冬、夢想

 息苦しさに耐えられずに目を覚ます。視界の端で、ようやく見慣れてきた白い髪が揺れた。


「大丈夫ですか? 相当苦しそうでしたが」

「……ああ、大丈夫だ。ソフィーはずっと起きてたのか?」

「ええ、まあ。仕事をしていたのですが、貴方があまりにも苦しそうでしたので、こちらへ」

「そっか。ありがとう」


 彩音が帰ってから数日後、俺の病気は急速に悪化した。息をするのが苦しい日が増え、吐血することもある。

 それが死に近づいているということだと容易に実感できるほどに。


「病院、まだ行かないんですか?」

「まだいい。行っても無駄ならもうちょっとここにいたいかな」

「そうですか。では、私になにかしてほしいことなんかはありますか? 大抵のことならできると思いますが……」

「そうだな……」


 こんな状態になってしまった今、別にほしいものもない。頭の痛みを和らげてくれ、なんていうのもソフィーならできそうだが、あまり頼んでいいことでもない気がする。

 しばらく考えて、結論が出た。


「なら、ソフィーの話をしてくれ」

「私の、ですか?」

「ああ」


 せっかくなら、知りたいことを知っておこう。聞きたい話を聞いておこう。そう考えて、俺はその提案をしたのだ。

 ソフィーは若干戸惑ったような表情をしたが、やがて笑って話を始めた。


「では、ざっと百年くらいの話をしましょう」

「そんなにか……楽しみだな」

「ふふっ、それほど大層な話ではありませんがね。これは、私がまだ人間だった頃の話です」


 起き上がろうとすると、ソフィーに止められた。が、どうしてもちゃんと聞きたかったのでそれを退けて起き上がった。ソフィーは、呆れながらも嬉しそうだった。


「私はもう百年程度死神をしています。といっても、現世よりもかなり時間の経過が遅い場所で、ですが」

「なんか、大変だな」

「ええ。まだ任期の十分の一も終わっていないと思うと、嫌になります。……とどのつまり、私も死神として未熟だということなのですが」

「なるほど……俺の魂を浄化させる必要があるのも?」

「その通り。私の力がもう少しちゃんと成長すれば、いずれ如何なる魂も扱えます」


 なんとも面倒なタイミングで当たってしまったらしい。


「……まあ、ですので。魂が無いと言っていたのは、実は嘘です。ほんの少しだけ、欠片程度だけ魂が残っています。ずっと嘘をついていてごめんなさい」

「やっぱり、そっか。大丈夫だ、気にしないから」


 それに、次第にソフィーは感情豊かになっていたような気がする。ソフィーは嫌がるかもしれないが、人間らしさがあってその方が魅力的だった。


「大変だったな」

「まあ、そうですね」

「人間の苦労が小さく見える」


 ソフィーは苦笑を浮かべて否定をしない。おそらく、本当に人間の悩みが些細に見えるほど忙しいのだろう。


「ですが、いいこともありましたよ」

「へえ? つらいことだけじゃなかったか」

「例えば……貴方と、出逢えたこととか、です」


 頬を赤く染めて、まるで普通の女の子のように照れながら、ソフィーはそう言った。


「そして、同時に後悔もしています。ものすごく、悔やみきれないほどの後悔を」

「えっ?」

「……いえ、この話はいいです。そうですね、生前の話をしましょうか」


 無理やり話を変えたソフィーは、小さく笑った。


「私の人生は、本当に短かったです。私は日本よりもずっと治安の悪い国に生まれ、そのスラムで暮らしていたんです」

「……そっか」

「そして、親に捨てられました」

「……そか」


 何も言ってやることができなかった。結果として両親を失ったという点では同じなのかもしれないが、ほんの短い間でも両親に愛された俺と、捨てられたソフィーでは違うだろう。

