第4話 これが俺の教え子たち(山神朋子の場合)その②

「遠路はるばるお疲れではないですか? 先生。よろしければ何かお飲物を」


 そう言うと朋子はパタパタとスリッパを鳴らしながら、アイランドキッチンの奥にある冷蔵庫から黄色い液体で満たされたデキャンタを取り出す。


 なんだ? 何かがおかしいぞ? なんかいつもの朋子らしくない。いつもだったら勉強そっちのけで俺を蠱惑させるようなアホな行動をとるはずなのに。


「オレンジジュースでよかったですか? 先生」

「あぁ。ありがとう……」


 グラスに注がれたジュースを朋子から受け取り、口をつける俺。半信半疑の気持ちからか彼女から目が離せない。


「さっきから様子が変ですが何かありましたか先生?」

「いや、なんでも……」

「ふふっ、変な先生。ところで先生のお名前って漢字でどう書くんでしたっけ?」

「ん? 俺の名前? 急になんだよ」

「いえ。先生とはもう長い付き合いになるというのに私ったら先生の名前をふと忘れることがありまして。ほら、私いつも『先生』としか呼ばないじゃないですか」

「あー、確かに。普段呼び慣れている方が先行しちまってその人の本名をうっかり忘れることってあるよな」

「はい。ですから改めて先生の名前を聞いておきたくて」

「そうか。俺の名前は——」

「あっ、待ってください先生。どうせならに書いてください!」

「おっ……おう。別にいいけど。書くほどのもんじゃないぞ?」


 慌てた様子でメモ用紙を取り出して来た朋子は、俺にペンを渡すと何故か頬を紅潮させながら俺のそばに体を寄せる。


「えぇと苗字は九重だから漢数字の『九』に『重い』だろ? 名前は——」


 俺が自分の名前である明日真の『明』を書こうとしたその時、ペン先がピタリと停止した。


「名前はなんです? 早く、その先を早く! 先生!!」


 俺の真後ろの方で何故か興奮気味に鼻を鳴らす朋子は、俺の肩に両手を置きながら次の文字を催促する。


「なぁ朋子。一つ質問なんだが……」

「はい、なんでしょう先生」

「このメモ用紙、何故?」

「そういうメモ用紙だからです」

「そうかそういうメモ用紙か……」

「はい」


 しばしの沈黙のあと、俺はテーブルから大きく仰け反りメモ用紙を乱暴に持ち上げた。


「そんなメモ用紙あるかぁぁぁ!! 一体何を隠してやがる!?」

「あぁ! ダメです先生。それをめくっちゃ——」


 ペラリとめくれた紙の奥から“婚姻届”と書かれたピンク色の用紙が姿を現し、ひらりひらりとテーブルに落下した。


「お、お前ぇぇ!! 俺に婚姻届を書かせようとしやがったのか!? 正気か!?」

「はい。至って真剣です」

 

