初夏色ブルーノート 《演劇編》

野森ちえこ

懐かしくて新しい物語

 時刻は午後二時。あらかたの仕込みをおえて、照明チェックにはいった。役者はしばらくやることがない。

 あたしは舞台監督にひと声かけて、搬入口から外に出た。そのとたん、容赦ない太陽光線に頭部をつらぬかれる。同時に、むわっとした熱気が、ぺっとりと肌にはりついた。

 あなた、ほんとうに五月の太陽ですか。ちょっと熱烈すぎやしませんか。

 物申したところで『それは失礼』とひっこんでくれるはずもない。黒こげにされるまえに移動することにする。


 小劇場としてはおおきめの、座席数三百ほどあるホール。その裏手――搬入口のすぐまえに立つ雑居ビルの地下に、二十四時間営業の喫茶店がある。

 細い階段をおりていった先に広がる空間は案外広く、時代からとり残されたような古ぼけた店内は、さながら秘密基地のようだ。

 合皮のソファがすり切れて、ところどころ中綿まで見えているし、コーヒーはいつきても煮詰まっているし、店員はみんな無愛想だし。飲食店としてどうなんだろうと思わなくもないんだけれど。なぜだろう。不思議と居心地がいいのである。

 そう感じるのは、おそらくあたしだけではない。その証拠――かどうかはわからないが、壁から天井まで、サインや写真で埋めつくされている。その多くが、小劇場出身の俳優やアーティストたちのものだった。


 広々とした店内にはお客の姿もまばらで、席もえらびたい放題だ。

 とりあえず、寒いくらいにきいている、冷房が直撃しないソファ席に腰をおろす。

 水とおしぼりを持ってきた、にこりともしないお姉さんに、いつも煮詰まっているホットコーヒーを頼む。おいしくないんだけど。しかたないのだ。コーヒー以外はみんな五百円以上するんだもの。貧乏役者はつらい。

 いや、どうだろう。たとえお金があったとしても、やっぱりコーヒーを頼んでしまいそうな気がする。

 歌もダンスも芝居も未経験だったあたしが、今のミュージカル劇団にはいって、はや五年。

 ここの劇場に立つときは、この喫茶店でマズいコーヒーを飲むのが、あたしにとっては一種の儀式のようになっている。


「おう」


 そうするのが当然だというように、あたしのまえにするりと座ったのは、元カレの智昭ともあきである。まあ『役の上で』だけど。


「あ、お疲れさま」


 実際はあたしが所属している劇団の先輩で、ほんとうなら、とてもタメ口なんてきける相手ではない。


「おっかけてきたの?」

「んなわけあるか。たまたまだ。たまたま」


 この人を見ていると、なぜかいつもヒョウとかチーターの姿が目に浮かぶ。引き締まった、むだのない体躯がそう思わせるのかもしれない。


「あ、おれもコーヒーね。ホットで」


 あたしが頼んだコーヒーを持ってきたお姉さんが、やはり無表情のまま「かしこまりました」とうなずく。

 まるでそれが合図だったかのように、今回の芝居のテーマ曲が流れだした。


 この喫茶店のオーナーは、じつは劇場のオーナーでもある。そのため、店で流すBGMは、公演期間中の舞台に関係するもの、うちのようにオリジナル曲をだしている場合はそれを流してくれるのだ。


「ここでこうして聴くと、なんか懐かしく感じるな」

「だねえ」


 あしたが初日の舞台で歌う曲を『懐かしい』というのもおかしな話だけれど、それには理由がある。


 今年は劇団の創立十周年で、さまざまなイベントが企画されている。あすからの舞台もそのひとつだ。

 お客さんに実施したアンケートでえらばれた上位三作を順に再演することになっていて、その第一弾なのである。


 今回えらばれた三作のなかでは、一番新しく、初演は二年まえ。

 あたしにとっては、はじめてメインキャストにえらばれた、特別な舞台でもある。

 それだけに、まだ二年という気持ちと、もう二年という気持ちがないまぜになって、なんだか不思議な気分だ。

 たかが二年。されど二年。

 あたしは、多少なりとも成長できたのだろうか。


 ♭


 はじまりは、二年まえの冬。

 その台本をもらったのは、新しい年が明けてまもなくのことだった。


 戯曲のテーマは肉体労働者。

 季節は夏の入り口。

 舞台は工事現場。

 そこで働く若者たちの恋と夢と人生。

 楽曲の中心はロックとブルース。


 わからなかった。

 そこに描かれていることが、なにひとつわからなかった。


 高校卒業と同時に劇団に飛びこんだあたしには、社会人経験どころかバイト経験すらろくになかったし、道路工事とか、遭遇すればただうるさいとか邪魔だとか思うだけで、そこで働く人たちに思いを馳せたこともない。

 かといって、演劇ひとすじできたのかといえばそんなこともない。高校の芸術鑑賞会でこの劇団に出会うまで、舞台に立つなんて考えたこともなかった。

 たぶん、あたしは演劇そのものではなく、この劇団の舞台が好きなのだと思う。

 なんにせよ、入団して三年。それまで、モブに毛がはえた程度の役ばかりだったあたしが、はじめてもらったおおきな役だった。

 役者としての姿勢を、問われているような気がした。


 ♭


 あたしの相手――智昭役の先輩は、学生時代にバンドをやっていたらしく、知識も豊富だった。音楽が好きで、ミュージシャンを目指しているという設定の智昭は、まさにはまり役だろう。