 つらい話なのに、ソフィーは笑顔のまま話を続けた。


「別に、なんとも思っていません。そういうものだと思っていますから」

「それなら、いいんだけど」

「なぜ貴方が気に病むのですか……まあいいです。そんなときに手を差し伸べたのが、死神と名乗る女でした」

「死神……」


 ソフィーは、自分のことを死神のようなものだと言った。それがただ役割を話すのに便利だから使っているものとばかり思っていたが、大切な名前だったようだ。


「あの人は私にいろんなものを与えていきました。食事も、娯楽も、ソフィアという名前も、なにもかも」

「良い人だったんだな」

「どうでしょう。一概にそうは言えませんかね」

「それはまた、どうして?」

「私はひねくれていましたから。彼女のことはどうも好きにはなれませんでした」


 苦笑を浮かべながら、懐かしむように言った。


「逃げても捕まえに来るし、食事を拒んでも無理やり食べさせてくるし。もう、ただのお節介でした」

「そっか」

「だから、私はあの人のことは大嫌いでした」


 その大嫌いには、いろんな想いがつまっている気がした。


「彼女は、医者だったそうです。今となっては、死神と名乗った意味もよくわかりません。ただ、彼女は私が病気であると私よりも先に気づいていたみたいです」

「病気?」

「ええ。どうやら私に声をかけたのは、その病気を治すためだったようです」

「それで、その病気は治ったのか?」

「はい。幸いにも、薬を飲めば治りました」


 難病というわけではなかったのかもしれない。それでも、スラム街で生まれ親にも捨てられたソフィーにはそんな薬も買うことは出来なかったのだろう。


「今となっては懐かしむ程度の話ですがね。そんなに心配しなくても、この身体は死にませんよ」

「あ……そっか」

「ふふっ、本当に優しい人ですね」

「からかってる?」

「本心ですよ」


 それでも、ソフィーの病気が無事に治ってよかったと思う。その感情が見えてしまったようで、ソフィーは少しだけ恥ずかしそうにした。


「は、話を戻しましょう」

「そうだな」


 照れた様子ではあったが、話すと言った以上は最後まで話をしてくれるらしい。俺も、そのソフィーの話に再び耳を傾ける。


「私を治したあの人は、しばらく私と一緒に暮らしました。どこかへ行こうともせず、なにもなかったそこで一緒に、静かに」

「大嫌いなのに?」

「もう……茶化さないでください」

「ごめんごめん」


 本当は大好きだったことくらいはわかる。そもそも、命を助けてくれた人のことをこんなにも楽しそうに話すのだ、嫌いなわけが無い。


「なにかがおかしかったんです。最初は、患者の様子が気になるからかと思っていました。しばらくした頃に、『もう大丈夫だね』と言ったにもかかわらず、まだ居座り続けました。だから、私もこの人はここにいるんだなーと思うことにしたんです」

「ソフィーのことが心配だったんじゃないか?」

「私も最初はそう思っていました。ですが、多分あの人は寂しかっただけです」

「寂しかった?」

「あの人の話は、いつもいなくなった人の話ばかりでしたから」


 いなくなった人の話。それを聞いたソフィーはどんな気持ちだったのだろうか。


「いつの日からか、あの人は自分の話をするようになりました。自分の家族のこと。趣味のこと。大好きで娘のような、スラム街の小さい女の子のこと。自分の夢のこと」

「……それで」

「自分の、病気のこと」


 いなくなった人の話をしていた。自分の話をするようになった。きっと、その人は亡くなってしまったのだろう。


「この名簿の話は覚えていますか?」

「えっ? あ、ああ」


 突然話が変わったので、少しだけ狼狽しながらも頷く。


「この名簿の名は、本来親がつけた名が記されます。貴方であれば、アオシとなっていますよ」

「なら、ソフィーの名前は? 死神がつけたんだよな?」

「ええ。私のような人は少なくはありません。名がないまま、不安定な魂が現世に存在することも同様に少なくはありません。私の場合もまた、この名簿には空白だけが残される存在でした」

