■ログ
6:30 起床
7:00 朝食、30分後に出社
1:00 就寝
仕事をしているなら決まった時間に起き、決まった時間に寝るのは、誰もがする行動ではないだろうか。
自分が何をしていて、どんな人間なのかを知る必要があるらしく過去の記録を見て思い出さないといけないという。
本当に、記憶がないんだな。
部屋の扉が開く。
自分の妻だという女性が、おだやかな表情でこちらを見ている。
「あ、おはよう」
「おはよう、気分はどう?」
そう言って、近くまで来た。ベッドに腰を下ろす。
流れてきた髪を耳にかけたかと思えば、唇に触れたやわらかい感触に、思考が止まる。
「あなたとの、これまでの思い出が無いのは、正直寂しいわ。でもね、これからまた、築いていければ良いとも思ってるのよ。過去のログを見るの、辛くない?」
何もかもが無い今、目の前にいる女性は、他人だ。ログには自分だったらしい人物の行動がある。仕事を休むにしても体調を悪くして、病院へ行く。家族の為の休みなどだ。
とても良い男だったんじゃないだろうか。ログがあるから真似をしようと思えば、出来ないこともない。だが、今の自分には難しいなぁ。
「あ、その、ありがとう。大丈夫、辛くないよ」
「そう? 朝食にしましょうか。食べられそう?」
考えることが多いな。今は身体をリラックスさせよう。ベッドから立ち上がり、息を大きく吸い込んだ。
「いい匂いがする、食べようかな」
4つの椅子に、それ用のテーブル。見映え良くセットのを買ったのか、子どもが居て既に自立。或いは自分と妻の両親と、一緒に住んでいたが他界した。
「あなた? どうかしたの?」
「いや、何でもない」
ランチョンマットが敷いてある。焼いた食パンの上には、刻んだ野菜にスクランブルエッグ。
きっちりした性格なんだろう。自分の記憶が無いのは、他の場所での事故だ。妻である人物を疑ってしまうなんて、やはり、ログにある人物らしくは…──ん?
「なぁ、ログは、その──君の分もあるのか?」
「えぇ、あるにはあるけど。あなたみたいに細かく残してないわよ? それに、自動的に記録されるよう設定してないし。私のは日記だから」
「それでもいいんだ、見せてくれないか。僕だった人物のログはどうも単調すぎるんだ。夫婦なら、何か影響し合ってるはずだろ?」
君は少し悲しそうな顔をする。
「あなたが辛くないなら、それでいいわ。担当医からはログを見せてみて様子をみる、そういう指示があったけど。あなたは、あなただから、何者にもならなくていいのよ」
君はタブレット端末を持ってきた。
年と、月日。君のなかで印象に残った出来事。事前に聞いた通り、日記だった。
「あなたね、僕は面白い人間じゃないからって、私が好きなドラマのワンシーンをサプライズとして用意してくれた事があったのよ。慣れてないから、すごくぎこちなかった。でも、嬉しかったわ」
指を横にスライドする。画面に表示されている本は、ページが捲られた。
「プロポーズのときだったかしら。ぎこちなくても沢山してきたから、アイデアが出たんだと思うのね? 買って数日ほどの本を開いたら、中に指輪があったの! 段ボールを本の形にして、印刷したのを貼っただけなんだから、よくよく考えたら重さが違うのに」
「勘の冴える人を驚かせられたら、嬉しいものだよ」
君の頬に、ツゥ──…と、涙が流れた。
「なにか、思い出した?」
「何をだ?」
「今さっき言ったこと、当時のあなたも言ったのよ」
客観的に見た感想とでも言うか。自分が今さっき言ったことが、妻が愛してきた僕なら、なんというか、淡白な人物ということになる。いろんな人間がいる。感動が薄いのが悪いということではない。思いを共有するという部分では、まあ、苦労しそうだけどな。
「ごめん、わからない。でも少しだけ、僕のことが知れて嬉しいよ」
「本当に、無理しないでいいからね」
朝食を済ませた後、1時間ほど寝たようだった。ログにそう記録されていた。
新幹線は驚くほど速くなり、空を飛ぶ車も出てきた。通信網はさらに発展し、位置情報をオンにしておけば、その日何をしたか記録できるアプリが登場した。
ログは始めこそは必要なときに設定をオンに出来て、利用する人も少なかった。未知の疫病が広がってからはダウンロード数も増え、自動的に記録される仕様も改良されて、誤差が気にならなくなった。
どこで何をしたか解れば、最悪感染しても理由がある、広げない為の意識改革としてニュースでも話題になっていたな。
そんな出来事もあったよな、と頭の隅から記憶が転がってきた感じがした。
やはり単調だったが、当時の不安が記録されている。買い物した記述はあっても、物を1つか2つ。その日は薬局へ行き数日分足りるように日用品が買われたことが残っていた。
その日と、妻の日記が類似しないかとページを探す。僕という人物と同様、不安なことが妻の言葉で綴られていた。自動的に記録された箇条書きより、人が綴る言葉には、不思議な感覚がする。熱が込められているというか、あぁそうか、誰かが残したと想像しながら読むから伝わるんだ。
〝この日を境に、あなたは変わってしまったのかしら〟
意味深な文面に、心臓が跳ねた。これは妻の日記だ。季節のイベント、作り出したサプライズ、そういった解りやすいファイルではない。普段の何気ない日常も含まれて、印象に残った出来事が記録されているんだ。
この一文から過去のページへ戻っても、僕という人物に変化の兆候となるものは、何処にも無い。
どれも、絵に描いたような、楽しい日があるだけだ。
思い出すべき事なんだろうか、思い出すことで、妻の悲しい顔を見ることになったりしないだろうか。
単調なログ、客観的で淡白な人物、僕は、どういう人なんだ?
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