 今回の楽曲はすべて『ブルーノートスケール』というものがつかわれているのだと教えてくれたのも先輩だった。

 メジャースケールに、第三、第五、第七音を半音さげた音をくわえているのだとか。でも本来は、半音単位ではあらわせないくらいの、微妙なニュアンスのものなのだとか。

 そもそもメジャースケールってなに。というレベルだったあたしには、いくら説明されたところでちんぷんかんぷんだったのだけど。

 いずれにせよ、いつも耳でおぼえていたあたしにとって、そこはたいした問題ではなかった。理屈などわからなくても歌うことはできる。


 工事現場は、とにかく見学した。取材した。怖い顔のお兄さんが、がんばれよと缶コーヒーを奢ってくれた。

 できれば女性の話を聞きたかったのだけど、当時あたしが行けた範囲の工事現場には、残念ながら女性の姿はなかった。

 それでも、事務所のおっかないお姉さんの話とか、交通誘導のおばちゃんの話とか、現場のおじさん、お兄さんたちからいろいろ聞かせてもらえたので、役づくりの材料は最低限手に入れることができた。


 どうにもならなかったのは、恋愛方面である。

 それまで、いいなあと思った相手は何人かいたけれど、いずれも恋まで成長することはなく、片想い未満で終了してしまった。

 当然ながら恋人がいたことなどない。つきあったことがないのだから、『元カレ』なんて存在もいない。

 恋人同士の距離感なら、どうにか想像することはできたかもしれないけれど、元恋人同士の距離感なんて、どう想像すればいいのかすらわからない。なのに、あたえられたのは『元カレとおなじ現場で働くことになった女の子』という役どころなわけで。


 いったいどうすればいいのか。文字どおり、あたしが頭を抱えていたとき、智昭役の先輩がいったのだ。


 ――思うんだけどさ。恋愛とか元カレとか、そういう括りで考えるからダメなんじゃねえの?


 一瞬、なにをいわれているのか理解できなかった。だってそういう設定なんだもの。


 ――だから、一般的な価値観で漠然と考えんじゃなくてさ、明子あきこの気持ちを徹底的に考えてみたら?


 目からぽろりと鱗が落ちた。

『わからない』という気持ちが先行して、一番大切なことを忘れていた。

 考えるべきは一般論ではなく、明子の気持ち、価値観、人生。


 そうして、あらためて台本を読みこんでみれば、でっかい鱗のせいで見えていなかったものが見えてきた。


 たとえば、ふたりの別れ。

 つきあっていたのは高校時代で、卒業して進路が別れたことで、ふたりの関係にも区切りをつけたといったような、案外さっぱりしたものだったらしいということ。

 また、一度男女の仲になり、その関係を解消したからこそ結べる友情のようなものがあって、現在はお互いにそれを感じているらしいということ。

 台本からは、そんなことが読みとれた。

 読みとれたからといって、それを表現できるかといえば、それはまたべつの話なのだけど。とにかく、最初の一歩は踏みだせた。


 そして。


 ――よし、わかった。たった今から敬語禁止にしよう。


 根気強く、あたしの自主稽古につきあってくれていた先輩が、ある日そんなことをいいだした。


 ――で、これからは、普段からおまえのこと『アキ』って呼ぶから。おまえもおれのこと『トモ』って呼べ。


 ――え、無理で


 ――敬語つかったら罰金な。一回百円。


 ――ええぇ……


 ――おれたちは、むかしつきあってた。そういう設定の、二十四時間エチュードだと思え。


 むちゃくちゃである。けれど、先輩後輩の、タメ口をききにくい現実の距離感を、そのまま明子と智昭の微妙な距離感に活かせないかと思ったらしい先輩の狙いは、たぶん成功した。

 恋愛経験皆無のあたしのなかに元カレが存在するという、不可思議な感覚を体験することになったのだから。


 そうして、二十四時間エチュードを知ったほかの団員たちからも『アキ』とか『アッちゃん』と呼ばれるようになり、いつしかあだ名として定着した。

 ちなみに、罰金はかれこれ千円を超えた。千円もかかったというべきか、千円ですんだというべきか。稽古場には、今も罰金用のこぶたちゃん貯金箱が置かれている。今後、ほかの誰かが活用するかどうかは未定である。


 それから二年。


「相変わらずまっずいなあ、ここのコーヒー」


 うげえといいながら、きれいに飲みほした先輩の顔は笑っている。


「でも、ここではこれを飲まないと、なんか調子出ないんだよなあ」

「あ、やっぱりそう?」

「なんだ、アキもか」

「うん」


 うなずいて、ちびちび飲んでいた猫舌のあたしも、最後のひと口を飲みほした。


 えぐい。渋い。マズい。

 それなのに元気が出るなんて、我ながらどうかしていると思う。


「ゲネのまえにセリフあわせとくか」

「あ、うん。お願い」


 それぞれ会計をすませて細い階段をのぼっていけば、ギラギラと、やっぱりハリキリすぎの五月の太陽に出迎えられる。


 自然と、あのメロディが口からこぼれた。

 物語のなかで、智昭がいつも口ずさんでいる曲。

 舞台のタイトルにもなっている、物語のテーマ曲。


 あたしの声に、先輩の、いや、智昭の声が寄りそい、重なっていく。


 キャストも台本も劇場も、二年まえとおなじ。

 だけどきっと、二年ぶんは成長しているはずの、懐かしくて新しい物語。


『初夏色ブルーノート』


 本番まで、あと一日



     (おしまい)


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