1 ニューヨークの人喰い悪魔

 ニューヨーク市警の人事課からメールが届いたのは、怪我が完治し、退院を許されたまさにその日のことだった。


 人事課の通達には、「この場所へ行き、FBIのモリス捜査官に会ってくれ」という旨の一文と、その行先の住所が記されているだけで、目的や理由についての説明は一切なかった。もちろん、「退院おめでとう」というような気の利いた一言もない。


 なぜ連邦捜査局のエージェントが自分のような一介の警官を呼びつけるのか、そのモリス捜査官とはいったい何者なのか、状況はなにひとつ掴めないままだが、ミキオは指示に従うほかなかった。


 とある理由により、ミキオは現在休職中の身であり、おまけに上司からは自主退職を促されている。近いうちに市警のバッジと支給品の拳銃を返却し、独身寮から立ち退かざるを得ない状況にあった。特殊部隊の隊員だった男がただの無職のホームレスとなるのも時間の問題だ。


 ひとまず今は、そのモリスという人物に会うこと以外、ミキオに選択肢はなかった。


 指定された場所はウエストヴィレッジにある古めかしい建物だった。


 入り口にある『関係者以外立ち入り禁止』の文字に一瞬躊躇いを覚えたが、ミキオは扉に手を伸ばした。鍵は開いていた。


 重い扉を開けて入ってみれば、そこは図書館のようだった。

 それほど広くはないが、部屋の至るところに本棚が並び、膨大な数の書物が所蔵されている。

 しばらく使われていないような埃っぽい臭いが鼻をかすめた。



「――ジェンキンス隊員」



 不意に名前を呼ばれ、ミキオは足を止めた。

 声がした方向へと視線を寄こすと、奥の本棚の前に黒人の男が立っているのが見えた。



「あなたがモリス捜査官?」



 訊けば、男は「そうだ」と頷いた。



「エドワード・モリスだ。よろしく」



 モリスが歩み寄り、手を差し出す。歳は四十前後だろうか。口ひげを蓄えた、利発そうな相貌の男だった。

 一瞬、どこかで見たことのある顔だと思ったが、思い出せないままミキオはその分厚い掌を握り返し、握手を交わした。


 モリスは仕立てのいいモスグリーンのスーツ姿で、捜査官というよりもむしろやり手のデイトレーダーといった雰囲気だった。

 対するミキオは白いTシャツにジーンズという、その辺にいる学生のようなラフな格好をしていたが、モリスは特に咎めもせず、にこやかな表情で応じてくれた。



「ご足労ありがとう。さあ、こちらへ」



 辺りを見渡しながら、ミキオはモリスに尋ねた。



「まさか、俺のためにわざわざ図書館を貸切に?」



 というのは冗談のつもりだが、この場にいるのはモリスとミキオの二人だけである。図書館のスタッフらしき者の姿はなく、当然ながら、レポートに励む学生も新聞に目を通す老人もいない。


 訝しがるミキオに、



「ここはFBIが所有する物件でね。予算不足で閉館になった図書館を組織が買い取ったものなんだ」



 と、モリスが説明した。



「これから新しい捜査チームを立ち上げることになったんだが、残念ながらニューヨーク支局に部屋の空きがなくてな。代わりに、この建物をオフィスとして使わせてもらうことにしたんだよ。ここにある書物は、言わば捜査資料のようなものだ」



 本棚に囲まれた部屋の中央に少し開けた場所があった。天井には小ぶりなシャンデリアが吊るされ、赤い絨毯の上には二対の大きなソファとローテーブルが置かれている。図書館時代の名残のようだ。


 「そこに座って」とモリスに促されたので、ミキオはロココ調の赤いソファに腰を下ろした。大仰な見た目の割に、座り心地はたいしたことなかった。


 ミキオと向かい合うようにソファに腰を下ろしてから、

「事件のことは聞いたよ」気の毒そうな顔でモリスが言う。



「大変だったな」



 たしかに、あれは大変な事件だった。いろいろと。思い返し、ミキオは力なく頷く。



「ええ、そうですね」



「だが、過ぎたことだ。気に病むなよ。君はよくやった」



 ミキオはなにも答えず、ただ自嘲をこぼした。「よくやった」だなんて、あのときの自分の働きには不相応な言葉だ。なにひとつやり遂げられなかったのだから。


 任務は失敗し、仲間は全滅した。労いの言葉をかけられる資格はない。


 あの事件は大々的に報道された。ミキオの所属する特殊部隊が立てこもり犯の制圧任務に失敗し、隊員九名が惨死したという悲劇のニュースは全米に衝撃を与えたが、人々の興味はそう長くは続かなかった。


 その事件の一週間後に、連続殺人鬼ティモシー・デイモン――五十七人を殺して食べたサイコパス男――が逮捕されると、アメリカ国内のニュース番組はすべてその話題でもちきりとなった。

