている。楽しいばかりではないその内実についても経験を重ねている。さすがに何のためらいもないというわけにはいかない。安男の胸に一番爪を立てているのはやはり頼子の非難の目だ。出かける時頼子は妙な目付きをして、「変なお楽しみはしないようにね」と言った。見透かされていると安男は思ったが、「馬鹿なことを言うな」と答えた。「さぁ、どうだか」と頼子は皮肉に笑って、出ていったのだ。安男自身の分別の声もかすかだが、ブレーキをかける役目をしている。〈これは寛ぎにはならないよ〉とそれは心の隅の方で呟いている。しかし今、安男は発作の中にいる。しょうがあるか、と彼は自棄的とも見える笑みを浮かべてドアを開けた。      

 バイクの覆いを除けながら、これから見るビデオへの期待に胸を膨らませている今が一番楽しい時なのかも知れないと安男は思った。一方で、そんなことを思いながらバイクを動かそうとしている自分にうそ寒いものを感じてもいた。

 国道に出た時、安男は運転免許証を携帯していないことに気づいた。不吉な予感が胸を過った。これは慎重に運転しなければ、と彼は思った。二月ほど前、安男はバイクに乗っていて交通違反で捕まった。それは初めて通る道で、踏切を渡ってすぐの三叉路を右折したところ、後ろから、「そのバイク停止しなさい」とマイクの声が聞こえてきた。バックミラーを見ると、パトカーが赤いランプを回転させながら従いてくる。安男はパトカーの後部座席に座らされた。違反は右折禁止の標識無視だった。安男はその標識にまるで気がつかなかった。免許証の呈示を求められたが、安男は不携帯だった。車は専ら頼子が使っており、安男はめったに運転しなかった。それで免許証は勤め先の身分証明書と一緒に通勤カバンの中に入れてあった。彼の免許は普通免許だが、バイクは五十CCだがら、それで乗れるのだ。安男の名前、住所、生年月日、本籍を聞き出した警官は、無線で本部に連絡して、免許の有無を確認した。以前ならそれで確認は終りだったはずだが、警官は更に、あなたがその免許証の本人であることを証明する人はいないかと訊いてきた。その人に電話を入れて人相を確認すると言うのだ。安男は戸惑った。そこまでするのは嘘をつく者が多いからだろう、世の中悪くなっているのだなと彼は思った。その時家に妻がいないことはわかっていた。頼子は安男がバイクで出た後、まもなく出かけたはずだった。仕方なく彼は自分の母親の電話番号を言った。警察からの電話を受ける親の気持を思って彼の心は暗かった。母親はいなかった。次に妻の実家の番号を教えた。義父母の顔が浮かんだ。驚くだろうなと思った。電話番号は本部に伝えられ、本部から相手に電話が入り、そしてパトカーにつながれるという手順だった。本部からの連絡を待つ間、すぐしなければならない釈明の電話の内容を安男は暗い気持で考えていた。妻の実家も留守のようだった。二人の警官のうち年上の方が、あなたを信用しようと言い、免許証に関する追及はそれで終わった。標識に気がつかなかったということならば注意だけで許してもいいが、免許証不携帯が加わっているから見逃せないんですよ、とその警官は言った。書類に署名させられ、指紋を取られ、罰金五千円の納入用紙を手渡されて安男は放免された。バイクに乗るのは週に二、三度で、距離も短いから、免許証の携帯には無頓着だったのだが、それ以後、安男は携帯を心掛けていた。それが忘れている。やはりこんな時は心が浮ついているのだ、と安男は苦く思った。ただでさえ危ないことをしているのに、この先何かが起きて、頼子に警察から電話が入るようなことになったらと考えて、安男はヘルメットの頭を振った。まず無事に家に帰り着くことだと彼は自分に言い聞かせた。  

 ビデオ店に着いて、ヘルメットを脱いだ時、薄茶色の色眼鏡をしてこなかったことに安男は思い当たった。この次ここに来る時はそれをかけてくるつもりだったのだ。いろんなことを忘れてるなと彼は思った。色眼鏡を思い出したことで、それをしていない自分が、ことさら素顔を曝しに店のなかに入っていくような気がして、安男は顔面をつるりと撫ぜた。

