二、鬼神 2


《後漢 幽州琢郡》


 全てが沈んだ夜の中、朽ちた壁だけが月光に照らされて、幽鬼のように淡く浮かび上がっている。元は荘園の壁であった。畑も狩り場も酒造場も、やぐらも武器の造場でさえも、生きるのに必要なもの全てを擁する、きょう(十ほどの里の集合体)を丸ごと抱える荘園だった。

 木々の疎らに茂る小丘に登って、劉備は荘園外れの里の一つを見下ろした。闇の中に光の点が浮かんでは消えて、それから地を這うように広がってゆく。炎だ。手下がざわめいた。二百ほど、半数以上が幽州出身の者達だった。まる二日も駆けて来ている。

 関羽が後方から追い縋って、そのまま止まらず駆け下った。変わらず乗馬は下手だった。手にした刀の煌めく軌跡が、夜闇の中で光の矢のように見える。囮にしようと思った。無茶かもしれない。だが鬼だ。手荒に扱っても死なぬだろうと確信していた。

「行くぞ、俺たちも」

「頭」

「やらなきゃならん」松明を灯し、馬の口を縛らせる。「西門の守りが薄いはずだ。急いでそこに回る。南門の方へ行った長生と、烏丸を挟撃して撤退させるぞ」

 馬の腹を蹴って駆け下りた。茂る梢が五月雨さみだれのように身体を打つのも、枯葉が頰を裂くのにも構わない。獣の真似をして馬に跨った先祖のように、一団は風や林や大地の一部になって、古壁の陰に身を隠しながら疾駆した。

 一鞭くれて飛び出す。朽ちた、壁を越える。丁寧に修繕された、真新しい里の城壁が、間近に迫る。門の上で吠えた異民を手下がたちまち射殺した。

——決着は、一瞬でつける。

 劉備は剣を抜いた。夜戦だ。正確な数を把握できないのは互いに同じ。官軍か民兵か、それすらも悟らせぬほどの時間、真っ向から力で押し潰す。

鯨波ときを上げろ!」劉備は咆哮を上げた。「太鼓を鳴らせ!」

「オオーッ‼︎」

 手下が馬上で小太鼓を鳴らす。一団は雄叫びを上げて奇襲した。獣は動揺して散ったが、幾らかが慌てて迎え討つ。入り組んだ里だ。弓は狙い辛く、馬が走れる大通りは一本しかない。真正面から、ぶつかる。

 異民を斬った。揉みくちゃになっていた。あちこちで落馬する陰、敵なのか味方なのか。両手でまた一騎に斬りつける。たん(柄も鉄でできた矛)の柄で受けられたが、全体重を乗せて押し込んだ。ぎちり。鉄の削れる音が耳をつんざく。

「俺のッ」互いの腕が力んで細かく震えている。「を、侵すな‼︎」

 右手を引いて、叩きつける。男の腕が落ちる。勢いのまま、脳天に剣がめり込んで目玉が飛び出た。足蹴にして人壁をぶち破る。

 呆気ない程ぽかりと空いた場所に出でたところで、一際立派な身なりをした男が、馬上から振り返って矢を射掛けた。かわしきれずに肩を掠られ、鏃が肉を深く切り裂いた。劉備は僅かに顔を顰める。一瞬引き離されたが、彼方の馬が突然立ち止まって、何かに怯えたようにいなないた。

 関羽の姿が、遠くの闇に浮かび上がって、すぐに消える。駆けて来ている。劉備も速度を上げた。退路を失い立ち往生する男の首を、二人はすれ違いざま同時に跳ね上げた。



「幾ら殺った」

 草履ぞうりの裏で砂利を何度か擦った後

「十数」

 と関羽は云った。

「二十は」

「超えてない」

 劉備は顎に手をやった。意外に頭は回る関羽のことだ、大きな数え違いは無いだろう。小隊だったのだろうか。多く出た怪我人の確認に追われ、細かな話は把握しきれていない。劉備は剣を抜き里内に灯された篝火に翳して、付着した血の量などを眺めていたが、やがて刃こぼれに気付くと舌打ちした。関羽が覗き込んで