 ニューヨーク在住の現代版ハンニバル・レクターが、市民の関心を根こそぎ掻っ攫ってしまったのだ。


 あれから半年以上が経った今ではもう、殉職した隊員たちの存在は世間から風化しつつある。

 しかし、ミキオだけはいつまで経っても忘れられずにいた。そして同時に、忘れてはいけないと己を戒めていた。

 自身が事件の生存者で、唯一、犯人の正体を知る目撃者でもあるからだ。


「怪我の具合はどうだ?」モリスが尋ねた。


 幸運にも命は助かったが、ミキオはあの事件でかなりの重傷を負った。

 出血が酷く、骨も数本折れていて、内臓の損傷も激しかった。

 完治するまでに六か月の月日を要し、今日になってようやく退院できたのだ。


 むしろ、あれだけの怪我を負いながら、たったの半年で退院できたことは奇跡かもしれない。人間離れした驚異的な回復力だと担当医も驚いていた。


「見ての通りです」ミキオは作り笑いを浮かべた。



「もうすっかり治りましたよ。昔から体だけは丈夫なもので」



「それはよかった」



 微笑みを返すモリスに、ミキオは心の中で首を捻る。

 それにしても、この男はいったい何者なのだろうか。どうして自分をここに呼び出したのだろうか。訊きたいことは山ほどある。


 まじまじと男の顔を見つめていたところで、不意に気付いた。



「……あなたを見たことがある」



 この男をどこで見かけたのか、やっと思い出した。あれはまだ、ミキオが駆け出しの警官だった頃の話だ。



「前に、あなたの講習を受けた。たしか、プロファイリングについての」



 間違いない。研修のために警察署長がクワンティコから招いた特別講師の中に、この男がいた。道理で見覚えがあるわけだ。


「ああ」モリスは素直に認めた。



「アメリカ中の警察署で心理捜査のノウハウを教えていたからな。どこかで顔を合わせたことがあるかもしれない。といっても、今はもう行動分析課の所属ではないんだが」



「元プロファイラーが、俺に何の用ですか」



 尋ねたが、思い当たる理由がないわけではなかった。心理捜査官が自分に接触する目的はひとつしかない。まさか、とミキオは顔をしかめる。



「……もしかして、これもカウンセリングの一貫?」



 疑うような目つきで相手を見つめると、モリスは違うと言わんばかりに肩をすくめてみせた。



「たしかに、君にはカウンセリングが必要だな。任務中に仲間を失い、自身も大怪我を負ったのだから。恐ろしい体験をした上に、自分だけが生き残ったことで自責の念にも駆られている。これ以上PTSDが酷くなる前に、ちゃんと専門家に診せて心のケアをした方がいいだろう。……だが、それは俺の役目じゃない」



 どうだか、とミキオは心の中で悪態をついた。



「入院中、心理学者やカウンセラーが俺の病室に来ました。それも何度も、何人も。精神的に不安定だって連中が診断したおかげで、俺はすっかり変人扱いですよ。警察もクビになりそうだ」


「酷い話だな」と、モリスは眉を下げた。



「みんな、俺の頭がおかしくなったと思ってる。俺があんなことを言ったから」



「君は正常だ。どこも悪くない」



「気休めはいりません。はっきり言ったらどうですか? あんただって、そうなんでしょう? どうせあんたも、俺のことをイカれた奴だって思ってるはずだ」



「そんなことは思っていないよ」



「嘘だ」



「嘘じゃない」



「だったら、信じてくれるんですか、俺の話を」



 ミキオは試すような目付きで相手を見据えた。



「俺の仲間を殺したのは、だった――って」



 あの事件の日、いったいなにが起こったのか。どうして九名もの優秀な隊員たちが命を落とすことになったのか。


 その真実を知る者はいない。ミキオを除いては。


 男が立てこもっている建物に突入し、制圧する――よくある任務のはずだった。ところが、武装した隊員十名が煙幕弾を使って中に立ち入ったところ、そこにいたのは人間ではなかった。


 怪物だったのだ。


 まるでパニック映画のワンシーンのように、得体の知れない大きな化け物が暴れ回っていた。その化け物が仲間を無残に殺し、ミキオ自身にも大怪我を負わせた。


 どのようにして自分が助かったのかは、覚えていない。意識を取り戻したときにはすでにミキオは病院のベッドの上にいて、上司から同胞全員の死を知らされた。部隊は立てこもり犯の襲撃を受け、ミキオを除く全員が銃殺されたのだ、と。



「俺たちを襲ったのは、人間じゃなかった」



 テロリストに立ち向かった勇敢な警官らの死――ニューヨーク・タイムズにはそんな見出しが載っていた。皆、それを疑わなかった。犯人を憎み、英雄の死を悼んだ。


 銃殺? テロリスト?


