二、鬼神 1


《西暦一八七年 八月 後漢ごかん 冀州きしゅう中山国ちゅうざんこく


 『鬼が生れた』

 と、誰かが噂する声が聞こえる。田豫でんよは振り返りながら、見張りへ馬を引き出すための割符を返した。値の張る馬は自分達では手が届かず、全て張世平からの借り物なのだ。

 里外れの馬小屋前には、隊の数十人が待機しており、斜陽に照らされて伸びた影がひと塊に集っている。その塊から逸れるように、関羽が独り佇んでいた。田豫に気付くと、近付いて何か喋る。

「えっ」

 田豫の体が小さく跳ねる。言葉が分からぬだけでなく、この年下の男のことがどうにも苦手だったのだ。関羽は暫く考えるような素振りを見せてから、近くにあった木の枝を乱雑にへし折って

『鬼が生れたとは何事か』

 と屈んで、石畳の無い路傍の地面に書いた。田豫は少し驚きながら

『先月、都の方で鬼が出たのだ』と、慌ててしゃがんで、己もそばへ記した。放っておくのは少し気の毒に思えたのだ。『二つの頭を持つ赤子が生れたらしいと最近流行りの噂だ。この国の天命が尽きるのではないかと』

『天命とは』

「えっと」

 田豫は言葉を詰まらせて関羽の顔を見、それからまた書いた。この国の民であれば誰もが既知の話であるはずだったが。

『天子は、蒼天(儒教の絶対神)の子としてこの国を治められている。それを天命と云い、天命を君子が果たさぬ時、天は行いを改めよと災異を起される。故に、近頃の地震や干ばつや不作や、都に鬼が生れたのも、国家の天命が弱まって天のもたらした使いなのだろうと』

『鬼は』関羽が少し考えて、また書いた。読み辛い字だった。『何も齎しはしないだろう』

『何も?』

 関羽が立ち上がり、田豫を無言で見下ろしてから、里外れの方を振り返った。束ねた髪が夕焼けに揺れる。

「生きているだけだ」

 何を云ったのかは分からなかったが、視線の先を田豫も立ち上がって見やる。城の内外を別つ城壁だけが、夕陽の中に煌々とそびえていた。



「どこを、ほっつき歩いてんだか」

 張飛が卓上を片付けながら呟いた。袴だけを着て寝床の縁に腰掛けていた劉備は、書巻からふいに顔を上げた。関羽のことだろう。田豫は家へ帰っているし、簡雍は庭で酔い潰れていた。

「放っとけ」

 寝酒の空瓶を投げ渡す。張飛は何か云いたげだったが、受け止めて棚へ丁寧に並べた。

関羽を良く思っていないのだ。嫉妬している。それでも劉備は関羽の扱いを変えるつもりは無かったし、張飛はそれを心得ている。

「それ、兵書かい」

 片付けを終えた張飛が問うた。手招いて渡してやると真剣な面持ちで眺めている。近頃文字を教えてやっていた。

「読めるか?」と問えば、「まだ」と張飛は云った。いつか読めるようになる、という語気であった。劉備はそっと笑んだ。そういうところが可愛かった。

「官軍が黄巾を火攻めにした時の陣形図だ。官軍の指揮官、中郎将ちゅうろうしょうというのが、俺の先生。当代一の儒学者でもある」

「それを、毎晩見てるって?」

「俺なら、どう動かすかと考えてる」

「やっぱり凄えや、兄貴は」

 張飛が笑った。血の繋がった子であればいいのにと、劉備は思うことがある。

 加冠後故郷へ戻って娶った妻は、半年も経たずに出て行った。曰く、己の苛烈なところが堪え難いと。苛烈で無くて為せる偉業があるのだろうか。此方から離縁した。以来決まった女は作っていない。妻を娶って子を作り先祖への弔いを繋ぐことは、漢人の責務であるのだが。酒を飲み直そうかと考えた時、寝室の戸を蹴り開けて関羽が現れた。