 店の中は二メートルくらいの高さの棚が背中合わせになって十列ほど並び、それにビデオカセットがびっしり詰まっている。その八割がアダルトものだ。その店はアダルトビデオ専門店と言ってよかった。女性客はいない。ビデオの壁の間を男達が陰気に動いている。安男も素早くその一人になった。ひたすらビデオのパックを見詰めて、擦れ違っても人間とは目を合わさない。SM、レイプ、女子校生、OL、未亡人、奥さんと、アダルトビデオの各分野が揃っている。安男はSMやスカトロは好まない。OLや女子校生ものの棚の前でうろうろするのだが、どれも気持をそそるパックの装丁と題名で、目移りがして決められない。宝の山に入ったような幸福感が安男を包む。これらのビデオを選り取り見取り、好きなだけ見ることができたらと思う。今が一番楽しい時だ、とふと思う。今が頂点で、後は下がるだけだという有難くない予見が頭を掠める。      

 そんなに長く店内には居たくない。ここにいる自分を人目に曝したくないし、知人に出くわすのもごめんだ。早く出るに限る。安男は適当なところで選択を打ち切り、三本のビデオをカウンターに持って行った。三本から貸出期間が二泊三日に延びるということもあるが、安男が三本借りるのは、二本では当たり外れもあり、物足りないというのが本音だ。店内にはアルバイトらしい二十前後の男が二、三人、返されたビデオを棚に戻したりして働いている。そのうちの一人が応対する。頭の禿げたこの店の主人が、カウンターの内側の隅の椅子に座って、監視するようにこちらを見ているのを安男は認めた。カウンターには、この店を訪れたAV女優がこの主人と一緒に写っている写真が数枚貼ってある。この主人はその写真の中では笑顔を見せているが、安男に応対する時はニコリともしない。酷薄そうな光を放つその目はむしろ安男を脅かした。手続きの済む間、安男は主人の視線に耐えるように肩の力を抜いて、周囲に目を泳がせた。しかし主人の顔に視線を当てることは避けた。無益なことだった。

 安男は安全運転を心がけ、途中で一〇〇〇mlの缶ビールを買って、無事に帰り着いた。「酒池肉林、酒池肉林」と自分を駆り立てるように言いながら、安男は勢い込んで部屋に入った。手早く部屋着に着替える。ビデオデッキから今入っているテープを取り出さなければならないが、無造作にはできない。まずテープカウンターに現在表示されている目盛りをメモする。そして再生して出てくる映像を確認し、カウントが0になるまで巻き戻す。それから取り出すのだ。こうしておけば、ビデオを見た後、元のテープを入れ戻す際、テープカウンターの目盛りを元通りにできる。頼子が元の目盛りを覚えていて、ばれたことがあったのだ。今日も頼子はテープのカウントを記憶して出掛けたのではないかと安男は警戒している。同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。

 アダルトビデオは一本が一時間前後の長さだ。一本のビデオにファックシーンが大体三、四回ある。しかし、ファックシーンだけが興奮を誘うのではない。導入部分のAV女優に対するインタビューとか、ストーリー性(と言っても他愛ないものだが)のあるビデオなら、シチュエーションを分からせる部分なども見ておく方が、想像力を刺激して興奮を盛り上げる。そう思うから安男はできるだけじっくり見ようとする。興奮しながら、しかも集中して見るので、一本目を見終えると既に疲れている。ビールの酔いも回ってくる。一本でちょうどいいのだろう。陶然とした気分の中で、適当なシーンを選んで発射すれば、後は安らかな休息の時間になるのだ、という思いが頭を掠めながらも、安男は二本目をデッキに入れる。一本目で発射するのは早すぎるという計算があるため、発散を抑止された興奮状態が不自然に続いている。また導入部分からじっくり見ようとするが、心理的にも生理的にもそれに苦痛を感じ始めている。時間もたっぷりあるわけではない。頼子が帰ってくるまでには平常に復帰していなければならないという意識も安男を急かせる要素の一つだ。どうせくだらない内容だ、と早送りのボタンを押してしまう。その癖、映像への貪欲はあるので、ちょっと気を引かれるシーンがあると巻き戻して見たりする。安男は自分でもせわしないなと思う。ファックシーンが始まる。しかし一本目ほどの新鮮味はない。むしろ同じことをやっているなという思いが湧く。早送りする。しかしちょっと目をひくシーンがあると巻き戻す。それが小刻みに繰り返される。疲れるなぁ、という呟きが安男の頭のなかで起きてくる。

