陽の射さない寂れた裏路地で、滝川陽菜と新井樹が対峙している。

 

 滝川は自販機にもたれてニコニコと笑っているが、新井の方は歯ぎしりして少女を睨んでいる。

 彼の抱く陰湿な憎悪が暗い路地の雰囲気と合っていて、むしろ滝川の方が浮いているようだった。


 もちろん、彼女がそんなことを気にするはずない。


「俺のことを嵌めたってのか……!」


 唸るように言ったのは新井の方だ。

 自己承認欲求の強い彼にとって、相手を追い込んでいたはずが逆に誘い込まれていたというのは、なにか大きなものを吐き出したくなる程の屈辱である。そんな新井が平静を取り繕っている。これは非常に珍しいことだった。


 滝川は小首を傾げた。


「うん、ホントにカバみたいな顔ね。あと、全身黒のロングジャージ。鞄はないし軽装だから、バッテリーはそこまで多く持ってないみたい。……そう、爆弾の数は少ないの。これはチャンスだよ。……えぇ、すぐに来てね。じゃないと私――死んじゃうよ?」


 まるで待ち合わせ相手を催促するみたいな気軽さで言う滝川のセリフは、新井に向けたものではない。

 電話の向こうで応答している誰か――早瀬悠希に向けてのものだ。


 新井は大きく舌打ちをした。出来るだけ強く、自身の苛立ちを示すように。


「俺の異能はお見通しってわけかよ」

「ほとんど、ね。触れてるバッテリーを充電する能力かしら。便利で羨ましいわ」


 もう一度、新井は舌打ちをした。しかし先ほどよりは小さい、含みのある舌打ちだ。


 事実、新井には余裕があった。異能の全てを見抜かれたわけではないという、優越感に近い余裕。

 滝川が異能の存在を知っていたのは予想外だが、問題はない。むしろ女の傲慢な様子に内心でほくそ笑んでいた。


 勝った、と新井は確信する。


 確かに新井の異能は、バッテリーを充電する能力だ。外部からの電力によるものであれば、形式を問わず自在に供給できる。

 そして爆弾の正体は、劣化したバッテリーに不安定な電力を供給したものである。


 しかし、対象が自身の所有物や手元のものである必要はない。

 障害物さえなければ、半径3メートル全てが射程範囲内となる。


 例えば滝川が耳に当てている携帯電話とか。


 新井は思わずニヤリと笑う。

 最初から有利だとは思っていたが、まさかここまで馬鹿だとは。慎重に探ろうとか考えず、ハナから素直に爆破させればよかった。


 そんなようなことを考えながら異能に集中する。滝川が耳に当てている、緩やかなくの字型の機器に照準を定め、電力を送り込む。全身を巡る静電気の流れを1点に絞り、放出する。


 やがて携帯電話は爆発し、滝川の側頭部が吹き飛ぶ――はずだった。


「ッ、何で能力が!?」

「そりゃ発動しないはずよ」


 目を見開く新井に、滝川は半笑いで告げる。


「これ、携帯じゃなくて電池式のトランシーバーだもの」

「トラン、シーバー……?」


 滝川の掲げる携帯機器をよく見ると、折り畳めるような可動部分がない。それに携帯電話ほど薄くない。

 遠目からでは分からなかったが、確かにトランシーバーだ。


 クソがっ! と新井は叩き付けるように怒鳴った。閑散とした暗い路地に、空っぽの大声が響き渡る。


「追い詰めたつもりだったかしら? 残念だったわね。これまでもそうだったけど、あなたは自分が有利で安全な状態でないと顔を出してこなかったから」


 新井は虚を突かれたように息を呑んだ。


「な、そんなことはない!」

「最初に早瀬君に仕掛けたときも、他に目撃者のいないのを確認してから、逃げ場のない一本道でのこと。2回目も、出入口が1つしかない部屋にいるのを確認してから。しかもその時は、自分でドアを開けようともしない」