 ありえない。ミキオは耳を疑った。


 そんなのはでっち上げだ。自分はたしかにこの目で見た。体を裂かれ、踏み潰され、怪物に命を奪われる仲間の姿を。


 入院している間に事情聴取が行われ、ミキオは真実を主張した。なにか人間ではない生き物がいて、そいつが九人の隊員たちを喰い殺したのだと。

 ところが、薬物検査と精神鑑定を受けさせられるだけで、誰もミキオの証言に耳を貸そうとはしなかった。

 非現実的な存在を大真面目に語る男を、周囲は気の毒そうな眼差しで見つめるだけだった。きっと事件のショックで錯乱しているのだ、と。


 このモリスという捜査官だって、どうせ連中と同じだろう。


 そう踏んでいたが、彼はミキオを笑い飛ばすことも、気の毒そうに同情や共感を示すこともなく、ただ大真面目な顔で首肯した。



「もちろん、君の言うことを信じるよ」



 こんな反応が返ってきたのは初めてだ。

 ミキオは内心驚いたが、手放しで喜ぶわけにもいかなかった。

 彼の言葉は本心なのだろうか。どうにも信じられない。適当に話を合わせておいて、自分の心を懐柔する魂胆なのかもしれない。いかにも心理分析官が使いそうな手だ。


 懐疑心を抱くミキオを余所に、モリスは着々と話を進めていく。



「実は、君に会わせたい男がいる。そろそろ来るはずなんだが……」



 彼は壁の時計を一瞥した。時刻はちょうど昼の一時を過ぎた頃合いだ。



「コーヒーでも買ってこよう。長い話になるだろうしな」と、モリスが腰を上げる。



「君はここで待っていてくれ」



 呼び止めるミキオを無視し、モリスは図書館を後にした。


 閑散とした部屋にひとり残されたミキオは、深いため息をつくしかなかった。

 精神病のレッテルを貼られた警官をこんなところに呼びつけて、モリスはなにを企んでいるのだろうか。いったい誰と引き会わせるつもりなのだろうか。

 コーヒーなんてどうでもいいから、さっさと本題に入ってもらいたいところだ。


 図書館の扉が再び開いたのは、その数分後のことだった。

 やけに早く戻ってきたなと思いきや、現れたのはモリスではなかった。

 強い香水の匂いが鼻を刺し、若々しい声が室内に響く。



「遅れてすまない、モリス」



 男が現れ、こちらに向かって歩いてきた。


 いったい誰なんだ。ミキオは目を凝らした。


 見たところ、まだ若い男だ。自分と同じく三十手前くらいだろうか。手足の長い、すらりとした痩身で、黒いタートルネックセーターに黒いスラックス姿、おまけに黒い細身のロングジャケットと全身黒ずくめの格好をしている。それにしても、やけに厚着だ。八月のニューヨークを過ごす格好ではない。


 服装以外においても、その男は実に風変りだった。

 髪の色は、青みがかったシルバーグレイ。両サイドは短く刈り上げているが、前髪は長く癖があり、額に垂れている。肌は異常なまでに白く、血の気が引いているように見える。寝不足なのか隈が濃く、まるでメイクを施したように目の周りが黒ずんでいた。不健康そうで、いかにも怪しげな雰囲気の男だった。



「おや、モリスはいないのか」



 男はきょろきょろと辺りを見渡してから、その切れ長の瞳をミキオに向けた。爬虫類を彷彿とさせるような顔立ちだ。にんまりと唇を歪ませて笑顔を作り、「やあ」と片手を上げる。



「はじめまして、私は――」



 男と目が合った瞬間、ミキオはすぐに気付いた。


 この男を知っている、と。


 見覚えがあった。入院中に何度も病室のテレビで見た。彼の顔写真は、あらゆるニュース番組で連日晒されていた。



「……ティモシー・デイモン!」



 ミキオは勢いよく立ち上がり、無意識のうちに男の名前を叫んでいた。


 ティモシー・デイモン――通称、ニューヨークの人喰い悪魔デーモン。マスコミは彼をそう名付けた。過去に五十七人もの男女を殺した上に、その肉を食べた、正真正銘のサイコパス殺人鬼だ。


 事件が発覚したのは、今から半年前。死体を運んでいるティモシーを目撃した近所の住人による通報がきっかけだった。

 警察が自宅に踏み込んだ瞬間、ティモシーは夕食の真っ最中で、テーブルの上には前菜からメインディッシュ、さらにはデザートまで、丁寧に料理された人肉のフルコースが並んでいたという。

 その上、自宅の庭には五十七人分の死体や人骨が埋まっていたとも報じられていた。


 逮捕された当時のティモシー・デイモンは髪が長く、髭を無造作に生やしていて、マリファナとチャールズ・マンソンをこよなく愛するヒッピーかぶれのような風貌だった。

 ところが、今ミキオの目の前にいる男は髪を短く切り、髭を剃り、すっかり小奇麗になっている。まるで別人だ。

 それでも、その骸骨のように窪んだ目元や淀んだ青い瞳、こけた頬、鋭く尖った耳や鼻は、逮捕当時から少しも変わっていない。彼の正体を見抜くには十分だった。

 目の前にいる男は、あの連続殺人鬼ティモシー・デイモンに違いない。


 ミキオの確信はどうやら当たっていたようで、ティモシーは上げた手を下ろし、「自己紹介は必要なさそうだ」と笑った。



「よくわかったね。イメチェンしたから、今まで誰にも気付かれなかったのに。君は実に勘がいい」



「うそだろ、おい」ミキオは目を疑うしかなかった。



「ニューヨークの人喰い悪魔が、どうしてこんなところに――」



 言葉を失うミキオに、殺人鬼は不気味に笑いかけてくる。



「ニューヨークの人喰い悪魔、か。何度聞いても嫌な響きだ。センスがない。それにしても、マスコミというものはすぐ犯罪者に名前を付けたがるな。

 殺人道化師キラー・クラウン、赤い切り裂き魔、満月の狂人、サクラメントの吸血鬼――センセーショナルな単語で市民の恐怖と興味を煽りたいのだろうが、悪趣味だと思わないか?

