四、内と外 1


《西暦一八九年 五月 後漢 司隷洛陽 南宮学舎》


 開け放たれていた窓からであろうか。どこからともなく、ひらひらと飛んできた一匹の揚羽アゲハが、午後の日差しの中を横ぎって、鴻都門学こうともんがくの室にあるはりへとまった。

「蝶、といえば」

 教室の端っこで半裸になった学生の一人が、ひどく酔った様子で口を開いた。

「西から伝わってきた浮屠ふと(仏教)の教えでは、蝶を教えの象徴として重んじるとか」

「ほぉ。面白いなぁ」

 と、酒瓶の転がる床に寝転んだ孟徳は云った。

「中央軍の校尉どのが、仕事もそこそこに、外界の神など面白がってよろしいので?」

「今は大きな戦もないし、中央軍は暇なのさ」孟徳は冗談めかして肩をすくめた。「何よりあの口うるさい本初も、今は涼州の羌族討伐の命を受け都にいない」

 周囲の学生たちから、どっと笑い声が起こる。孟徳は機嫌よく手の杯を干して、

「そうだ! いい詩を思いついた、“外”の詩だ!」

 とはね起きた。

「六龍に跨り風に乗りて行き、四海の外に出、道下りて南蛮の果てへ、渡りて高山に登り渓谷をみて——……」

「東の果て、南蛮の景色が浮かんでくるようです。実に味わい深い」

 向かいに座っていた泥酔学生が、妙に力強く頷いた。

 ここ、鴻都門学は、今の帝が作った芸術学校だった。書画や詩文に巧みなものが人格を問われず選抜を受け、いずれ官吏になる、というその性質上、儒教的な学識品行を重んじる士大夫たちからは多く非難を受けている。だが孟徳は芸術の奨励には賛成であったし、詩文の学校というものにも興味があった。いつもうるさい袁紹が都を不在にしているのもあって、今では時間が空くたびに鴻都門学を訪れ、学生たちと議論や杯を交わしている。

——ここしばらくの陛下の改革というのも、悪くはないのかもしれないな。

 孟徳はすっかり心地よくなり、

「いやあ、本初がいないと気が休まる!」

 と空になった杯を掲げた。するとそこへ

「相変わらずだな、曹阿瞞」

 爽やかな、しかし凄みのある低い声が、鈍器のように背後から降った。孟徳はびくりと振り向いた。長身で、派手な西域ふうの衣を身にまとった、男ぶりのよい壮年であった。

「は、伯求どの!?」

 何顒かぎょう、あざなを伯求。放蕩づくしであった若き日の孟徳を高く評価し、名士との人脈を作ってくれた恩人である。かつて反宦官派の中心として自ら政争の裏にとびこみ、数多の政治犯の脱獄・亡命を助けた快男児で、同じく、党錮の英雄と目される袁紹の親友でもあった。

「と、いうことは——」

 孟徳は恐々として向こうを見やった。翳りになっていた戸口から、黒い頭巾をかぶり、茶色い袍を身にまとった、見覚えのある男が現れる。

「心外だな。お前に、そう思われていたとは」

「げぇっ、本初!?」

 孟徳が叫び終えぬうち、袁紹の背後にある戸口から、十数の兵と名士ふうの身なりをした男が、屋内にぞろぞろと踏み入ってきた。

「鴻都門学は、本日をもって閉鎖する! さあ、出て行け国家の穀潰しども!!」

 初老の名士の大喝とともに、兵が学生たちへ飛びかかる。がちゃん、がちゃんとあちこちで杯の割れる音が聞こえ、部屋から引きずり出されて行く学生と兵士の怒号が辺りで響いた。抵抗して殴られている学生もいた。渦中で呆然と立つ孟徳の元へ、袁紹はその騒乱を気にもとめず、堂々と寄って囁いた。

