第5話 赤い渦

人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜を

われぬらん願い


──与謝野晶子『みだれ髪』


***


1

 大学生として避けては通れないものがある。飲み会である。

 いくら適正飲酒が叫ばれ、個人主義が標榜される時代になっても、学生としての生に充足を求める者は飲み会に参加しなければならない。飲み会は大学生が求める多くのモノを手にいれるまたとない機会であるから。

 友人、恋人を得ることはもとより、時には大学生にとって命と金の次くらいに大事である単位がやり取りされることすらある。大学生が大学生らしく生きるには飲み会に参加するのがよい。

 だが、勘違いしないで欲しい。私は飲み会が好きではない。むしろ苦手である。飲み会の重要性は百も承知であるが、積極的に参加したいものではない。

 飲み会の基本は無礼講。らんちき騒ぎこそが飲み会である。皆が酒の痺れにまかせて、場に溶け込けこむことで一体感が生まれる。飲み会は一種の儀式である。

 悲しいかな私のように、その儀式にうまく参画できない者がいる。臆病な自尊心と尊大な羞恥心が場へ同調することを拒む。薄弱な自我が場へ溶け込んで消えてしまうことを恐れるのかのようである。

 初めから飲み会に行かなければいいのだが、つい参加だけはしてしまう。今日はうまくできるかも、楽しめるかも、と。そして後悔し、帰宅して枕を涙で濡らすことになるのである。

 さて、そんな私が今回例によってうっかり参加してしまったのは、所属する日本史学研究室の忘年会である。

 左隣では、近年の大河ドラマでの今川義元の扱いについて熱い議論が交わされている。右隣では、司馬遼太郎の歴史小説にしばしばでてくる「男好きのする女」とはどんな女性かについて更に熱い意見が飛び交っていた。

 私と言えば、誰かが頼んだサンマの塩焼き(宴会で最も注文するべきではない料理の一つ!)の皮と骨を丁寧にとり、身をほぐすことに専念することで、自身の存在を抹消していた。

 正直話に混ざりたい。今川義元の扱いについては私も一家言あったし、「男好きのする女」について、かつて三日三晩考えた末だした結論を披露したかった。

 しかしそれはできない。私がこの飲み会において私自身にあたえた役割は人間サンマほぐし機であった。

 

2

 今、私の真正面の席には誰もいない。席はくじ引きで決められ全ての席が埋まったはずだ。それが空席となっているのは、その席を割り当てられたのが幹事であったからだった。

 幹事は大学院生の先輩で、今は各席を回って教授をはじめとする研究室の主たちに酌をしているようだ。

 サンマと戯れるのに飽きた私は気付くと雑多な宴会の会場をせわしなく、しかしどことなく優雅に動き回る先輩を目で追っていた。

 肩ぐらいまでの茶髪が揺れている。腰にはヒラヒラしたスカートを巻いていて、金魚のようだと思った。

 少し色が黒く、惜しいと思う反面、健康的で好感がもてるとも言える。体つきは引き締まっていると言ってよく、スポーツをしていることが伺われた。目は吸い込まれそうなほど大きな黒目が特徴的だった。男好きのする女とはこういう女だと右隣の野郎共に教えてやりたい。

 もうすぐ先輩が眼前にやってくるという事実に気付いた私は早くなる鼓動を黙殺し、サンマをほぐす作業に戻った。しかし、宴会でこんなに食べにくいものを頼んだのはどこのどいつだ。


「あ、わたしのサンマ」


 なるほど、全て謎は解けた。まったくよくもサンマなどという面倒な食い物を注文したものだ。この先輩はかれこれ5年以上学生をやっているだろうに、飲み会の作法もわからんのか。先輩だろうが関係ない。ここは一言文句を言ってやらねば!。

「さ、サンマ好きなんですか?」

 勘違いしないでほしい。断じて目の前に来た先輩が思いの外可愛かったから無難な言葉を投げてしまったのではない。これは言葉のジャブである。間合いを量り、強烈な罵詈雑言を加えてやるのだ。


「うん!大好き!」


 強烈なカウンターであった。テクニカルノックアウト。


3

 研究室というのは、学部生にとってはなかなかに入りにくいところである。教授と鉢合わせたらなんと挨拶したらいいのかわからないし、荷物を置いた席が名物院生たち(何年も大学院生をやっている職業院生の連中)の特等席であったりしたら何をされるかわからない。

 私のような人畜無害な学部生は、そんな魑魅魍魎跋扈する場所には余程のことがなければ踏み込まない。だが、学部生の中にも神経が図太いのか、あるいは無神経なのか知らないが、研究室を根城にしている者が少数いる。私は講義の合間をぬってそうした連中に接触し、例のサンマ好きな金魚みたいな先輩について情報収集した。

 情報の対価として、時には代返したり、またあるときには昼飯を奢ったり、涙ぐましい調査の末、私は金魚先輩がかなりの確率で研究室にいるという時間帯を突き止めた。

 そして二月初頭のある朝。大学特有の異様に長い春休みに入る直前。入念な会話シミュレーションをした上で、私は研究室のドアの前に立った。まず先輩を見つけたらこう言うのだ。いやー立春なんていっても全然寒いですねー。