 彼らの過剰報道にはうんざりするよ」



「お前、死刑になったはずじゃ……」



 信じられなかった。ティモシー・デイモンの死はあれだけ大々的に報道されていた。入院中、何度もテレビで見聞きしたし、新聞にも載っていた。逮捕から死刑執行まで異例の速さだった、と。


 それなのに、今、ティモシーは目の前にいる。


 これはいったいどういうことなんだ。ミキオの頭は混乱した。

 まさか、刑務所から脱獄したのか? 国はその失態を隠匿している?


 すると、

「ああ、そのことか。それにはいろいろと込み入った事情があってね」と、ティモシーは曖昧に答えた。



「君がミキオ・ジェンキンスだね? どうぞよろしく――」



「動くな!」



 香水の匂いが強くなり、ミキオはとっさに身構えた。携帯していた拳銃を手に取り、歩み寄ろうとする殺人鬼に銃口を向ける。



「そこから一歩も動くな!」



 鋭い声で脅すミキオに、ティモシーは「握手しようとしただけじゃないか」と冷やかすような声色で言った。


 どうして俺の名前を知っているんだ、と問い質そうとした、そのときだった。再び図書館のドアが開いた。



「遅くなってすまない、ジェンキンス君」



 今度こそモリスが戻ってきたようだ。両手にコーヒーを抱えている。



「店が混んでいてね、まいったよ」



 モリスは三人分のカップを持っていたが、ティモシーに銃を向けているミキオを見つけると、危うくホルダーごと床に落としそうになっていた。


 敵対している二人の姿を見比べると、モリスは困り顔でため息をつき、



「……すっかり打ち解けたようだな」

 と、皮肉をもらした。



「おかげさまで」


 銃を向けられているにもかかわらず、ティモシーは平然としていた。耳たぶにぶら下がっている派手なピアスを退屈そうに弄るだけだ。


 コーヒーをカウンターに置いてから、



「ジェンキンス、落ち着け。銃を下ろすんだ」

 と、モリスが諭すような声で言った。


 その一言に、ミキオは目を丸くした。まさか、咎められるのが自分の方だとは思わなかった。



「正気ですか」



「銃を下ろせ」



「この男が何者か、知らないわけじゃないでしょう!」



 ティモシーの顔を銃で指し、


「こいつは人間じゃない! 殺人鬼の化け物だ! 五十七人も殺して――」


ミキオは声を張りあげた。


「その肉を食べたんだぞ!」



 モリスが頷く。



「ああ、よく知ってるよ。俺が取り調べしたからな」



「ニュースではそう報道されていたが、実は五十七という数字は正確じゃない」



 指先で唇を撫でながら、ティモシーがにやりと笑う。



「その百倍は食べたかな」



「イカれ野郎め!」



 ミキオはかっとなり、引き金に指をかけた。



「こら、デイモン。煽るんじゃない」



 モリスが咎めても、口の減らない殺人鬼はにやにやと笑うだけだった。



「なんで、こんな奴が、野放しになってるんだ!」


 

 銃を構えたまま、ミキオは半狂乱になって声を荒らげた。



「その理由を今から説明しよう。だから、まずは銃を下ろしてくれないか」



モリスが説得を続ける。



「頼むよ、ジェンキンス」



「モリス、ここは私に任せてくれ」ティモシーが口をはさんだ。



「説明するよりも、実際に見てもらった方が話が早いだろう」



 モリスは「なにをする気だ」と眉間に皺を寄せ、不安そうに殺人鬼の出方を窺う。ティモシーはなにも答えなかった。



 その代わり、

「早く引き金を引け」とミキオに声をかけ、口の端を上げた。



「私が君を撃つ前にね」



 次の瞬間、ティモシーが動いた。モリスにすばやく近付き、腰に差さっている拳銃を奪い取ると、その銃口をミキオに向けて構えた。


 撃たれる、と思った。


 そして、殺らなければ殺られる、とも思った。


 ミキオはとっさに引き金を引いていた。相手よりも先に、発砲した。


 静かな館内に似つかわしくない、一発の銃声が鳴り響く。


 ミキオの弾はティモシーに命中していた。彼の額の、ど真ん中に。


 ティモシーは即死――――のはずだった。


 ところが――



「……なるほど、たしかにいい腕だ」



 信じられないことに、彼は生きていた。


 頭部に被弾したにもかかわらず、ティモシーは何事もなかったかのようにお喋りを続ける。



「ミキオ・ジェンキンス、さすがはニューヨーク市警が誇る急襲部隊の出身だな。取り乱していながらも、正確に急所を撃ち抜いている。……まあ、急所といっても、人間においての話だが」



 彼の顔を見て、さらに驚いた。撃たれた額の傷が、いつの間にやらきれいに塞がっていたからだ。



「……うそだろ」ミキオは目を剥いた。



「どういうことだ、これは……」



 信じられないことばかりで、頭がおかしくなりそうだ。


 唖然としてその場に佇んでいると、



「見ての通りだよ、ジェンキンス」

 と、しばらく黙っていたモリスが口を開いた。ティモシーから銃を取り返し、しずかに告げる。



「君の言う通り、この男は、んだ」



 

 一発の銃声が図書館内に轟いてから十数分が経ったが、ミキオは未だその場に立ち尽くしていた。目の前で起こった出来事があまりにも理解の範疇を超えていて、ただただ呆然とするしかなかった。