「来い、孟徳。——陛下が、崩御された」



 孟徳は急ぎ学舎から出ると、袁紹とともに帝の崩御したという嘉徳殿へ走った。袁紹が持ってきた急の報せは何も帝の崩御だけではなかった。中央軍をまとめる大将軍・何進が、政敵関係にある中央軍のもう一人の長、宦官の蹇碩けんせきに帝の後継を相談したいと呼ばれ、一人で嘉徳殿に向かっていった、というのである。

 何進はもともと肉の商いをしていた豪族だったが、美しい妹が後宮に入り、皇帝の子を生んで皇后になったので取り立てられた。宦官との政争に疲弊した士大夫たちを重用し、多く人々からの支持を得たので、次の帝は彼の甥であるべんに違いないと囁かれている。

 ただし今では、事態はそう単純ではなかった。帝には協という妾腹の男子がもう一人おり、弁と協、どちらを皇太子とするかとうとう公言がなかったのだ。反宦官の後援者である何進は、自らの甥である弁を支持する。となれば宦官たちは協の支持に動くとみられ、平時からでは考えられぬ過激な手段に出ることも考えられた——宦官が、数百人の有力士大夫を皆殺しにした、あの党錮の悪夢のように。

 土埃をびゅうと巻きあげる風からは黄砂混じりの春の朗らかな匂いがした。宮殿内の小さな街を人々がのんびり行き交っている。不自然だ、と孟徳は思った。通常は帝が崩御すると、白旗をあげ群臣が泣き叫ぶ慟哭の儀を行うものである。

「まさか奴ら、陛下の崩御を隠していたのか!?」

「病態もな!」いつしか後ろにいた袁紹が叫んだ。体格に差があるぶん、すばしっこさでは孟徳に部がある。「俺たちが気づかぬうち政変を起こし、邪魔者を排除して新帝擁立を先に済ませる——蹇碩ふぜいの考えそうなことだ!」

「だから西園軍の長を呼び捨てするなというに!」

「宦官の名なぞ呼んで何が悪い!」

 怒鳴りあいながらとうとう嘉徳殿の前へ至る。と同時に、ひときわ立派な朝服を着た中年の男が、四丈(約十メートル)ばかり遠くで馬車から降りた。大将軍だ——と孟徳が息を呑んだとき、門の影になったところで、きらりと白刃が光るのが見えた。

「——やれ、孟徳っ!」

 袁紹のがなりに、

「応さぁ!」

 孟徳はだっと駆け出し飛び出てきた刺客へ、思いきり跳び蹴りを叩きこんだ。仰天し鼻血を噴いた刺客の身体が、ぐらり、と力なく後ろへ倒れこむ。

「ご無事ですか!」

 唖然とする何進へ袁紹が駆け寄る。——と、その背後にも、ひらりと躍り出た人影を捉えて、孟徳は、

「——本初!」

 と叫んだ。袁紹ははっと振り返ると刺客の手から素手で短刀を払いのけ、勢い余った刺客の身体をぶんと背負って投げとばした。

「本初!」

 孟徳は慌てて駆け寄った。袁紹は返事をよこさなかった。流血した手を押さえ、動揺した様子で頭を割った刺客を見つめる。そんな顔をするのは珍しいことだ、と孟徳は思った。

 と、

「貴様ら、何を騒いでおる! 陛下の御魂の御前であるぞ!」

 野太い怒号が響き、だーっと地を揺るがす轟音とともに、鎧姿の兵たちが二人の周りを取り囲んだ。黄色い頭巾をつけた騶騎(宦官兵)らの奥から、大柄な男が歩み出てくる。体躯はりっぱで筋骨たくましく、手練れであるのが感じとれたが、顔に髭がなく黄色い頭巾をかぶっていた。西園軍の元締めである宦官将軍、蹇碩である。

