金魚鉢の中の金魚

Jack Torrance

心を閉ざした僕

僕は2年前にパパにペットショップで買って貰った金魚鉢の中をのっそりと泳いでいる金魚を食い入るように眺めていた。買った当初は1いんちにも満たなかった金魚が今では5インチの大きさに育っている。金魚にとって金魚鉢は手狭な存在になってきている。餌を上から投入すると金魚はパクパクと口を動かし貪っていた。その光景を見て声にならない声を発している入れ歯の無い老人を僕は連想した。僕が買って貰った金魚は黒い出目金だ。此奴にとってそのでかい目ん玉から見えている金魚鉢の外の世界はどんな風に見えるんだろう。僕はそんな事を考えていた。するとパパが仕事から帰って来た。パパが帰って来たのにも気付かなかった僕は金魚鉢の中の金魚に心を奪われていた。窮屈そうに金魚鉢の中を泳いでいる出目金の単細胞的脳内に思いを馳せていた。パパが僕の背後からタイを緩めながら言った。「よお、ミック、今日学校はどうだった?」僕はその声でパパが帰っている事に気付き踵を返して満面の笑顔で言った。「パパ、お帰り。今日は体育の時間でチャックと100メーターダッシュで競走して勝ったよ」パパはさもありなんといった表情で言った。「そりゃ当たり前だ。チャックはでぶっちょで足も短いからなあ。チャックに負けたらお前はパパの子失格だ。ところでミック、お前、何で金魚鉢の中をじーっと見てたんだ?」僕はまた金魚鉢の中の金魚に目を移して答えた。「この金魚鉢も此奴にとって小さくなってきたなあって想ってたんだ。それにね、このでかい目ん玉から金魚鉢の外の世界はどんな風に見えるんだろうかなあって想ってたんだ」僕の答えを聞いてパパが僕の頭の位置まで身を屈めて真剣な表情になって金魚鉢の中の金魚を見つめながら言った。「そうさなあ、言ってみれば、そのまんま此奴は金魚鉢の中の金魚って事しかパパには言えないな。まあ、俗に言う井の中の蛙大海を知らずって奴だな。此奴らの頭を開頭して脳味噌を見てみたらコピー用紙のようにツルツルで人間の脳味噌の皺みたいなもんなんてありゃしないだろうな。おじいちゃんの頭皮みたいにツルツルだ。パパは毛はフサフサだけど隔世遺伝ってのがあるからお前は気を付けといた方がいいぞ。それにな、此奴らは人様に与えて貰った餌でブクブクブクブク太っていきやがる。まるで鶏舎のプロイラーのように。でもな、此奴らはそれで幸せなんだ。金魚鉢って言うバリアが外界の天敵から守ってくれてるんだ。此奴らは金魚鉢って言う名の塀の中で伸う伸うと暮らしてるんだ。悪い事をしたおじさん達も塀の向こう側で住めば都ってな感じの変わったおじさんもいるしな。外の世界は怖いんだぞ。動物の世界ではライオンや禿鷹、ワニや鮫、鯨なんてのも一呑みにするからおっかないぞ。人の世では詐欺師や強盗、ハッカーや性犯罪者、腐った政治家に其奴らに金魚の糞みたいに群がる利己的な悪人と収賄に手を染める役人ども。何奴も此奴もくそったれどもばかりだ。腐りきった政治を俺が変えてやるってな感じで息巻いて政治家になった若造の青っ洟垂らしてそうな兄ちゃん達もミイラ捕りがミイラになるってな感じで政治の世界はリアル ハムナプトラだ。パパは納税するのが馬鹿らしくなって本気で脱税しちゃおうかなあって考えてるんだ。ミック、子供の頃は外敵から大人が守ってくれるから世の中はちょろいもんだなって想いがちになるけど大人の世界は甘いもんじゃないぞ。そりゃ怖いもんさ。茨の道だよ、社会ってもんは…」パパが人生の教訓を僕に授けてくれている途中でママが言った。「あなた、早くお風呂に入って夕食を食べてちょうだい。ドラマが始まっちゃうじゃないの」「ああ、解ったよ。すぐ入るよ」パパは肩をすくめて僕に言った。「ほら、見てみろ。ママは角の生えた悪魔に時たま変身しちゃうだろ」パパはそう言って風呂に入って上がってきたらパジャマ姿でビールを飲みながらママのドラマに付き合っていた。翌日。僕は学校が終わって近所の池に金魚鉢を持って出掛けた。僕は黒い出目金に言った。「パパはああ言ってたけど僕は自由な人生を送りたい。