 自分はたしかにティモシー・デイモンを撃った。弾は急所に当たったはずだ。それ なのに、あの食人鬼はぴんぴんしている。ソファに腰を下ろして足を組み、モリスから受け取ったコーヒーを優雅に飲んでいるのだ。

 その姿には、驚愕を通り越して腹立たしさすら覚えてしまう。


 モリスに諭され、ミキオは構えていた銃をホルスターに戻した。半ば、というよりほとんど放心状態だった。

 ソファに座るよう促されたが、殺人鬼に近寄りたくはない。柱にもたれかかるようにして立ち、心を落ち着けようとコーヒーに口をつけた。



「――ウェンディゴ症候群、というものがある」



 なんともいえない空気が漂う中、最初に口を開いたのはモリスだった。



「ウェンディゴというのは、ネイティブアメリカンの間で言い伝えられている、食人種マンイーターの怪物のことだ」



 モリスはティモシーとミキオのちょうど中間あたりに位置取り、まるでFBIのアカデミー生に講義をしているかのような教授然とした口調で説明をはじめた。



「人間が『自分はウェンディゴである』と思い込み、人肉を欲するようになる――これがウェンディゴ症候群だ。家族全員を殺して食べ、1879年に死刑になったスウィフト・ランナーというネイティブアメリカンの男がいるが、彼もまた『自分はウェンディゴに取り憑かれていた』と主張していた」



「講釈は結構です」



 わざわざご丁寧に説明されなくとも、言いたいことはわかっている。ミキオは話を遮り、ティモシーに侮蔑の眼差しを向けた。



「そこにいる殺人鬼も、その病気なんでしょう? 新聞で読みました」



「FBIの取り調べの際、たしかにティモシーは自分がウェンディゴであると主張していた。だから我々も、彼がウェンディゴ症候群であると疑わなかった」



「ところが、実際は違った」



 今度はティモシーが口を開く。



「この私、ティモシー・デイモンはウェンディゴ症候群ではなく、なんと正真正銘、ウェンディゴそのものだったのさ」



 いったいなにを言い出すかと思えば、と眉をひそめてティモシーを睨んだが、相手はこちらに向かって口の端を上げてみせるだけだった。まるで蛇や鰐に狙われているかのような寒気を覚え、ミキオはすぐに目を逸らした。


 咳払いをしてから、モリスが話を続ける。



「信じられないだろうが、ティモシーの言葉は事実だ。死刑が執行されても、彼は死ななかった」



「ウェンディゴは電気椅子じゃ殺せない」長い前髪をかき上げながら、ティモシーは得意げに言った。



「そこで、研究チームが彼の体を詳しく調べてみたところ、たしかに人間ではないことが判明したんだ。ティモシー・デイモンは正真正銘、本物のウェンディゴだ」



「馬鹿馬鹿しい」



 ミキオは彼らの話を鼻で笑い飛ばした。



「ウェンディゴ? 何を言ってるんだ。そんな怪物、この世にいるわけが――」

 と言いかけたところで、唇がぴたりと動きを止める。半年前の記憶が頭を過ぎり、ミキオははっと息を呑んだ。



「いるわけがない、とは言えないだろう?」モリスが低い声で問う。



「現に、君はすでに怪物を見ている」



 彼の言う通りだ。


 特殊部隊が襲われた、あの事件。あの日、自分の目の前にいたのは、まさに怪物そのものだった。



「じゃあ、俺が見たアレは――」



「そうだ」モリスが頷く。



「君は幻覚を見たわけでも、頭がおかしくなったわけでもない。ただ、隠されていた真実を知っただけなんだ。人外の生物ノンヒューマンが、実際にこの世に存在するということを」



 怪物は、存在する。


 ファンタジーの世界にいるような人外の生き物、獰猛なモンスターたち、それらはこの世に実在している。


 信じられないような話だが、他でもない自分自身が、その怪物の目撃者なのだ。モリスの言葉も、ティモシーの正体も、否定するわけにはいかなかった。そうすれば、自分自身を否定することになってしまう。



「だから俺は、君の話を信じると言ったんだ」モリスはさらに続ける。



「国は、ノンヒューマンの存在を隠している。国民がパニックに陥らないために情報操作をしているんだ。例の一件をただのテロリストの立てこもり事件として処理したのも、周囲が君を変人に仕立て上げようとしたのも、そういう理由があってのことだった。だが事実、この世には、ティモシーのように人間に紛れている怪物が多く存在する。そして、そんな怪物が時に、人間に害を及ぼすこともある」



 普通の人間ならば到底受け入れられない内容だが、ミキオにとってそれらの話は、実際にこの目で見て、すでに経験したことだった。



「……俺は、正気なんだな」



 発言を否定され続けたことで、自信を失いかけ、確信が揺らぎつつあった。俺は本当に化け物を目撃したのだろうか、実のところはただの幻覚で、俺の頭がおかしくなっただけなんじゃないだろうかと、自分の記憶を疑いそうになることもあった。