 蹇碩は、しばらく辺りの様子をぐるり見たあと、

「袁本初!?」と、孟徳の隣へ目を当て叫んだ。「なぜここにいる! 帝の命で、涼州へ遠征を命じられたはずではなかったのか!」

「募兵が、なかなか進みませんでしてな」袁紹は先の動揺も感じさせずに、何進を背に庇いにっと笑った。「歯がゆい思いで、都で待っておったのですが。しかしそれも、巡り合わせというやつやもしれません。——大将軍を殺そうともくろむ、不遜な輩を止めるようにと。天が私へ思し召した、ね」

 そのとき、またも地鳴りのような足音とともに、武装した兵士が門内へなだれ込んできた。

「お迎えにあがりました、大将軍。何やら取り込んでおられるようですが」

 一同の前に出て語ったのは、自らの私兵を率いてきた袁術だった。ふるえる何進は袁術の兵にその身柄を保護されると、濡れた子犬のように車の中に収容されていった。蹇碩は唖然とその様子を見ていたが、しかし孟徳、袁紹、そして袁術の三者をぎろりと睨むと

「——貴様ら」

 と青い顔で憎々しげに吐き捨て、殿の方へ引っ込んでいった。それはこちらを術中にはめようとした男のそぶりではないように思えた。

 意見を求めるように隣の袁紹を見た孟徳だが、袁紹は腕の傷に手当もせぬまま、こちらへ歩みくる袁術の姿を睨めつけていた。

「大将軍をお守りせねばならぬ校尉が、そんな傷など追って甚だ呆れる」

 袁術はそれだけ口にすると、勝ち誇ったように踵を返して、もと来た道を引き返して行った。

「……傷など。生れたときから、負うているさ」

 袁紹が噛みしめるように呟いた。その視線は頑として前方に向けられてあった。だんだんと遠のく袁術の背中を、今も睨めつけているに違いなかった。



《西暦一八九年 七月 後漢 司隷洛陽》 

——どうにも、きな臭い気がするな。

 案内役の獄吏に従い、こつ、こつと地下牢へ続く階段を下りつつ、鎧姿の孟徳は考えた。新帝の余りに早い即位もそうだが、怪しいことが多すぎたのだ。

 中平六(西暦一八九)年、五月一六日。三十四才の若さで崩御した帝の後継には、何進の甥でもある長子、弁が即位した。その半月後には西園八校尉の筆頭である宦官、蹇碩が投獄された。

 表向きには先の何進襲撃の疑いをかけられての逮捕とされたが、本当の理由など分かりきっている。先帝の側に仕え続け、崩御の場にも居合わせた蹇碩は、何進の士大夫たちが勢いを増す宮中においてただ独り、遺言に指名された正式な帝は、弁の弟の協であった、と云い張り続けていたのである。

 先帝からの公式な遺言が発されぬままであった以上、帝となるべきは弁であるのか、協であるのか。裁かれるべきは何進か、蹇碩か。分からない。ゆえに中立の立場をとり続けた孟徳も、今や蹇碩とほど近い立場に置かれた。蹇碩逮捕は尚早ではないか、と諫言したことにより、朝廷の多数を占める反宦官派の士大夫たちから、あからさまに敵意を向けられるようになっていたのである。

 毎朝、朝儀の帰りなどに、

『どこの種とも知れぬ、宦官の孫めが』

 などとすれ違いざま、吐き捨てられることはよくあった。

『今に見ていろよ』

 と脅しまがいの文句を向けられたこともある。宦官を重用した先帝が政界から失せたことにより、今度は宦官に虐げられていた党人(反宦官派の士大夫)らが増長をはじめたのだ。あろうことか、宦官を庇う皇太后を脅し、政権を己らで動かそうという動きも出ていると聞く。それは孟徳の眼に、かつての宦官の増長とそう変わらぬもののように映った。

