第3章-12

常連らしい客に呼ばれ、離れていくママさんの背中を恵太は声もなく見送るしかなかった。唯のことが一つ分かったのに、また分からなくなったことの方が多い気がする。

「唯ちゃん、やっぱり来てたんだね」

 幽霊が半ば独り言のように言う。ママさんの話の前に声を荒げたことを、無かったことにしようという意図に感じられて引っ掛かった。咄嗟に反発する。

「それより、さっきの話が途中だろ。なんで唯が自殺だって言い切れるんだよ。マジで、一体何者なんだ?」

「しがないお役所勤め。いや、元お役所勤めか」

 幽霊は憂鬱そうに肘をついた。恵太は訳が分からず、幽霊の横顔を覗き込む。

「何者か、って言ったでしょ。私が死ぬ前にしてた仕事は、役所で困っている人を助けることだったの。それが私の正体」

「なんだよそれ。俺はそんなことが知りたいんじゃなくて」

「大学の頃は楽しかったな。夢があったから、一生懸命勉強した。私、カウンセラーになりたかったんだ」

 恵太の言葉は簡単に塗りつぶされた。声を張るでもない、幽霊の確かな思いに押し通された感覚だった。

「一番なりたかったのはスクールカウンセラー。学校で悩みを抱えている子の支えになりたいと思って、心理学とか結構勉強したんだよ。ま、後から思えば意味があったのか分かんないけど」

 幽霊は酒のせいなのか、時々眠たそうに小さく頭を振りながら話を続ける。

「カウンセラーって割に合わない仕事でさ。それ一本の仕事でやってける人って意外と少ないの。親に『現実見ろ、安定した職をもて』って何度も言われてるうちに、結局根負けしちゃった。ま、役所でも人の悩みを支えたりすることはできるだろう、って軽く考えたところもあったのかもね」

 他人事のように言って、幽霊はカウンターに頬を付けた。恵太の方を向き、真横になった赤ら顔。脈絡なく喉の奥で笑い声を漏らす。

「困ってる人の支えになるんだって、一生懸命働いたの。朝は仕事の準備をして、昼は窓口にいて、夕方はトラブルを抱えている人の所に訪問に出かけて、夜は一日の記録をつける。家に帰ってソファーに座ってたら、いつの間にか朝になって、それの繰り返し。それでも残った仕事は、休みの日にやるの」

「マジかよ、そんな大変なのか役所って」

 恵太は迷ったが、渋々ながら会話に参加することにした。今の幽霊に何を言っても、恵太の疑問の答えが得られるようには見えなかった。

「さあ? 休みの日まで仕事してたのは私ぐらいだったけど。私がお節介で勝手に仕事を増やしてるの。行く必要のない訪問に何度も行ったりね」

 幽霊は重たそうに顔を起こし、グラスを軽くあおった。その液体が水だと分かって、恵太は安堵し自分も水を飲んだ。

「なんでそんな、する必要がない仕事なんか」

「信じてたんだろうね。何度も伝えれば分かってくれる。人の気持ちだって変えられるって。でも結局変えられなかった。上司や同僚はみんな、そういうもんだって知ってたから、入れ込んでまで訪ねて行かなかったんだろうけど。私だけ気づいてなくて、馬鹿みたい」

 恵太は似合わない弱さを見せる敵を前に、かけるべき言葉を探した。幽霊に対して抱いた疑念は、自分の思い違いだったという結論にしてしまいたい誘惑が巡る。この女の真意が分からない。逡巡の後に出たのは、気遣いの言葉だった。

「別に馬鹿ってことは無いんじゃねえの」

恵太が呟くと、幽霊は複雑そうに眉を下げた。躊躇うように小さく「どうだろうね」と漏らすと、恵太を見て今度ははっきりと言った。

「馬鹿だよ。だってそれで死んじゃったんだから」

 恵太は眼を見開いたが、幽霊は気づく素振りもない。

「それが私が死んだ理由」

 自分で言って、確かめるように頷く。

「でも本当は」

 言いかけて、幽霊は何かに気付いたように動きを止める。恵太はその顔から目を離せず、思わず覗き込んだ。目が合って、幽霊が感情を隠すように笑うのが分かった。

「内緒」

「なんだよ、気になるだろ」

「思い出したくないことがいろいろあるってこと。死ぬ間際の話なんだから、分かるでしょ?」

 恵太はなんと返していいのか分からなかった。死ぬ間際の話を、死んだ当人から聞くという状況自体がデタラメのはずだ。一方で拭いきれない感触。嘘を言っているように見えない幽霊の姿が、恵太の戸惑いを大きく膨らまし続けていた。

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