 ――だが、俺は間違ってなかった。


 その事実を知り、ミキオは深く安堵した。


 少しだけ冷静さを取り戻し、落ち着いたトーンで言葉を紡ぐ。



「事情はわかりました。俺もあなたの話を信じます、モリス捜査官」



 それでも、まだ疑問は残っている。ソファで寛いでいるティモシーを指差し、ミキオは尋ねた。



「ですが、その男は、なぜここに?」



 ティモシーの正体が人間ではなく、ウェンディゴという怪物なのだとしたら、それこそ野放しにしておくべきではない。退治してしまうか、それができなければ檻の中に閉じ込めておかなければ。食人モンスターが暢気にコーヒーを飲んでいるこの状況は、明らかに間違っている。



「司法取引だよ」



 答えたのはモリスではなく、ティモシーだった。



「自由を与えられる代わりに、FBIの手伝いをすることになったんだ」



「さっき言ったよな、新しい捜査チームを立ち上げることになった、って」モリスが説明を加える。



「怪物による事件を捜査するために、FBIは極秘のユニットを発足させた。

 The Exceptional Affairs Team特殊事件捜査班――通称EAT。

 そのチームを、こうして俺が率いることになったんだ。

 ここはそのためのオフィスで、ティモシーにはチームの捜査顧問コンサルタントを引き受けてもらった。

 我々が知らない世界のことにも、怪物の彼なら造詣が深いだろうからな」



「そう。いわば、私は人外の専門家だ」ティモシーが指先をこちらに向けた。鋭く尖った黒い爪が嫌でも目についてしまう。



「コロンブスがやって来る前から、私はこの大陸で暮らしてたんだよ。若く見られがちだがね。今日に至るまでの間、この目で数多くの生き物を見てきた。だから、ノンヒューマンに関する知識も豊富だ。きっと君たちの役に立てるはずさ」



「この犯罪者が、捜査を手伝うのか?」



 なにを馬鹿なことを、とミキオが眉をひそめると、



「珍しい話じゃないだろう」ティモシーは一笑した。



「詐欺師のフランク・アバグネイルだって、出所後はFBIで働いていた」



「それとこれとは話が違う。アバグネイルは人を食ってない」



「小切手詐欺で人々を食い物にしていたじゃないか」



「そろそろ本題に入っていいかな、お二人さん」



 モリスが咳払いをした。口論を始めたミキオとティモシーに呆れ顔だ。



「ジェンキンス、君をここに呼び出したのは、オファーをするためなんだ。君にも是非、このチームの一員になってもらいたくてな」



「……え?」



 突然の申し出に戸惑い、ミキオは眉間に皺を寄せた。



「我々が相手にする犯人は、ただの人間じゃない。怪物たちだ。それなりの腕が必要になる。厳しい戦いになることもあるだろう。君は、部隊の中でも優秀な隊員だったと聞いている。その力を、ぜひとも我々に貸してほしいんだ」



 モリスが率いる新たな捜査ユニット・EAT。彼は今、そのメンバーを集めている最中であり、今回ミキオを呼び出したのは、どうやらFBIへの引き抜きのためらしい。すでに怪物と接触した経験がある自分ならば、なおさら適任だと考えたのだろう。戦力として迎えるだけでなく、口封じにもなる。一石二鳥だ。モリスの狙いはよくわかった。精神疾患の烙印を押されて警官を辞めざるをえないミキオにとってみれば、有り難い申し出ではある。


 しかしながら、どうしてもイエスと言う気にはなれなかった。その理由はもちろん、そこにいる殺人鬼のせいだ。



人肉嗜食者カニバリストと仲良く仕事しろと?」ミキオは吐き捨てた。「冗談じゃない」



「カニバリズムという言葉は本来、人間が人間を食べる行為のことを指している。私は人間じゃないから、カニバリストには当てはまらないよ」



「黙れ」



 人間だろうと怪物だろうと、ティモシー・デイモンが人を殺して食べるような生き物であることに変わりはない。そんな奴と一緒に働くくらいなら、いっそのこと、このまま無職になった方がマシだった。



「ありがたい話ですが、お断りします」



 ミキオはきっぱりと答えた。

 すると、モリスの表情が曇った。



「こんなことを言いたくはないが、君の立場は今、かなり危ういぞ」



「どういう意味ですか」



「例の事件についての取り調べやカウンセリングの際に、君は怪物の存在を喋ってしまっただろう?」



「ええ、まあ」



 すべて正直に話した。誰も信じてはくれなかったが。



「それが、なにか問題でも?」



「君は、国家が隠蔽している秘密を知っているわけだ。国にとってみれば厄介な存在だということになる」



 モリスは真剣な表情で続ける。



「国家はこの事実を隠すために様々な手段をとってきた。過去にも、実際に怪物を見たと声高に主張し続けたUMAの研究者がいたんだが、その男は今、精神病棟に幽閉されているという噂だ。周囲からはすっかり気狂い扱いらしい。彼はただ、真実を主張していただけなのに」

 


 モリスの話に、ミキオはぞっとした。


 ――なるほど、明日は我が身というわけか。



「このオファーを断れば、君もその男と同じ道を辿ることになるかもしれない。そのことを踏まえた上で、選んでくれ。我々と秘密を共有し、FBIで働くか。もしくは、このまま警察を辞め、国を相手に戦うか。こちらとしては、ぜひとも一緒に仕事をしたいと考えているんだが」