「——典軍校尉」

「……」

「典軍校尉!」

 年若い獄吏の青年に呼ばれ、孟徳は、はっと我に返った。

「お、私か」

「他に、どの典軍校尉がいるのです」

「なぁに、そのうちすぐ現れる」孟徳は、ふけだらけの頭をぼりぼり掻きながら足を進めた。「先帝も上軍校尉(蹇碩)も——立場のない私の後ろ盾をしてくれた上官は、皆いなくなってしまったし、おまけに党人たちに目をつけられた。もう終いだろうなぁ。この印綬も、来月頃には他人の手に渡っているに違いない」

「……それほど、宮中は、危ういのですか」

「危ないだろうなぁ」孟徳はのんびり云った。「鴻都門学の件を見ただろう。先帝崩御の報が入った途端、国立の学問所を独断で打ち壊すなど、正気の人間にできる仕業ではないよ」

 先帝崩御の際における鴻都門学の打ち壊しも、今から思えば、党人たちの暴走の奔りに他ならなかった。我慢がならなかったのだろう。宦官に支えられた先帝の政治改革を象徴する、鴻都門学の存在自体に、だ。

「正気では、ないと?」

「そういうものさ。党人って連中はな」

 孟徳はまたへらりと笑った。

「若い君にはぴんと来んだろうが。今から二十年まえ、宦官と士大夫の大きな政権争いがあった。宦官の一斉誅殺を目論んだ七百人の士大夫が、宦官の逆襲に遭い処刑や投獄の憂き目にあったのだ。以来反宦官と見なされた士大夫は、一族子弟に至るまで宦官の手のものに追われ、時に殺された。そして五年まえ。黄巾の乱により国家が傾き、朝廷からの恩赦が下って党人たちは十数年ぶりに政界に戻った。だが宦官に祖父や父兄を虐げられ一族を殺され、恨みを晴らせと教えられ育った若者たちの怒りが、そんなことで治まるわけはない。ずっと昔につけられた古傷が、厚い皮を被り、服の下にあろうと、変わらず痛み続けるようにな」

 黙りこくった若い獄吏を振り向いて、孟徳は、にやりと笑った。

「君ら若人に持ち越したくないもんだな、こういうわだかまりというものは」

 孟徳は獄吏を下がらせると、威勢よく階段を飛び降り地下へ降りた。牢に入ると、獄中に正座していた、さんばら髪の壮年の男が、

「何を、しにきた」

 瞑想したまま、静かに云った。

「審問です、校尉の位が取り上げられんうちにね」孟徳は湿っぽい牢のなかでへらりと笑った。「先の大将軍襲撃の件、私にはどうにも、あなたの計画だとは思えぬのですよ」

 男が、顔をあげる。身につけているのは粗末な中衣で、体躯はりっぱだが、面はつるりとして髭がなかった。獄中に囚われた宦官将軍、蹇碩である。

「もはや真偽に、意味などあるまい」

 蹇碩は厳しい表情のまま、ぼそりと云った。

「私は負けた。政争に負けた。ゆえに滅びゆく。それだけが確かな事実であろう」

 そうした蹇碩の態度からは、孟徳に対する拒絶の意が透け見えた。否、それはたぶん諦めという名の、世の全てに対する拒絶であるに違いなかった。孟徳はしばらく黙りこくった。風通しの悪い石牢のなかに、湿っぽい土のにおいが濃く匂っていた。

「惜しい、ことですな」孟徳はぽつりと云った。「世は無常です。あれほど見事であった西園軍も、あなたの亡きあとでは大将軍の下に、他の官兵とともに統合されてしまうでしょう。それでは、西園軍の体系は消滅します」

 蹇碩がはっと、顔をあげる。孟徳は薄暗い牢のなかでまたにやりと笑った。

「宦官兵から地方の私兵、屈強な蛮胡兵に至るまで。在野勢力の全てを取り込み、君主直下の精兵集団を新たに作る——それが陛下の望みであったのでしょう。先帝お一人の崩御で、かように全てが水泡に帰すとは。惜しい限りです」