「……ソフィアって名前には、されなかったのか」

「ええ」


 名前というものがどれだけの意味があるものかというのは、よくわからない。ただ、俺は家族の絆が名前というものだと思っている。一つ一つ名前が大きな意味を持つものだから。


「私は、わりと真っ直ぐに成長してしまったのです」

「死神のおかげか」

「間違いなくそうでしょう。だから、私は消されることになりました」

「……は?」


 正しく成長したら消される? 意味がわからなかった。

 けれど、当の本人であるソフィーは今ここで笑っている。消されるというのは、どういうことなのだろうか。


「名も持たぬ私が成熟した魂を持つことが不都合だったようです。当時は死神がいなくなって廃人状態でしたから、突然の出来事ではありましたがなんとも思いませんでしたよ」

「……それでも、理不尽すぎるだろ」

「ですが、摂理ですから。こうして魂を管理するようになって、人間がいかに脆い存在かというものを痛感します。だからこそ、大切なものに気づくことが出来るのですがね」

「ソフィーがそう言うならいいんだけど……」


 たとえソフィーがそういうものだと理解していたとしても、やはり納得がいかない。


「後悔は微塵もありませんよ。こうして管理者になったことで、あの人の魂にお礼を言うこともできましたから」

「お礼?」

「……恥ずかしい話ですが、最後の最後まで私はあの人にちゃんとなにも伝えることができませんでしたから」


 それがどれほど大きなものだったのか。どれだけ伝えたかったことかはわからない。だが、伝えたいことを伝えられるという当たり前のことをできなかったソフィーにとって、その機会は自分の生と引き換えにするには十分だったのだろう。

 正直なところ、その気持ちはいまいちわからない。けれど、わかる必要もない気がした。


「それから私は魂の管理者として存在してきました。何度かやめたいと思ったこともありましたが、基本的にはすることも同じ、単純な仕事ですのでなんとか百年ほどは続いています」

「そっか。えーっと、じゃあなんかいいこととかはなかったのか?」


 ソフィーの生には苦難が多すぎた。だから、その分の報いくらいは受けてほしいと思った。


「そうですね……一番は、やはり貴方と会えたことです」

「なんで俺なんだ?」

「自覚がないところがまた……貴方、もう少し自分の魅力に気づいてはどうです?」

「ソフィーには言われたくない」

「うるさいです。私よりもずっと魅力的でしょう」


 なぜかソフィーは少し怒っているので、頷いておく。もちろん、ソフィーの方がずっと魅力的だし、俺に人が好いてくれるような魅力があるとも思ってはいないが。


「貴方と出会って、私はまた多くのことを学びました。本当に善良さの塊のような人がいること。優しい人は、いつだってちゃんと報われているということ。人の感情が本当に温かいものだということ」


 ソフィーの頬を、雫が伝った。


「愛する人が死んでしまうのは、こんなにも辛いことなのだということも」


 それは、ソフィーのほんの少しだけ残った感情だった。


「死なないで、くださいよぉ……」


 今まで強かったソフィーが見せた弱さは、みるみるうちに溢れ出してしまった。

 ずっと一人だったのだろう。そんなソフィーに、いずれいなくなるとわかっているのに優しくしてしまった。無責任な優しさがソフィーを苦しめてしまった。


「ごめんな」

「あや、まらないで。でも、もう、一人はいやです」


 後悔ばかりだ。

 ソフィーを恋人にしてしまったこと。ソフィーの前からいなくなってしまうこと。ソフィーを愛してしまったこと。

 佐野や彩音に俺のことを伝えさせてしまったこと。ソフィーに俺を愛させてしまったこと。傍にいさせてしまったこと。

 そのすべてが後悔で、そのはずなのに大切なものに思えた。


「なあ、ソフィー」

「はい……」

「明日は、なにをしようか」

「そう、ですね……なんでもいいです」


 鼻をすすりながら、目には大粒の涙を溜めて言った。


「もう、あと数日だけだけど。せめて少しくらい思い出とか作ろうな」

「……はい!」


 泣きながら笑うソフィーの顔は、とても輝いて見えた。

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