お前も大海に出て見聞を広めてお出で」そう言って僕は出目金を池に放った。池の水面にポチャンと落ちたと同時にパパが言っていたくそったれの奴らが放ったピラニアにものの数分、いや数秒だったかも知れない。出目金はあっという間に骨にされた。僕はその光景を唖然としながら凝視した。手の施しようもなく唯見ているだけだった。特別外来種が生態系を崩壊させるって番組をこの前観たばかりだ。僕は悟った。9歳にして。この世は侵攻と侵略が繰り返される負の歴史。それは戦争であり、紙幣、資源、人材の奪い合いだ。食うか食われるか。弱肉強食。弱者は隅に追いやられ淘汰されていく。強者は繁栄を極め弱者をチェスの駒としか見なくなる。食われていく出目金を見ながら僕は思い知った。その日から僕は出目金に群がるピラニアの群れの夢をほぼ毎晩見るようになった。あの日から25年。僕は34歳になっている。僕はあの出目金がピラニアに食い尽くされた日以来、自然と心を閉ざすようになり不登校になり引き籠もりになった。パパは僕に何でも買い与えてくれた。あの糞をする事しか能が無い出目金のようになった僕に。新しいプレイステーション、ゲームソフト、コミック、CD、PC、スマートフォン、電子マネー、ポテトチップス、コカコーラ、冷凍ピザ、マックやバーガーキング、その他多くのジャンクフード。マイホームは僕の金魚鉢となりパパが与えてくれる食物で僕はあの出目金のようにブクブクブクブク太り続けベッドのサイズはシングルからセミダブル、そして、キングサイズへと変わり行き今じゃ350パウンド越えの肥満レスラーのようになっている。身嗜みにも無頓着でパパが言っていたように隔世遺伝で最近薄毛になり始めた。そんな僕を溺愛してくれていたパパ。それは世間的には歪な愛情の形だったのかも知れない。パパは僕を溺愛してくれた。僕もパパを尊敬し愛していた。そんな僕のたった一人の味方だったパパが1ヶ月前に交通事故で不慮の死を遂げた。パパとママは僕のライフスタイルや生活態度で幾度となく衝突していた。ママは僕が病気だと精神科医に連れて行こうとパパが生きていた頃から言っていた。ママは厳しかった。世間体も気にしていた。近所の家の住人は「あの家の子、引き籠もって随分になるわね。この前、ご主人が車に乗せて外に連れ出していたみたいだけど相撲レスラーみたいにブクブクに太っていたわよ」なんて噂話もしているからだ。パパの保険金が入ってきて一先ずは安心したママだったが僕の存在を贔屓目に見ても喜ばしくは想っていないようだった。寧ろ疎ましく想っていたという方が正解かも知れない。ママは僕を精神病院に入院させて新たな再起を謀ろうとしていた。ママはラジオを聞きながら入浴するのを日課としていた。僕はそれを知っていた。僕はママが半身浴をしている歳に浴室に侵入しラジオを浴槽に沈めた。感電するママ。『トムとジェリー』でジェリーに感電させられるトムみたいにガクガクと全身を痙攣させるママ。レントゲンフィルムみたいに骨が透けて見えそうな気分になり滑稽だった。その光景を見ながら僕は外敵を一蹴したような高揚感に包まれた。暫くするとママは事切れた。30分後、僕は911に連絡した。ママは入浴中の不慮の事故死と断定されパパの保険金に上乗せしてママの保険金までもが入って来た。僕は一生働かなくても遊んで暮らせるだけのお金を手にした。僕の金魚鉢は僕にとって手頃な広さで快適だ。あの黒い出目金を池に放ってやった大きな理由。そう、僕はこの上ない事由を手にしたんだ。僕は大海を知らずに人生を終えるとは思わない。だって情報は空気を飛び交っているのだから。そう、この世は暮らしていけるだけの貯蓄とPC、そしてネッと環境が整っていれば生きていける。引き落としもクレジット決済。電話でデリバリー。死にたくなった時は…それもネットでどうにかなるさ。

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金魚鉢の中の金魚 Jack Torrance @John-D

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