「……惜しい、か」蹇碩は静かに呟いたあと、壁にある格子窓をゆったりと仰ぎ、云った。高い格子窓から差し込んだ陽が、埃っぽい牢のなかに一条の光線を描いていた。「確かに惜しむべきやもしれん。我らの徒労は、今世では身を結ばなんだ。——しかし校尉。喜ばしいことに、文字を有するこの国ではな。知識とは、それを有するものが死んでも、語り継がれてゆくことができるものなのだ。

 ゆえに私は、信じたい。敗れ、消えゆく、私のようなものどもにも、この世に生きた、意義というものはあったのだと」

 そう語る蹇碩の座姿には、いつかのような堂々とした感じはなかった。そこにいるのはただ時代の変化に取り残された、ひどく哀れな老人だった。しかし、と孟徳は考えた。いま己のもつ校尉の位が、何進派の跋扈をまえに風前の灯火と化しているように。己が蹇碩のようにならぬ確証がいったいどこにあるだろう。敗者とそれ以外を分かつものは何であるのか。その境界線はどこにあるのか。蹇碩は目を合わせぬまま、語り続けた。

「私は、陛下の偉業の先が見たかった。かの方はこの時代を変えようとしておられた。宦官が蔑まれ、人として扱われぬ時代をも。そのお力に、なりたかった」

 子孫を残し、先祖に報いることに重きを置く儒教社会の中で、性器を切り捨てた宦官への風当たりは驚くほど強い。孔子が宦官と同じ車に乗ることを拒んだ話などもあり、宦官は儒家から“腐りしもの”とまで呼ばれる。人間ではないのだ。

——しかし。だからこそ、宦官は国家に必要とされる。

 古今より蔑まれ時に国を滅ぼす宦官という存在は、今日に至るまで伝統として保持されてきた。人を超越した天子の最側に仕える私官は、人でない宦官でなければならないからだ。そこに現実の道理は通用しない。聖域なのだ、と、宦官であった祖父は云っていた。孟徳には、よく解らない話だ。

 蹇碩はそこでようやく孟徳を見あげ、

「分かってくれ」と云った。「私が、そうであったとは云わぬ。しかしそなたの祖父御のように、君主へ己の忠を捧げ、国家のため尽力した宦官もいた。全ての宦官が、みな己の私腹を肥やすことに喜びを感じるわけではない」

「わかっていますよ——というより、わからぬのかな」孟徳は笑った。「宦官であるから、儒者であるから。人でないから、人であるから。それだけで人生の何たるかをはなから考えられるほど、私は人というものを知りません。しかし人が、そうまで分かりやすい生き物であるなら。この世に古今、文学なんてものは全く必要なかったでしょうな」

「……おまえの詠む詩を、読んでみたいものだ」

「読めますよ。今度の見舞いのさいにでも持ってきてさしあげましょう」

 孟徳は朗らかに笑ったが、蹇碩はじっと孟徳を見ると、

「曹操」

 と峻厳であるとも、優しげであるともつかぬ、静かな声色で、呼んだ。

「お前が、次の、中華になるか」

「それは、いったい——」

 孟徳は目をぱちくりさせたが、眼下に座していた蹇碩の身体が、ぬっと大きくなり面食らった。蹇碩は目にも止まらぬ疾さで立ち上がり、孟徳の懐まで踏み込んできていたのだった。蹇碩は一瞬の隙をつき孟徳の腰から剣を奪った。それは孟徳が西園校尉に任命された折、先帝から託されていた儀式用の剣であった。

「さらば。陛下の剣で、逝かせてくれぃ」

 老人は笑むと、自らの首にあてがった刃を滑らせた。

 孟徳は声も出せず唖然としたまま、崩れ落ちた蹇碩の骸から滲み出た血が、牢の床に、こんこんと流れゆく様を見つめていた。



 牢を出ると、袁紹がいた。孟徳は青くなった面をいっそう強張らせ彼を見た。投獄中の罪人に剣を奪われ自害されるなど、斬首ものの失態だと思ったのだ。だが袁紹は、

「よくやった」と、孟徳の背後にある獄をちらり見、平然と云った。「手間が省けた。自害という形であれば、処刑に比べ波風も起こりにくいだろうて」

「よく——?」

 思わず、顔を歪ませた孟徳へ、

「悲しむな」党人の英雄はぴしゃりと云った。「これから、国はもっと荒れる。宦官の死で悲しんでいては、どうにもならぬ。目の前の一つに気を取られ、大局を見失うな。それが、人の上に立つものの役目であるのだ」