「俺を脅しているんですね」



「頼んでいるだけだよ」



 理不尽な話だ。あの事件のせいで、あの怪物のせいで、自分の人生は酷い有様だ。なにもかもが滅茶苦茶になった。仲間も仕事も失い、生活も壊れ――なにより、自分が今こうして見ている世界が、すべてひっくり返ってしまった。

 だからと言って、今の自分にはどうすることもできない。今更、怪物の存在を忘れ、何事もなかったかのように過ごすわけにもいかなかった。下手な意地を張らず、ここはおとなしくモリスのいうことに従っていた方がいいのかもしれない、という考えが否応にも頭に浮かんでしまう。

 しばらく黙り込んだあとで、



「……わかりましたよ」ミキオは渋々、了承した。



「せっかく退院したのに、また病院送りにされたくはないんでね」



 行先が精神病棟だというのなら、なおさら御免だ。


 ミキオの返事はモリスを喜ばせたようだ。彼は目を細め、手を差し出した。



「EATへようこそ、ジェンキンス捜査官」



 二度目の握手を交わすと、モリスは「実は、もう手続きは済ませてある」と言い、新たなID――FBIの身分証で、すでにミキオの顔写真と名前が入っている――を渡してきた。用意周到である。この男は最初から、ミキオが必ずオファーを受けると踏んでいたようだ。



「無事に話がついてなによりだ」



 二人の問答を眺めていたティモシーが暢気に声を弾ませた。


 ソファから立ち上がり、

「よろしく、相棒」と、こちらに手を差し伸べてくる。



「ティムと呼んでくれ」



 無視し、ミキオはティモシーに背を向けた。背後で「つれないなぁ」と苦笑する声が聞こえる。



「それで?」と、さっそくモリスに声をかける。



「俺は、何をすれば?」



「まずは、引っ越しだ」



 モリスの指示に、ミキオは首を捻った。



「……引っ越し?」




 ティモシー・デイモンの自宅はブルックリンにある。

 アパートメントと街路樹が並ぶ通りの一角、煉瓦模様の二階建ての建物だ。こんな小洒落た場所で食人鬼が暮らしているなんて誰も想像しないだろうな、とミキオは近所の住人を気の毒に思った。



「新しい家に引っ越したんだ。まあ、ここはFBIが用意してくれたものなんだが。前に住んでいた郊外の一軒家は、マスコミのせいで住所が割れてしまってね。今ではちょっとした観光名所になっているよ。『食人館』と呼ばれているそうだ。家の前で記念撮影してSNSに写真を載せる若者が後を絶たないんだが、肝試しのつもりか勝手に侵入する輩もいるから困ったものだよ。いっそのこと、入場料でも取ろうかな。いい副業になると思わないかい?」



 どうぞ、とティモシーは新居にミキオを招き入れた。



「二階にゲストルームがある。バスルームは一階の奥だ。もちろん、キッチンもリビングも、どこでも自由に使ってくれて構わない。なんたって今日からここは、君の家でもあるのだから」



 これほどまでに嬉しくない言葉があるだろうか、とミキオはさらに鬱々とした気分になってしまった。


 段ボール箱を抱え、この上なく重い足取りで二階への階段をのぼりながら、ミキオは心底嫌そうな顔で文句を垂れた。



「……なんで俺が、こんな人喰いの怪物と一緒に暮らさなきゃいけないんだ」



「仕方ないさ、私には見張りが必要なんだから。二十四時間体勢でね」



 対するティモシーはやけに楽しげだ。



「それに、君は警官を辞めてFBIの所属になったんだから、NYPDの独身寮から出て行かなきゃいけない。新たに住む部屋が必要だろう? 馬鹿みたいに家賃の高いこの街での新居探しは、なかなかに気が重いものだ。これは君にとっても悪い話じゃないと思うがね」



「ここに住むくらいなら、いっそのこと地下鉄にいるホームレスの仲間になったほうがマシだ」



 モリスの話によると――司法取引が怪物にも有効なのかは謎だが――ティモシー・デイモンを自由にする代わりに国側が提示した条件のひとつに、常に監視を付けること、というものがあるそうだ。そして、どうにも納得がいかないが、その監視役にミキオが選ばれてしまったらしい。つまり、職場でも家でも、このニューヨークの人喰い悪魔と常に行動をともにしなければならない、というわけだ。組織にとってみれば、自分など所詮使い捨ての駒に過ぎないのだという魂胆を嫌でも悟ってしまう。


 こんなことなら精神病棟に閉じ込められておくべきだった。その方が少なくとも身の安全は保障されるだろう。モリスのオファーを受けたことをミキオは少しだけ――いや、かなり後悔した。



「……モリスの奴め」と、舌打ちする。



「最初から、俺に厄介事を押し付けるつもりだったな」



「厄介事とは心外だな」ティモシーはわざとらしく目を丸めてみせた。



「君に迷惑をかけるつもりはないよ」



「お前を自由にするなんて、国もどうかしてやがる」



「首に埋め込まれたICチップで常に居場所を把握できる状態を、はたして自由と呼べるかは疑問だが」



 ティモシーは自分の首筋を指差し、苦笑を浮かべた。



「殺人鬼のくせに檻の外に出してもらってるんだ。贅沢言うな」



「それは私に限ったことじゃない。利益と引き換えに、この国はこれまで大勢の極悪人を檻の外に出してきた。司法取引という制度は実に興味深いな。諸刃の剣でもあるが、私に関しては問題ない。FBIとはこれからも良好な関係を築いていけそうだよ」