 突然、電話が鳴った。安男の体を緊張が走る。予期はしていた。頼子からの電話だ。ビデオを停止し、二、三度咳払いをして、意識を平常に戻そうとする。立ち上がって電話の前に行き、息を一つ吐いてから受話器を取った。

「何しよるん」

 不信感丸だしの声で訊いてくる。

「うん、今はテレビ見よった」

「ふーん、何がありよん」

「え」

 安男は言葉に詰まるが、「ニュースだよ」と、咄嗟に答え、幸い昼のニュースをちらりと見ていたのでその内容を口にする。

「ふーん」

 と頼子は言うが、真に受けたようではない。

「あのね、ふとんを干してるから入れといてね」

 と用件を言った。

「ああ、わかった」

 安男が答えると、頼子は電話を切った。安男はほっと肩の力を抜く。何とかうまく切り抜けたのではないかと思う。その時間にニュースをやっていたのかどうかという検討は彼の意識から落ちている。もう電話はかかってこないと思うと少し安心もする。忘れないうちにと安男はふとんを取り込む。

 テレビの前に戻ってビデオを再生する。興ざめしていることは否めない。いつまで引っ張っていてもしようがない。そろそろ発射しようかという気になる。しかし、やはり、どこでもいいということにはならない。できるだけいいシーンを探そうとする。発射がまたズルズルと先に延びる。自分でも苛立ってくる。どこかいいとこないか、という思いで早送りする。早送りではしかし、シーンの味はわからない。下らないことをやってるな、という思いがこのあたりからちらつき始める。諦めの気持で再生に戻す。結局、「ええい、疲れた!」という思いで、安男はどうということもないシーンで発射した。一瞬の快感が過ぎると、憑き物が落ちたように周囲がいっぺんに白ける。自分の愚かしい姿が意識の中に寒々と浮き上がる。

 三本目はたいして見たくもないが、なかば惰性でデッキに入れる。映像が初めから砂を噛むように味気ない。ファックシーンにはもうたくさんだという吐き気さえ覚える。ほとんど早送りで見終えた。

 吐息をついて、さぁ、後片付けだと思う。また馬鹿なことをしたなという自嘲と疲労感が安男を包む。動こうとするが、ビールの酔いもあって体が重い。胃にも飽満感がある。晩酌のビールは欲しくないなと安男は思う。しかし頼子に疑われないためには飲まなければならないことは分かっている。アダルトビデオをビデオ店の袋に納め、元のテープをデッキに入れ、メモしたカウントになるまで早送りする。再生して映像を確認する。缶ビールは外に捨てに行く。使ったティッシュはトイレに流す。さぁて、これでいいのかと安男は部屋を見回す。これでもどこかでボロが出るんだろうと、安男は皮肉な笑いを浮かべた。防音のため閉めていたサッシ戸がそのままになっていてばれたことがあった。チャンネルがビデオのままになっていてばれたこともあった。有ったことをなかったように繕うのは難しい。どこかに盲点が生まれるものだ。外はもう日が陰り始めている。あと一時間もすれば頼子が帰ってくるだろう。酔いも醒ましておかなければならない。うまく騙しおおせるものか。そんなことを思いながら、安男は疲れだけを感じている。〈寛ぎもなく終わる休日〉という思いが彼を更に打ちのめす。

                        了。

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休日 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

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