「役目」

「そうだ。非常の、人間のだ」

 虚空を見つめ、腕を組んだまま、彼はゆっくりと云った。

「——二十年前は、このまちはもっと荒れていた。政を牛耳る宦官どもが、党人たちを片っぱしから粛清していたからな。俺は喪中だったが夜な夜な墓守りの小屋を抜け出て、親友の伯求(何顒のあざな)と囚われた烈士を救って回った。冠も被ったばかりの青二才だったが、人々は俺を“非常の人”と呼んだよ。生家では、妾の子と蔑まれてばかりだったこの俺を。そこに俺は。下女の子の俺にすら救いを求める、人々の祈りの声を聞いたのだ」

 ぼんやりとした袁紹の語り口には、いつもの彼らしからぬ情緒的な響きがあった。孟徳はそれを珍しいことだと思った。しかし袁紹は孟徳をきっと見、

「それを担える人間は、初めからある程度決まっている」と、いつもの調子を取り戻して云った。「俺は血の生れに恵まれなかったが、器の生れには恵まれたらしい。それに応えるのが、非常の人間の生きる意味だ、と俺は思う。孟徳、お前は、そういう話を聞かせておくに足る、非常の人間だともな」

「私に、あると思うのか」孟徳は不満げに云った。「人の上に立つ、器なんてものが」

「常ならざる器だ」彼は淡々と応えた。「しかし、器量は凡人にも負ける。お前の生き方には、致命的に足りぬものがある。そいつをどうにか埋めん限り、俺がお前を蹴飛ばすことはなくならんだろうな」

 


「——もーう嫌だ!」

 屋敷に戻った孟徳は、平服に着替えるなり、叫んだ。

「相も変わらず中央は揉め事ばかりじゃないか! 本初め、なーにが改革だ! 国を立て直すだ! 口八丁で私をこんなところへ連れ出してきて! もう嫌だぁ! 沛に帰るぅ!」

「どうどう、落ち着け。飲んで忘れろ」

 と、孟徳の口元へ無理やり満杯の酒杯を押しつけたのは、旧友の張邈ちょうばくだった。袁兄弟とも顔なじみで、孟徳と四人揃って、幼馴染である。

「……近頃の本初めの横暴ぶりは、目に余る」もう一人、室の中にいた袁術が、手元の杯を干して静かに云った。「あのやくざ者が一線を画した暁には、俺たちで奴を止めねばなるまいぞ」

「止める?」張邈に押しつけられた杯から顔をあげ、半顔びしょ濡れの孟徳は問うた。「本初をか」

「止める」袁術は云った。「袁家の頭領として、止めてみせる」壁にかかった灯に照らされた琥珀色のまなざしが、夜の室の中に光っていた。

「おっかないなぁ。もう嫌だぞ、私は」

「そういうところだぞ、君」袁術は酔い据わった目で云った。「男としてこう、もっと一貫した信念はないのか」

「ハハハ、放っておけよ。公路。阿呆は死んでも治らんものさ」

 朗らかに笑う張邈に対し、

「いざ死んだら治るかもしれん」

 と袖をまくりあげた袁術は、悲鳴をあげる孟徳へ飛びかかった。張邈がそれを見て、また、楽しげな笑い声をあげた。



 酔い潰れていた孟徳は、深夜、外から聞こえてくる物音で、ぼぅっと目醒めた。窓下にある大通りの方が騒がしい。何やら人の声も聞こえてくるが、同じく、泥酔した袁術が自分の上に乗っかって寝ているのと、泥酔後の気持ち悪さで、しばしまどろんでいた。