「おはよー!さむいねー!」


 奇襲を受けた。私は籠から転げ出る今川義元もかくやという勢いで研究室のドアを開け、先輩の道を空けていた。


「おう!ご苦労!」


 そういって先輩はヒラヒラと手をふり、研究室へ入っていった。

 完全に出鼻をくじかれた私は結局自分から話し掛けられず、席に座ることもできず、適当に論文集を棚から引っ張り出して、無駄にコピーをとる作業に終始した。今日に限って研究室には私と先輩の二人きりだった。

 時計の針が12時を指そうとしたとき、視界の隅に見覚えのあるヒラヒラが……


「ねえ、ご飯もう食べた?」


 またもや不覚をとった。


「え、いや」

 

 と言ったあときっちり三秒硬直した末に、まだです、と答えた気がするがよく覚えていない。


「じゃあ、食べに行こうよ」


4

 ここでワンチャンあるかも!などと思ってしまうのは素人である。金魚先輩が私を昼食に誘ったのはなんのことはない。席取りと荷物番のためである。

 昼時の学食は混む。席の確保と荷物の安全のため複数人で乗り込むのが常識だ。よって孤高の人である私は学食をほとんど利用しない。

 席取りと荷物番を任じられた私は窓際のテーブルを確保し、先輩を待った。先輩はどんな昼食をチョイスするのだろうか。

 五分ほどしてお盆を持った先輩がやって来た。お盆の上にはカツカレーが鎮座していた。

 先に食べていてください。と言って私は席を立った。


「やだなあ。そんな薄情なことしないよ」


 待ってるからね。そう言われて私は今川義元の首をあげんとする毛利新介が如く猛然と券売機へダッシュした。

 気付くと私はカツカレー大盛の食券を握って列に並んでいた。

 ──しまった。無意識に先輩と同じものを選んでしまった!恐るべしカツカレー!なんとなく選んでしまうメニュー二十年連続ナンバーワンは伊達ではない。

 だらだらと背中を汗が流れる。先輩はなんと思うだろうか?あぁ、席は窓際じゃないか。外から研究室の連中に見られでもしたらどうする?食券を買い直すか?いや、先輩を待たせるわけには……

 そんなこんなで狼狽えている内に自分の番が来てしまい、お盆にカツカレーが置かれた。 

 震える手でそれを抱え、席まで戻る。落ち着け私。こんなときはカレーについて考えろ。このカツカレーをいかなる手順で食すか。シミュレートするのだ。

 カレーの基本を思い出せ。まずはよく観察することだ。学食のカツカレーがいかなるバランスによって成り立っているか見極めろ。

 ルウとライスの割合は五対五、いや十三対十二と見た。カツは縦五センチ横十二センチといったところ。六等分されている。この構成は一般的なカツカレーの枠に収まると言っていい。 

 平均的なカツカレーを攻略するのであれば、ここはやはり定石をとるべきである。

 まず第一手はカツから入る。ジンクスに近いことだが、私はカツを食べるときには左から二番目からと決めている。両端は脂身が多く、初手両端は味覚が鈍るのではないかという懸念から避けている。

 次にカレーをすくう。体に近い方から食べていくと仮定し、脳内でスプーンを動かしてみる。カツ→カレー→カレー→カレー→カツ→カレー→水のテンポが最善と見切った。

 ルウと米の量には細心の注意を払うべきだ。ルウと米をバランスよく食べられない者は無能の謗りを受けることになる。カレーの分量も量れないものに、世の仕事が勤まるはずもないのである。ましてルウと米をかき混ぜて喰うなど、人としての理性の欠片もない蛮行であると知れ。

 席に戻る僅かな間で、完璧なカツカレー攻略手順(二十一手詰)を構築した私は完全に落ち着きを取り戻していた。

 音をたてずにお盆を置き、済ました顔で一言お待たせしましたと先輩に詫びておく。


「お待たせし申した」


 なんか変な噛み方をした。


「それじゃあ、食べよっか」


 まさかのスルー。動揺で攻略法はすっ飛び、私は白米を素手でひっつかんで口につめた。

 一方の金魚先輩はぐるぐるとカツカレーをかき回し、皿の上に阿鼻叫喚地獄を出現させていた。

 目の前が真っ暗になった。


5

 百年の恋も醒めるなどという経験はなかなかできるものではない。したいものでもない。 

 かつて希代の名将北条氏康は、その子が汁かけ飯を食う際にちまちま何度も汁をかけて食うのを見て、北条家の滅亡を悟ったという。毎日食べている汁かけ飯の汁の分量も量れない者に、国が治められるはずもないからである。

 カレーライスもそうである。ルウと米をバランスよく食せないものは仕事ができないに違いない。

 だから先輩は仕事ができないだろう。

 いつまでたっても博士論文を書き上げられず、いつまでたっても研究室に居続けるだろう。

 いつまでたっても研究室にいて、いつも愛想よく挨拶してくれるに違いない。ヒラヒラと手を振ってくれるのだろう。


 きっといつまでも金魚先輩を拝むことができる。それなら少しは研究室に行ってもいいと思えた。

 

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