 臆病なんだね、と言って滝川はクスクスと笑う。無邪気で悪戯っぽい笑い方だ。


「てめえ……不利なのは変わんねえぞ?」

「そうかしら? トランシーバーを見抜けないあなたが、まだ私を追い詰めてるってこと?」


 ヒラヒラとまるで風に吹かれる葉のように、しなやかな手の中でトランシーバーが揺れる。


「クソッ!」

「あなたは他人を見下したくて仕方ないんでしょうけど」


 言いながら、滝川はようやく陰から姿を現す。ほとんど黒に近いグレーのカーディガンを羽織る彼女は、射貫くように鋭い視線を向ける。


「あまり私たちを舐めないで」

「馬鹿にしやがって!」


 八つ当たりのように怒鳴り散らし、ジャージのポケットから取り出したバッテリーを投げつける。


「ブッ殺す!」


 クルクルと回転しながら放物線を描くバッテリーは、自販機に誰かがと飛び乗る音と共にバケツ1杯の水を浴びる。たちまちの内にショートして一切の電力を受け取れなくなり、破裂することなく後ろの壁にぶつかった。


「先輩無事ですか?」


 バケツを持った早瀬が自販機の上から声を掛けた。


 パルクール。

 手すりや足場の多い裏路地で、廃ビルから自販機の上に飛び乗ることなど造作もない。趣味どころか悪ふざけ程度に続けていたものが、まさかこんなところで役立つとは、早瀬にも意外だった。


「大丈夫よ。これで爆弾は解決ね」

「ふざけんなぁ!」


 満面の笑顔を浮かべる滝川に、激昂した新井が掴みかかる。

 しかし濃いグレーの腕に触れた瞬間、新井が「あっつ!」と言って仰け反った。


「大丈夫? この古着、塩酸をたっぷり染み込ませたから危ないわよ」


完全防水皮膜モイストプロテクト』。

 滝川陽菜の異能は、目に見えない皮膜で自身を濡れないようにするというもの。防げるのは液体に限るが、逆に言えば熱湯でも劇薬でも、液体からの影響は一切受けない。


 つまり衣服と肌の間に皮膜を張れば、繊維に染み込んだ酸の影響が身体に及ぶことはない。


「おまえ滝川先輩に!」


 彼女の傍らに着地した早瀬は、右手を押さえて悶える新井を思い切り殴りつける。


 ケンカを知らない早瀬だが、腐っても血気盛んな男子高校生。不意を突かれて防御もできない新井の、その顔面を捉えた拳は容易に相手をぶっ飛ばす。


「この、雑魚! 服ダサ! 鞄ダサ! デブ!」


 挑発。

 滝川と練った作戦では、できる限り新井を挑発することを肝とした。口下手な早瀬には、小学生みたいな悪口を片っ端から言うくらいしかできないが……


「ざっけんな!」


 効果は絶大だった。


「先輩こっち!」


 慌てて滝川の手を引いて逃げ出す。

 鼻血を散らす新井が、手の痛みも忘れて追いかける。

 入ってきた路地を出て角を曲がり、滝川をそこに逃がしておく。


 そして、


(角で、切り返すッ!)


 早瀬はもう1度駆け出し、いま来た角を再び曲がる。路地の入口に差し掛かった早瀬の目の前に自販機が生成される。


 ちょうど道を塞ぐ形で。


「これで一件落着……」


 瓶ビールだけを売っている自販機の前で、早瀬は顔を綻ばせる。

 しかし、彼が言い終えるよりも早く、歪に肥大化したバッテリーが自販機を越えて放られてきた。慌てて滝川を庇う早瀬の背後で、バチンッと破裂音が響く。


「一件落着してないみたいだね」


 滝川が言った。早瀬の胸元にまるりと小さな顔があって、普段よりも近い位置で声がする。心臓がドキンドキンドキンと強く脈打つ。うんざりするほど大きな鼓動を静めるように、早瀬はゆっくりと息を吐き出す。