 悪びれる様子もなく純粋な瞳をこちらに向けながら朋子が答える。


「尚のこと怖いわっ!」


 俺はすぐさま婚姻届を拾い上げると、両手で思い切り引き裂いた。


「あぁっ! 私と先生の愛の宣誓書が!! 全ての項目を埋めた宣誓書がっ!!」

「うるさい! ていうかこんなの役所に出しても受理されないからな?」

「そこは愛の力でなんとでも……」

「な・ら・ん!!」


 前言撤回。何もおかしいところは無かった。いつものネジの外れた朋子だ。アホみたいな行動で俺にアプローチを仕掛けるいつものコイツだ。


「馬鹿みたいなことしてないでさっさと勉強始めるぞ?」

「必要ありません」

「なに?」


 俺の発言を無表情のまま首を振り否定した朋子は、自信満々な様子でスッと何かの紙を俺に差し出して来た。


「ご覧下さい先生。私の前回のテストの点数を」


 朋子が出して来たのはテストの答案用紙で、物理と大きく書かれたその用紙にはいくつもの丸と99点という輝かしい数字が記されていた。


「物理99点……数学99点……すごいなこの点数は。これだけ取れていれば確かに家庭教師は必要ないな」

「でしょう? ですから勉強なんてつまらないことよりも私とイイコト——」

「他の教科は?」

「……はい?」

「いや『はい?』じゃなくて他の教科の答案は? 見せてみろ」


 俺の言葉を聞くなり硬直し始めた朋子は、目をキョロキョロと泳がせながらボソリと呟いた。


「ないです」

「ない?」

「うちの高校には他の教科はないんです」

「しょうもない嘘ついてんじゃねぇ!! 今、後ろ手に必死に隠している他の教科の答案を見せろって言ってんだよ!!」

「あぁっ!! やめてください!! そんな無理やり——、そこは……そこはダメェェ!!」


 変な叫声をあげる朋子だったが、男女の力の差を覆すことはできず抵抗虚しく俺は彼女の手から答案をひったくった。


「英語11点……」

「私は日本人です。他の国の言語なんて知りません」

「社会(政経)14点……」

「政治経済は国会議員にやらせればいいのです。私たちの義務は健やかに暮らすことです」

「同じく社会(歴史)16点」

「今は二十一世紀です。一週間前の夕飯すら覚えていないのですからそれ以前になにがあったのかなんていちいち覚えていられません」

「最後、国語……6点……」

「古文? 漢文? 呪文ですか? あれはもはや日本語ではありません。よって日本人である私は勉強しなくて良いのです」


 フフンと踏ん反り返る朋子を尻目に、俺は床に両手両足をついた四つん這いの姿勢で彼女の答案用紙に涙を落とす。


「なんでだぁぁぁ!! あれだけ教えたのになんでこんな点数になるんだぁぁ! 国語なんてもはや一桁台……うおぉぉぉおん!!」

「なっ、泣かないでください私の愛しき先生! 先生の努力はきっと報われます!」

「お前が台無しにしてるんだよ! あとさりげなく『私の愛しき先生』とか言うな!」

「“マイダーリン”の方が良かったですか?」


 俺は朋子の冗談にツッコむこともなくゆっくりと立ち上がり、彼女の方に振り向いた。


「……勉強するぞ……」

「せっ、先生〜。目が怖いです〜。あっ! ひょっとして勉強以外のナニかも教えるつもりなんですか〜?」

「…………」

「先生? 無言は怖いです。あの……せんせい……?」


 俺は彼女の首根っこをむんずっと掴むと、そのまま彼女を引きずりながらリビングを出ようとした。


「待って、待ってください! 先生。ジュース! ほらジュースがまだグラスに残って——」


 俺はテーブルのグラスを乱暴に引っ掴むと、そのままの勢いで逆さにし中に入っていたオレンジジュースを一気に飲み干した。


「行くぞ」

「あ〜〜〜〜〜れ〜〜〜〜〜……」


 力なく身を委ねる朋子を引き連れ、俺は彼女の寝室に向かった……。


****

****



「……というわけで、これが四段活用と上一段活用の大体の使い方だ。上一段は五十音のイ段に活用するから——」


 つらつらと古文の説明をする俺は、頭の上から湯気を吹き出し焦点の合っていない目で空中を見つめている朋子に気付き説明を中断する。


「っておーい、朋子〜? 聞いてるか〜? お〜い?」

「しぇんしぇ〜い……わたし……いま、平安京に来ていま〜しゅ。しぇんしぇいもこっちに来てくだしゃ〜い」

「……ダメだこりゃ。完全にトリップしてやがる。ハァ〜……、コイツは数学と物理だけは天才的に得意なのに他の教科ときたらコレだもんなぁ。先が思いやられる」


 俺は未だ『えへへ、えへへ』と不気味にニヤける朋子の肩を揺さぶり、休憩の提案を持ちかける。


「ほら! 朋子、しっかりしろ。お前もよく頑張ったからこの辺りで少し休憩しようか?」


 その言葉を聞くなり、目に正気を取り戻した朋子はガバリと素早く立ち上がった。


「はい!! 朋子、休憩しますっ!!」


 爛々らんらんと輝く瞳をこちらに向けながら俺の手を強く握る朋子を見て少し可哀想だと思った俺は、彼女の為に先ほどのジュースを持ってこようと席を立つ。


「待ってろ。今ジュースを持ってきて——」


 その時だった。前触れもなく、唐突に俺の両足から力が抜け、ガクリとその場に膝をついてしまった。


「あれ……? 変だな? ちっ、力が入らな……い」


 荒くなる呼吸と高まっていく鼓動、上昇する体温の中で後方から聞こえた『クスリ』という声で大体の察しがついた俺はゆっくりと振り返り、その声の主である彼女の名を呼ぶ。


「と……朋子。おまっ、なんかしたな……?」


 俺の弱々しいこの言葉は計画通りだと言わんばかりの不敵な笑みを見せる朋子は、スタリスタリとこちらに歩み寄り俺のそばで足を折りたたんでかがむ。


「フフッ。ようやく……ようやく効いてきたのですね。この媚薬が」

「びっ……媚薬……!?」


 朋子はワンピースの胸元に手を差し入れると、銀製の筒を取り出した。


「ひょっとしたら先生には効かないんじゃないかと焦りましたが、さすがは海外製の媚薬。効果が回ればすごいものですね♡」


 無邪気に笑う朋子は媚薬が入っているであろう銀の容器を艶かしく見つめる。


「ちょっと、待て……。媚薬……? そんなものいつの間に俺に飲ませたんだ? ていうかどこで買ったんだ! そんなもん!」

「フフッ、先生。この世はお金さえあれば大抵の物は手に入るんですよ? それに飲んだじゃありませんか。先ほど、それはそれは豪快に……」

「まさか……!? あのオレンジジュースか!?」

「はい。ご明察の通りです」


 なんてこった。油断した。三人の生徒の中で一番何をやらかすか分からない朋子だが、まさか媚薬なんてものを使ってくるなんて……! しかも俺に気付かれないようにあらかじめジュースの中に仕込んでいたなんて。これじゃあ気付くものも気付けな——