「騎兵なのに、剣なんか使うからだ」

 と云った。馬上では長物の方が有利であったし、そうでないなら刀を使う。剣より新たな武器である刀は、疾駆の勢いで敵を搔き切るのに適している。

おもむきってやつが解らんかね」竦めた肩に鋭い痛みが走ったが、劉備は顔に出さなかった。軽くはない傷だろう。生温かい血が背筋や胸を這い伝って、汗とは別に下衣をひたと濡らしている。「刀や矛じゃ軽すぎる。古の王者は、みんな剣にてめえの道を誓ってきた」

 武器も馬も、張世平からの借り物だ。その張世平と手を組めたのも、役人の義兄の伝があったからだ。地盤も金も無い。だが誇りと才は在る。その強さで、劉備は手下を繋ぎ止めてきた。弱さは決して見せられない。

 関羽は興味無さげに

「ふぅん」

 と云った後、手慰みに斬馬刀を振り回した。劉備と同じく全身傷だらけだが、恐れを持たぬ彼のような生き物にそも痛覚があるのかは怪しい。

 里の中から呼ばれ、劉備は動ける者たちを伴った。十数年ぶりだが道は覚えている。土と茅葺かやぶきで作られたごく一般的な家々を左右に見ながら、車も通れるよう舗装された路を行く。屋根に霊獣の飾りのついた一際大きな会堂前へ赴くと、数十人の男が居り、その中の一人が進み出て深く拱手した。

「危ういところを、有難うございます。大した礼は差し上げられませぬが——」

「礼は要らん」

「は?」

 男が顔を上げた。彼はまず後ろの関羽の出で立ちを見てぎょっとし、その未知なるものを見る目つきのまま、劉備のことをも訝しげに睨めた。近い齢だったが、父老ふろう(里のまとめ役)には若すぎるように思える。

「俺は琢県劉氏の備、あざなを玄徳という者だ」

「えっ。は、はぁ」

「知らんのか?」苛立ちながら劉備は問うた。男が頭を下げる。「話にならん、父老を呼んで来い!」

 劉備は怒鳴った。村人たちがぎょっと見つめる。

東郡とうぐんはん県に居た劉県令の孫と云え。ぐずぐずするな!」

「は、はい!」

 男が二度見して走り去った。彼の目が己ではなく、後ろの兵たちに向けられていたことに、劉備の苛立ちは更に募った。程なくして父老が現れる。若い男の父だと名乗ったその老人へ、劉備は祖父から継いだ耳飾りや指輪を示して見せたが、彼は目もくれず、

御令孫ごれいそん」と硬い声で呼ばうた。「お久しゅうございますな、御祖父君ごそふくんには大変、良くして頂き——」

——『県令って、誰だ』

 村人の声が微かに聞こえた。

——『ばか、劉家の常徳じょうとく様だよ。ここが荘園だった時の、主の』

——『荘園? 荘園だったのか、此処は』

——『そうだよ。何で、今更』

 劉備は拳を握りしめた。終わっていない。今も続いている。たった十七年前のことだ。十七年前まで、ここは祖父の王国だった。外界から切り離されて独立した、琢県劉氏の治める荘園であったのだ。

「御令孫」父老がよう(副葬品の人形)に似た生気の無い顔で佇んでいた。「お怪我を、されましたかな」

「掠り傷だ、何ともない」

「そうですか。……して。こたびは、如何用で?」

「うちが此処を手放して、まだ二十年ほどしか経っていないだろう。義理で救援に赴くのはおかしいか?」

「いえ、おかしくは無いのですが……なにぶん、二十年も経っておりますので、その。ここにももう、新たな地主が居ります。御令孫が此処に留まられるとあっては、我らは如何したものかと」

 他人行儀にも程がある。劉備は密かに歯軋りした。生家のある里ではなかったが、それでも同じ囲いの中に暮らし、祖父の財と兵に守られ栄えていたのだ。気付けば

「張商人の認は下りている」と出任せを云っていた。この里は馬の仕入れ路の程近くにある。新たな地主とは張世平のことであった。「急いだ故、報せの類は持ってはいないが。この馬が証だ」

「あっ、そ、そうですか」父老の声色が急に変わった。「おい、酒と肉を準備するのだ。寝床も。お休み頂け!」

「大丈夫かい、玄徳。まずいんじゃねえかい」

 背後から不安そうに問う簡雍へ、劉備は振り返らず

「いいよ、別に」と口にした。「変わらんさ。どうせ、俺のものだ」

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