「——おい、おい!」

 がらりと戸を開いて現れた張邈が、孟徳の頰を張って、怒鳴った。

「公路、孟徳、起きろ! 孟津の渡し場で、何かあったらしい!」

 聞くや孟徳は袁術を跳ねとばし立った。開け放たれた窓から見える北の空が、ほのかに赤く染まっていた。孟津は黄河対岸と都を結ぶ渡し場であり、都の北門から五十里(約二十キロ)も離れぬところにある。ここが侵されることそれ即ち、早馬で一刻もかからぬ距離に、脅威が迫っている、という事態に他ならない。

「君らは西園校尉だろう、疾く行け! 屋敷の人々は、ひとまず私が落ち着かせておく」

「助かる!」

 剣を持って立ち上がり、孟徳は袁術とともに、屋敷を、洛陽の門をとび出た。

 平時は夜間禁行令が敷かれ静まり返っているはずの夜原は、今や孟津からの避難民でごった返し、人々の掲げた松明の明かりがぽつぽつと照って、街道ごと、押し寄せる光の奔流のように見えた。二人は馬を馳せ灯の道を昇った。燃える街並みが近づいてきた。孟津の渡し場は闇を剥ぎ取られたように赤く光って、拓けた道や、ささやかな小舟や、ぽつぽつと建てられた漁師小屋の茅葺の屋根まで、全貌を渦のような炎に暴かれていた。その中を点のようにいくつもの影が蠢いていた。逃げ惑うものもいれば、駆けている者もいた。乗馬した影は皆さんばら髪を振り乱し、武器を掲げ略奪を働いているようだった。獣だ、獣に孟津は襲われたのか——。

 孟徳と袁術は事態を把握するべく、茂みに囲まれた小丘に登った。すると先客がいた。ただ彼方の燃えるまちを眺め、何をするでもなく佇んでいる、二人だけの人影だった。そのうち一人は黒い頭巾を被り、一人は西域ふうの、派手な衣を身につけている。

 孟徳と袁術は馬から降り、歩み寄った。

「孟津が燃えている」

 頭巾の男が、振り返らぬまま云った。ごうごうと唸る向かい風が、彼方の街から焦げくさい匂いを運んでくる。

「見ればわかる」孟徳と共に来た袁術も云った。「なぜ止めぬ、中軍校尉」

「全貌が把握できていない」袁紹は淡々と云った。隣には何顒もいる。「西園軍は、確固たる軍事力を有した中央軍だ。敵の仔細も分からぬうちから、おいそれと動くわけにはいくまい」

 目の前でまちが燃やされているとも思えない、その不自然な落ち着きに、孟徳は思わず、さっと顔を青ざめさせて

「……もしや、本初。君が、燃やしたんじゃあないだろうな」

 隣にいた袁術がはっと孟徳を見、それから袁紹の背中を見た。赤い鎧を着込んだその背中は炎を受け赤黒く光っていた。

「どうなのだ」袁術が震える声で云った。「どうなのだ、兄上!」

 袁紹は応えなかった。袁術は詰め寄ろうとした。すると長剣を抜き払った何顒が袁紹を庇うように立ちはだかって、

「我が友へ触れるな」

 と剣を構えた。袁術はぐぬぬと唸った。宦官の弾圧をくぐり抜けた党人の生き残りである何顒は、寄らば死を見る、と云われるほどの剣の使い手であるのだ。

「俺ではない。しかし、俺が進言した」

 袁紹の言葉に、孟徳と袁術ははっと、また彼の背をみた。

「宦官を重んじた先帝は死に、その支持者であった蹇碩も死んだ。我ら党人の悲願たる宦官排斥の障害となるのは、今や宦官に賄賂を納められ、奴らを庇う皇太后だけだ。ゆえに各地より兵を集め、武力を誇示して皇太后を脅すようにと何将軍に勧めた。それに従い、金で賊徒を集めたのだろう。しかし、こうまでなるとは思わなかった」