「どうだか」と、ミキオは吐き捨てた。


 怪物の戯言など信用できない。いつ組織を裏切り、人間に牙を剥くか知れたものではなかった。これから常に目を光らせておかなければ。それが、FBIから自分に与えられた役目でもある。



「洗濯は交代制で頼むよ。ランドリーは3ブロック先にある」



 二階のゲストルームにはシンプルなベッドとクローゼットがあるだけだが、ミキオには十分だった。元々身軽なタイプなので、荷物も少ない。部隊の寮から持ち帰った段ボール箱を運び終えたところで、ティモシーが声をかけてきた。



「荷物の整理が終わったら、一階に降りてきてくれ。夕食にしよう」



 部屋のドアを閉めながら、

「夕食?」ミキオは顔をしかめた。嫌な考えが過り、ぞっとする。



「……まさか、俺のことじゃないよな?」




 荷物の中身は着替えがほとんどで、片付けには十分もかからなかった。言われた通り階段を下り、キッチンへ向かうと、食欲をそそる匂いが漂ってきた。


 広々としたキッチンに、シャツの袖を捲ったティモシーが立っている。傍にあるダイニングテーブルの上には、肉厚なステーキが用意されていた。



「お前が作ったのか?」



「料理は得意なんだ」赤ワインをグラスに注ぎながら、ティモシーが目を細めた。



「君に関する資料に、ステーキが好物だと書いてあった。今夜は君の歓迎パーティだから、特別いい肉を用意したよ。どうぞ、召し上がれ」



 正直、空腹だった。食欲には抗えない。促されるままに着席し、ミキオは目の前のステーキを眺めた。ナイフを入れると、やや赤みの残った断面が現れる。


 ひと口頬張り、ミキオは目を丸くした。悔しいことに、味は悪くない。焼き加減も絶妙だ。見た目からして牛肉だろうと思ったが、自分が普段食べている安物とは味も触感も大きく違っていた。いい肉を用意したというティモシーの言葉は、あながち嘘でもないらしい。



「……うまいな。どこの肉だ、国産か?」



「まあ、そうだね。国産と呼ぶべきかな」ティモシーが曖昧な態度で頷く。



「アメリカ人だから」



 ぶっ、とミキオは慌てて口の中の肉を吐き出した。急激に吐き気が込み上げ、何度も噎せ返っていると、ティモシーが「冗談だ」と笑った。



「笑えない冗談はやめろ!」



「君のは正真正銘、ただの高級牛肉だ」



「俺のは、ってことは――」



 恐る恐る、ミキオは相手の皿に視線を移した。向かい合って座るティモシーの前には、同じように肉の塊が置かれている。


 赤ワインをひと口飲んでから、ティモシーはにんまりと口角を上げた。



「アルミン・マイヴェスというドイツの殺人鬼は、人の肉は豚肉に似ていると言っていたらしいが、私はそうとは限らないと思うな。人間の味は実に様々だよ。その人間の生き様が、それぞれ肉の中に染み込んでいるからね。普段の食事や生活習慣によって、人の美味しさも変わるんだ」



 ティモシーはステーキにフォークを突き立て、持ち上げた肉の切れ端を見つめながら続ける。



「この男は刑務所で規則的な生活をしていた上に、体を鍛えることが趣味だったらしい。そのせいか、食感がどことなく鳥の胸肉に似ているような気がする」



「そいつも」ミキオは震える指でステーキを差した。



「お前が、殺したのか」



「殺したのは私じゃない、この国の法律だ。捜査協力の報酬として、私には国から死人の肉が与えられることになっているんだ。身寄りがなく、葬儀の当てもない死刑囚の肉が、冷凍保存されて送られてくる。私はそれを食べているだけさ」



「……報酬、だと?」



 つまり、人肉を文字通り餌にして、この男をFBIで働かせているというのか。給料が死体のデリバリーだなんて、どこまでもインモラルな話だ。


 FBIはいったいなにを考えているんだ、と唖然としていると、

「どうした、ミキオ。顔色が悪いぞ。……ああ、大丈夫。肉は別々のフライパンで焼いたから、安心してくれ」

 と、ティモシーは笑顔で付け加えた。


 そういう問題じゃない。目の前で人間が食われているのだ。こんな状況で暢気に飯を食っていられるわけがなかった。


 ミキオは乱雑にフォークを捨て置き、席を立った。


 皿から顔を上げ、ティモシーが小首を傾げる。



「おや、もう食べないのかい? 大きな体の割に少食だな」



 誰のせいだと思っているんだ。沸々と苛立ちがわいてくる。



「食欲が失せた」



 吐き捨てるように答え、ミキオは自室に戻った。



―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―



――この続きは本編で!


『EAT 悪魔捜査顧問ティモシー・デイモン』(著:田中三五/イラスト:およ)は、富士見L文庫より、8月15日発売予定です。


※この試し読みは制作中のものです。実際の刊行物では加筆修正される場合があります。

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EAT 悪魔捜査顧問ティモシー・デイモン 田中三五/富士見L文庫 @lbunko

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