 ん? ちょっと待てよ? ? てことは……


「おい朋子。あのオレンジジュースお前も飲んでいたよな?」

「ンフフ。さすがです先生。その事実にもう気付くだなんて。そう! あの時、私もジュースを飲んでいました。ゆえに……」

「…………」

「今、信じられないくらいの興奮状態に陥っています」


 その言葉通り朋子は、俺に負けず劣らずの激しい呼吸と、真っ赤な顔面、焦点の揺れる眼球で俺を見つめていた。


「お前バカだろっ!!」


 大きなツッコミを入れたもんだから体に刺激が加わり、徐々に弛緩が強まっていく。


「……先生……。このうずきを止めるにはもはや“アレ”しかありませんよ?」

「“アレ”……?」


 艶かしい息遣いきずかいを発しながら俺の上に覆いかぶさってきた朋子は、わざとらしく耳元でささやく。


「フフッ。とぼけたって無駄ですよ先生。先生ももう気付いてるんでしょう? ほら。こんなにカラダを熱くして……」


 朋子の細い指先が俺の胸元に触れる。媚薬によって過敏になった肌がいやでも反応する。


「……よせっ、朋子! 本当に今はマズイっ、いつもの冗談じゃ済まなくなるかもしれないんだぞ?」

「冗談や酔狂でこんなことをするとでも? 私は望んでいるんです。先生に私の初めてを捧げたいと。それとも……」


 そこで言葉を詰まらせた朋子は、今までに見たこともないようなはかなげな表情で俺を見つめてきた。


「私には魅力がありませんか? 私は可愛くありませんか?」

「いや……そんなことは……」

「だったらっ……!」

「お、おいっ!」


 突然、力強く俺の手を引いた朋子は勢いのまま立ち上がると、そのままなだれ込むようにベッドまで俺を先導した。姿勢を正す余裕もなかったため、今度は俺が彼女に覆いかぶさる状態になってしまう。


「いいですよ……? 先生。このまま二人で情欲に身をゆだねましょう」


 俺の頬に手をかざし、優しく微笑む朋子の琥珀色の瞳に俺の姿が映り込む。


「……朋子……」


 俺はゆっくりと朋子の胸部へと手を伸ばし、彼女が着ているワンピースにあしらわれた蝶々結びの紐をほどきながら彼女の方へ顔を近づけていく……。


「あぁ、先生。ついに私たち一線を超えるんですね。この時をどれほど待ち望んだことか。さぁ、先生っ! 一思ひとおもいにバサリと脱がしてくださいっ! バサリと! バサ——へ? あれ?」


 素っ頓狂な声をあげた朋子は両目を見開き、自分が今どのような状態になっているかをようやく悟った。


「なっ……! 何故!? 何故私の両腕が縛られているのですか!?」


 そう。今、朋子はベッドの端のパイプに自分が着ていたワンピースの紐によって両手を拘束されていた。もちろん縛ったのは俺だ。


「油断したな朋子。ったく、本当お前には毎回肝を冷やされる」

「せっ……先生! そんな! 私の手を縛るためにわざと近づいたんですか!?」

「とっ、当然だ」


 本当は媚薬の力に負け、本能のまま彼女に近づいていた。そして寸前のところでワンピースの紐に気付き、事なきを得たなんて口が滑っても言えん。


「まさか先生……縛りプレイがお好きだったのですか!?」

「違うわっ!!」

 

 本当にコイツと話しているとペースが狂う。ヤツが動けないうちにとっととこの場から退散しよう。俺は未だ激しく脈を打つ心臓をなんとか押さえ込みながら、朋子の部屋を後にしようとフラつく足でドアへと近づく。


「せっ……先生! どこに行かれるんですか?」

「帰るんだよ」

「そんなっ! 私のこの狂ってしまいそうなほどの興奮はどうすればいいのですか!?」

「知らん。自業自得だ。時間が経てば自然とおさまるだろ。……多分な」

「あぁ。先生待って! 待ってくださぁ〜い!」


 俺は『行かないで』と懇願する彼女を無視し、ドアノブに手をかけ彼女に別れ際の挨拶をかける。


「朋子。今日やった文法ちゃんと覚えておくんだぞ? 次は明後日だからな。じゃ、あったかくして寝ろ」

「先生、せめてちょこっと! ちょこっとだけ私の体に愛撫を——」


 朋子の言葉を遮るように俺は乱暴に部屋のドアをバタンと閉め、彼女の部屋を後にした……。


 最後はあかりのとこか……。二人とはなんだよなぁ、あの子。

 ハァー……何事も起こりませんように。

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