「人の家だぞ、丁重に扱え」

「扉は開けるものだ。丁重も雑もない」

「くそガキめ」

 関羽はのっしと歩み寄ると、張飛の手から書巻を捥ぎ取った。

「何だよ!」

「陣形図か」

 喚く張飛を押し退けながら、関羽は片手で書巻を広げる。

「用兵の、手本にな」

「官軍、五万と書いてある」

「それくらいは、やれるつもりだ」

「何だよ、二人ばっかで話してさ」

 張飛が口を尖らせた。雅言が分からないのだ。

「別に、変わった話はしてねえよ。もう寝るぞ。長生も、寝ろ」

「ほっとけ」

「俺やだよ、こいつと寝んの。寝相悪りいし。この間えらい目遭ったんだ」

「うるせえ、ガキども」

 劉備はともしびを消し立ち上がって、好き勝手のたまう二人の襟首を引っ掴み、一つしかない広い寝床に引き摺り込んだ。気の強い小童どもは何やら喚くが、筵に埋めればやがて渋々不貞寝する。間に入ってほくそ笑み、眼を閉じた劉備の元へ、庭から酒盛りの音が響いて来た。張世平に与えられたこの邸宅に、幾らか住まわせてやっている手下の声だった。



「頭、頭!」

 門を叩く音で、劉備は跳ね起きた。まだ暗い。の刻か、うしの刻か。大通りの方が騒がしい。愛剣を引き寄せて息を潜めると、手下たちが門の方へ走る音が聞こえた。

 張飛が木のひうちを擦り合わせて冷静に火種を作っている。騒ぎの中でも眠る関羽を、劉備は腹を踏みつけ無理矢理起こした。仕返しに蹴り上げて来たが、ただならぬ雰囲気を感じたのかすぐに斬馬刀を持って立ち上がる。連れ立って灯りを待たず靴も履かず、劉備は下衣を羽織って庭へ出た。

 簡雍と手下たちが駆け寄って来る。後ろの張飛の携えた燈と前の松明に照らされて、庭の様子がよく見えた。しゃがみ込んで息を荒くする手下が一人。それを取り囲む十数人と、今劉備の周りにいる十数人。最低限の戦力にはなる、と頭の片隅で考えた。

「何があった」

「頭ぁ!」

「落ち着け」劉備は表情を変えなかった。報せを持ち込んで来たであろう男が、地面に突っ伏して何か口にしている。「水、出してやれ」

 簡雍が転げるように井戸の方へ走って行く。先に話を聞いていたのか、別の手下がはっと我に返って口火を切った。

「うっ、烏丸が」声が震えていた。「烏丸が、また、反乱を起こしたと……」

「……案ずるな、伯珪はくけい兄がいる。また収まる」

 公孫瓚こうそんさん、字を伯珪はくけい。劉備のもう一人の義兄である。前の琢県令で同門の兄弟子、今は朝廷の騎都尉きとい(騎兵指揮官)であった。かつて自ら矛を振るい手勢の十倍もの鮮卑を討ち破った猛将で、前の反乱の鎮圧にも一役買っている。

「でも、もう、琢まで来ていると」

 何か云おうとしたが、喉がわなないていたのでやめた。大きく息を吸う、眩暈がした。灯芯や松明の油が燃える匂いが、やけに鼻につく。

「琢の、何処までだ」

「分かりません」

「そうか、落ち着け」と劉備は云った。今度は誰でもない、己に云い聞かせていた。「落ち着け、行くぞ」

「行くって」

「琢県へだ」

「でも、馬が無い」

「張商人の馬小屋がある。そこからぶん取って来ればいい」

「そんなことをしたら、ただじゃ——」

「俺の責務に比べれば、そんなのはどうだっていいことだ。誰か、今すぐ馬小屋行って、馬を揃えて来い。見張りを殺してでも構わない」

「はい!」

 張飛と幾人かの手下が駆け出した。里の中でも騒ぎになっているのか、邸宅の土壁の向こうに、右往左往する明かりと煙が見て取れる。

「憲和、今すぐ動ける奴らを集めて来い。俺は行くぞ。百足らずでも」

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