Chapter19・有能でも語学マウントには繊細だ
高一 9月 月曜日 5限 英語コミュニケーション
「あなた! バカにしているの?」
怒気を孕んだ叫び声と共に椅子を引く音が、教室に響き渡った。俺のみならず、コミュニケーション英語のグループワークをしていたB組の生徒全員が声がしたグループに目を向ける。立ち上がって苛立った様子の姫野さんが睨みつけているのは……和歌だ……。驚いた表情から立ち直ると毅然として話し出す。
「バカになんてしてないわ! 私は普通よ! すごくなんかない」
「それがバカにしているって言うのよ! 数か国語話せる人が普通な訳ないじゃない! それとも何? 一生懸命勉強しても話せない私は普通以下の落ちこぼれってこと?」
「そんなことない! 姫野さん、あなたの英語は上手よ!」
「でもあなたより下手でしょう?」
「それは……」
「ほら! やっぱり心の底では見下していたんじゃない!」
「だから違う! 違うの! 私は――!」
怒りをあらわに応酬する姫野さんの迫力に気圧されてか、次第に和歌の毅然としていた態度も崩れ去り、彼女の瞳には涙が滲んで見えた。そこで同じ姫野グループでワークをしていた冴上が制止に入る。
「真鶴さん、理由はどうあれ姫野を怒らせたんだからここは一度謝っておこうよ。な?」
「遼? 謝るって……私が悪いの? だって、私は……!」
和歌は愕然とした表情をしていたが、俺は内心良い判断だと感心した。ここで姫野さん側を制止していたら余計に姫野さんのプライドが傷つくだけだ。
「『私が悪いの?』ですって? あなた自分のしていることに自覚がないの?」
だめだ、和歌の言葉選びも良くないが、更に悪いことに肝心の姫野さんにも冴上の意図が伝わっていない。そりゃ怒りで冷静さを欠いていれば仕方ないか。俺も口論の制止を手伝うかと席を立とうとしたが荒竹先生の方が一歩早かった。
「姫野も! 声を荒げるのは止めてまずは座りなさい!」
(チッ……)普段は荒竹先生の公開処刑タイムでも怒りの感情は抑える姫野さんだが、今日は苛立ちを隠す様子もなく舌打ちを打つと不満げに席に着いた。荒竹先生にもはっきりと聞こえていたようで、彼は一瞬顔を曇らせたものの、姫野さんを追求しないで和歌に俺のグループに戻るよう指示を出す。
(先生やるじゃないか)嫌味な先生だとは思っていたが、肝心な時には感情を抑えて冷静に振舞う彼の態度に感心してしまう。
しかし先生への感心もこちらに帰って来た和歌を見るや俺の意識から消え失せる。和歌の足取りは重く、見るからに落胆した様子だったからだ。席に着く瞬間、虚空を見ていた瞳と目が合ったように見えた俺は何か声をかけようとしたが、かけるべき言葉が見つからない。
「和歌……」そう名を呼ぶのが精一杯だった。下らない冗談にしか回らない自分の舌が腹立たしい。
「ごめんなさい。今は放っておいて」
そう言うと和歌は自席に突っ伏してしまった。まずいな、このまま休み時間に入るとクラス中のみんなに和歌と姫野さんの動向が見られてしまう。授業はあと15分か、どこか邪魔がいない場所で何があったのか吐き出させて落ち着かせないと……。少なくとも休み時間の教室でするべきじゃない! そう感じた俺は脊髄反射で立ち上がっていた。
「先生!」
「なんだ? どうした? 米沢?」
授業を立て直そうとグループを再び回っていた荒竹先生がびっくりした様子でこちらを見る。
「すみません! 英語が分からなすぎるんで保健室行っていいですか?」
「分かった。行ってきなさい……ってな訳あるか! 英語が分からないからこそここにいるべきだろう! それとも先生の授業が下手だってことか?」
ノリツッコミに自虐ネタまで含めて荒竹先生が返したことで、クラスにクスクスと笑いが起きる。この雰囲気ならいける!