 そして滝川から離れ、瓶ビールだけを売っている自販機の上へ登る。


「それもパルクール?」

「そうです。先輩、瓶一個買ってもらえます?」


 いいよー、と言って滝川は紙幣を投入口へ呑み込ませる。瓶ビールを1本購入し、上から手を伸ばす早瀬に渡す。


「早瀬くん、未成年じゃなかった?」

「武器ですよ武器。これ、元々は俺の問題なんで」

「そっか」


 普段よりも厳しい顔つきの早瀬の、その決意を滝川は汲み取った。

 短い言葉で簡単に答えると、コクリと頷く。

 それからニコリと笑って、


「行ってらっしゃい」


 早瀬は新井のもとへ飛び降りた。



 ガラリとした暗い路地裏で、早瀬と新井が対峙している。

 片方は右手に中身の詰まったビール瓶を持ち、片方はズボンのポケットを平たい四角形で膨らませている。

 お互いに体格が違い、武器が違い、異能が違い、覚悟が違う。


「瓶で殴ろうってか? クソみたいな異能だと不便だな!」

「使い手がクソ野郎だったら、いい異能も宝の持ち腐れだな」


 豚に真珠じゃねえか、と早瀬はニヤリと笑う。


 果たして目論見通り、新井は見るからに苛立ちを募らせていく。

 遂にはバッテリーを1つ地面に叩きつけた。ガシャン! と小さな破砕音が反響する。


「ぶっ殺す!」


 発作に思えるほど反射的に怒鳴る新井は、尻ポケットから取り出したバッテリーを早瀬に投げつける。


 この瞬間、新井樹は自分を冷静とさえ思っていた。

 咄嗟に爆発する怒りや苛立ちに支配されやすい彼は、目の前の相手を殴りつけたくて仕方なかった。あの憎たらしい、眉の濃いのっぺりと平凡な顔面に、パンチを……。


 憤怒をこらえて、異能を使った投擲に転じたことが、新井には冷静な判断に思えてならなかった。


 放られた平たい白の四方形が破裂するより先に、早瀬は1歩踏み込んでビール瓶で打ち返す。

 打ち返す、と言えるほど立派に跳ね除けたわけではないものの、少なくともバッテリーの爆破により負傷することは避けられた。アスファルトで虚しく弾けるバッテリーを横目に、早瀬は近くの軒に跳び付く。


 普段行なっているパルクールの要領で、軒から壁へ、壁から壁へ、まるで蜘蛛のようにシュンシュンと跳び移っていく。

 立体的に跳ねまわる早瀬に翻弄され、新井は充電器を投げつけることもできなかった。


「クソっ」


 短く切るように呟きつつも、ひとまず唯一にして最大の武器を手にしようとポケットに伸ばした手が、予想外に虚しく空を切った。


 バッテリーを使い切っていたのだ。


 表情を強張らせる新井の隙を、見逃さない。

 再び地に降り立って真っ直ぐ新井の懐へ飛び込み、右手に握った瓶ビールで思い切り殴りつける――


 その刹那。新井が手の中に握っていたのは、自前のスマートフォン。


「ッ!?」


 交錯しかけていた早瀬と新井の間で、オレンジ色の火炎と共に端末が破裂した。

 ビール瓶が割れて中の黄色い液体が辺りに撒き散らされる。基盤やガラスの破片が爆散し、2人の皮膚を切り裂いていく。指が、手の甲が、掌が、手首が、腕が、頬が、耳が、傷つき、ダラダラと血を垂れ流す。


「あぁ痛ってえなんだこれ!」


 新井の悲鳴は意外に明瞭で、だからこそ惨めさが際立った。その場に倒れ込んでのたうち回る男を、早瀬は冷めた目で見下ろす。ほとんど狂気的な視線で。


 悪魔、と新井は思った。

 感情のない目で俺を見下ろしているこの悪魔は、容赦なく俺を殺すつもりだ。

脚が付け根からガクガクと震えた。痛みを感じるくらい歯がカチカチと鳴って、息を吸い込んでいるはずなのに酸素の入ってくる感覚がしない。


 早瀬は無感情のまま、砕けたビール瓶をゆっくりと振り上げて、躊躇うことなく振り下ろす……


「そこまでだ!」


 背後から低い声がして、早瀬はピタッと手を止めた。意識の大部分を激情に支配されていが、わずかに上回った理性が身体を冷静にさせる。

振り返ると、朽葉色のジャケットに身を包んだ壮年の男性が、ほんの僅かに微笑を浮かべてこちらを見ている。傍らには滝川の姿があった。


 ――自販機は一定時間が経過すれば消失する。


「誰ですか?」

「俺の名は村雨隆むらさめりゅう。警察だ」


 警察。


 その言葉を聞いた瞬間、早瀬はふらりとよろめく。

 先ほどまでの戦意が失せ、途轍もない疲労がドバドバと湧き上がって来て、それ以上に全身を巡る激痛が暴れ始めた。思わず早瀬は膝を突き、そのままアスファルトに崩れ落ちる。

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