「なんだ、その云い草は!」袁術は大きく腕を振るって叫んだ。「俺たちの育ったまちだぞ! 愛着はないのか!」

「お前は都の表にある、梁家の邸の庭跡で、好いた娘に花を摘むのが好きだったな」

 袁紹は振り返ると、ごみを見るような眼で袁術を見て、『ばかばかしい』、そう吐き捨てた。

「豪族の邸の華やかさ、表通りの賑やかさ、そんな思い出は俺たちにはない。常日頃から宦官に追われ、血を吐くような思いで日陰暮らしをしていた俺たちにはな。俺たちにとってあの都は、宦官どものために首を斬られた、数多の戦友の屍の上に在る忌まわしい栄華だ。そんなものに、愛着など湧くものか」

「もういい! 孟徳、行くぞ——」

 と駆け出そうとした袁術の首もとへ——そのときぬっと後ろから、冷えた刃が押し当てられた。

 孟徳はがばりと振り返った。袁紹と何顒が剣を構えた。そこにいたのは矛をもち騎馬した、若い男の兵士であった。近くにある茂みからとび出て忍び寄ってきたのに違いないが、気配がなかったので気づかなかったのだ。

「近づかぬ方がいいよ、諸兄たち」

 にこりと笑んで、男が喋る。なまりの強い雅言だった。学はありそうな口ぶりだが、どう見ても漢人とは思えない。

 漢装ではあったが、髪が、赤いのである。髭も赤かった。目は青かった。鼻筋は北の険山のように鋭く、眼窩は落ち窪み、その異質なつくりの顔立ちが孟津の火に照らされて、およそ人間の顔つきとは思えぬ濃い陰陽を、夜闇のなかに浮かび上がらせている。

——人外おにだ。

 と本能的に、孟徳は思った。

「どういうことかな?」

 袁紹が、物怖じせず問う。袁術は声も出せず固まっていた。男は笑って、

「ああ、失礼した」と馬上から、まるで十数年来の友達みたいに親しげに語った。「あちらにおるのは賊ではなく、我が主——まあ見ての通り、その浅学粗暴さは賊に等しく、俺も困っているのだがね。なにせまともに字も読めん。役所仕事はすべて俺に押しつけられる」

「——して」

 袁紹が、先を急かした。

「申し訳ない、喋りすぎかな。“内”にきたのは初めてで、高揚している。この人懐っこいのは俺の悪癖だ。許してほしい」

「それで。いずこの兵か」

 袁紹がまた訊いた。彼はちょっと考えてから、

「并州刺史、丁健陽」と云った。「連れているのも賊ではなく、匈奴兵を多分に含んだ、れっきとした官軍だ」

 彼は続けざま、聞かれてもいないことをつらつら喋った。何進から召令があったこと。その目的はやはり宦官排斥のためであること。飢えた辺境兵にとってこの上洛は願ってもない機会であり、食い扶持を稼ぐべく略奪を行おうとしている者もいること。

 孟徳の目先で、袁術がぐっと拳を握る。黙ったままの袁紹の顔からはどんな感情をも読みとることができなかった。

「そちらもいろいろ、大変そうだな。都というところは、楽しそうだ」

 赤髪の男は孟徳たちをぐるりと見、穏やかな様子で、にこりと笑った。馬首を返し遠ざかろうとするその背を、孟徳は、はっと呼びとめる。

「そなたの名を聞いていなかった、将どの」

「将ではないよ、文官だ」

「は?」

「并州刺史は丁健陽が配下、太原郡の主簿——」

 

「——呂布。あざなを奉先」


 振り返って、彼は笑った。


「遥か西の烏孫うそん族(中央アジアのトルコ系民族)より、漢へと“白虎の子”だ」


「赤龍の血を引く男を、探しにきた」

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