「いえそんなことないですよ。ただ真鶴さんと行けば保健室でも教われると思ったんです。ダメですか?」
「分かった。真鶴さんと一緒に行ってきなさい」先生は微笑と共に頷くと退出を許可してくれた。
よし! 分かってくれた! 先週フランス語マウントを謝ってから急に丸くなったな。先生、見直したぞ! 内心ガッツポーズを取りながら和歌を見ると、名前を呼ばれて重たげに頭を上げたところだった。
「和歌、行くぞ」
「うん……」和歌は小声で返事をすると、うつむいたまま立ち上がる。
手を引こうかと思ったが、クラスメイトの視線が集まっていて躊躇してしまう。そんなここぞという時の自分の意気地無さに歯がゆさを感じながらも教室後部のドアを目指して歩き出すと……。
「待って……」か細い声でそう俺を引き留めた和歌がシャツの左袖を掴んできた。俺はそのまま和歌を引き連れて教室を去った。
***
「和歌、もしかして泣いてる?」
「…………」
保健室に向かう道中、問いかけた俺に対して和歌は無言で見返してくる。泣いては……いないようだが、まるで生気が抜けたように憮然として、瞳は沈んでいた。
「ごめん、見れば分かるんだし質問が悪かったな。くそっ、いつも冗談ならいくらでも思いつくっていうのになんでこんな時には言葉が出ないんだ」
「……いいの。今回は英紀は悪くないんだし」
「それ、いつも俺が悪いみたいに聞こえるぞ」
「あ……ごめんなさい」
「謝るなよ。和歌らしくない。……と言っても無理か。あんなことがあったばかりじゃな……」
「心配させてごめんなさい。朝はあんなに自信があるって言ったのに」
そう語ると和歌はまた俯いてしまう。朝見せた自信が微塵も感じられない様子を見て俺はいたたまれなくなり、何か良い言葉を紡ぎ出すために事の経過を思い出す。
「バカにしているの?」と怒りと共に立ち上がる姫野さん、動揺した様子の和歌。
そもそも姫野さんがあんなに感情をあらわに怒るのも珍しい。騒がしい男子を呆れ顔で注意することはよくあるが、特に女子同士でそんな態度をとるのは見たことがない。紛れもなく女子カーストのトップにはいるけれども、彼女は尊大な女王じゃないんだ。姫野さんについて思いを巡らせていると、ふと先週彼女と会話した時の言葉を思い出す。
――女の子は今の自分の感情に共感を求めているのよ――
(そうだ! 共感すれば良いんだ。和歌の話を聞いて共感して、和歌は悪くないと慰める言葉をかければいいんだ。ん? 慰める……?)
思い付きで姫野さんの女心アドバイスを実行しようとしたものの、何かしっくり来ないものを感じた俺は直前で思い留まった。
(なんだろうこの違和感は。今現在の和歌の感情への共感? ということは同情? 和歌が同情を求めるだと? いや、違う! 始業式の時も俺がもし慰めていたらむしろ惨めな気持ちになっていたと言っていたじゃないか。ならばここで空気など読むものか!)
「よし! 和歌! 決めたぞ! 俺は落ち込んだ女子に気の利いた言葉なんてかけられる奴じゃないから、ひとまず俺が和歌にしたいことを話すぞ」
「英紀?」
心機一転して話し出した俺に驚いたのか、和歌は肩をびくりと振るわせる。こちらを向いた瞳にはまだいつもの気丈さを感じさせる煌めきがない。ならば俺がまた灯していつもの和歌に戻してやるまでだ! 内心で決意した俺はいつもの気楽な口調で語りかける。
「この前俺は和歌を前向きな気持ちで手伝いたいって言っただろう? だからそのためにまずはさっき起きたことを詳しく知りたい。その為に次の授業は休もう。休んで保健室で話を聞かせて欲しい」
「え……でも……」
「どうした? 話したくないか? 話したくない気持ちも分かる。けど起きてしまったからには後悔しても仕方がないからな。これからどうするか考えよう」
この言葉を選んだのは正直賭けだった。もし和歌が今その場の感情への共感を求めるタイプの女の子だったら、俺は聞いてもいないアドバイスをするウザい奴認定されてしまうかもしれない。そんな心配と共に俺は歩きながら思案する和歌を見守る。保健室まであと数歩という所で立ち止まり俺に向き直る和歌。
「英紀が言う通りよ。悔やんでいても何も変わらない。話すわ」
「よし! そう言ってくれると思ったよ! じゃあ行くぞ!」
俺は授業中に保健室に休みに来た生徒らしからぬ勢いで保健室のドアを開けた。
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