第四話 『後編』


 その瞳には、何かがきらめいていた……。



 そこにはきっと……彼女の想いが宿っている……。

 緊張、不安、焦燥しょうそう、期待と信頼――それ以外にも、私にはうかがい知れない気持ちがあって、更には本人ですら意識のほかにあるものが含まれているのだろう……。



 好きなものにまっすぐな彼女……。



 私も彼女のようにありたいと思う。

 なら、いつまでもこのままじゃ、ダメだ。

 彼女が私の為に、近付いてくれているのに、私が歩み寄らなくては、その行為がウソになってしまう。

 勇気を持て。少しでも近付くのだ。

 一歩が無なら、半歩でも……。


 耳元で私はささやくように言葉をつむぐ……。








          ◆◇


 地元の複合施設のフードコート、私は蓮花から受け取ったメモを片手に内心、うなり声を上げていた。

 終業式翌日の夜、日課である夜電話をした時に蓮花から明後日会うときに夏休みでやりたいことリストをお互いに作って見せ合おうと提案されたのだ。

 正直、ちょっと面倒だなーと思いつつも承諾しょうだくした。

 そして今日、お互いのメモを交換して文面にある一文に煩悶はんもん、今に至る。

 ちなみに私の用意したメモには、

 日帰りで都内とかに出掛ける。

 花火をする。

 夏祭りとか……。


 ……段々と考えるのが面倒になり適当になっていった感がいなめず。

 いや、海やプールとかも考えたんだけどね!    

 でも、最近ちょっと……ちょ~~っとだけ、お腹周りがふくよかになっている気がするんですよ、はい。

 多分気のせいだと思うんですけどね。昨日母親にすれ違い様に二の腕をムニムニされて、夕飯が鮭のムニエルだったこともあって、この用紙を夜に書くときにちょっとナイーブな気持ちになっていたのは別に関係ないけどね。

 ほんと、全然関係ないんだからね!


 原因は間違いなく蓮花だった。彼女と付き合い始めてから、甘味を摂取せっしゅする量が倍くらいになったのだ。

 というか、何で付いて欲しい所に脂肪は付かなくて付いて欲しくない所には付くのか。やはり遺伝……だろうか……。

 母親のモデル体型を思い出す。

 はあ……今度ランニングでも始めようかな……。


「綾音どうかした? 何か重いため息をついてるけど」

「え? な、何でもないよー」

 あははー、と取りつくろった笑顔を向ける。

 と、蓮花のメモは何が書いてあるのかなーと…


 なんかワクワクしたり⭐ドキドキしたり⭐いっしょに楽しいことして、キラキラしたひと夏の思い出を共有したい♪


とのことだった。

 抽象的ちゅうしょうてき過ぎでしょ、これ。

 抽象絵画でももう少し具体的なテーマとか目的とかあるんじゃないの? 知らないけどさ。

 というか、自分からどこか行きたい所をメモしてと言ってた筈なのに全然それが示されていなかった。


 まあニュアンスは伝わるけどね。

 蓮花がすごく楽しみにしてる気持ちもわかる。私ももちろん楽しみだけどさ。

 可愛い彼女が出来て初めての夏休み!

 夏休みに友達と遊びに出掛けるだけでも楽しいけど、更に親しい人とのお出かけである。そりゃあワクワクもする。 

 でも、それよりもひとつ気になる事がある。


 そう、今煩悶している原因はその点にある。


 ひと夏の思い出って……。

 俗に言うアレのこと、だろうか。

 マンガの女子高生とかが、友達と放課後こっそり話したりする会話が思い浮かんだ。

「あたしぃ、この夏、かれしぃと、ひと夏の思い出刻んじゃった♪」

「マジ? そっかー、ユッキーもやっと大人の女になれたんだねー⭐ おめでとぉー♪」

「ありがとぉー⭐ イエィ!」

 イエィ! みたいな? そーいうの? 


 そういう意味合いなら、つまりはでこちゅーよりも更に上に行くものを求められているという事……だよね。

 え? でこちゅーより上って何?

 そもそもキスに上とか下とかあるの? 

 あるかぁ……。

 ほ、ほっぺたとか……? く、唇とか? 

 ……っ?!

 パタパタと車のワイパーのように手を大きく左右に振って妄想を霧散むさんさせる。

「どうかした? 唸ってたと思ったら今度は頬を真っ赤にして腕を振ったりして」

「えっ?! あ、いや、だ、だいじょぶだいじょぶ!! ちょ、ちょっと熱いなーって思ってさ」

 蓮花をなるべく見ないようにして何とか愛想笑いで応じる。

「そ、そう? 冷房強めで私はちょっと寒いけど…」

 蓮花が肩を抱いて身震いする。

 予報で三十度超えの夏日だと言われていたからか、今日の蓮花は水色のリボンが付いたノースリーブワンピースを着ていた。

 フードコートで話をするって決めてたんだから上着の一枚も持って来るべきだろうに。

 いや、まあ可愛いけどさ、その服装。めっちゃ好みだけどね、私も。多分世の中の男子とかも。

 そんな可愛い服を私の事を多分考えながら選んでくれたんだろうなぁ。

「今日の服、可愛いじゃん」とか言った時に見せてくれた笑顔がまた天使過ぎて……っと、危ない危ない、更に頬がとろけそうになってしまう。

 咳払いをして、上着に羽織っていた水色のカーディガンを脱ぐと彼女に渡した。

「ほら、着なよ」

「え? あ、ありがと……」

 本当のところは少し寒いけど、蓮花が喜んでくれたので、いいや。むしろ彼女のお礼で心温まるまである。

 ……ヤバイな、夏のせいかな? 最近思考がバグってる気がする。

 受取った蓮花がそのカーディガンをじっと見つめたまま固まっている。はよ着なさいな。

「あの、蓮花さん?」

 蓮花が我に返りハッとする。

 そしてわずかに頬を染めながら呟いた。

「あ、うん……えっと、な、何かこれってマンガとかのワンシーンにあったなーって、思ったり……して」

「え? あ、あぁ~……」

 よく彼女が彼氏から上着を借りて着込むシーンのこと、だろう。

 まあ蓮花は彼女だし、普通だと思う……んだけど、そうやって意識すると恥ずかしさがじわじわと背筋からい上がって来て、私は何となくうつむいて襟足えりあしをかく。

 しばしの沈黙……そっと蓮花を見上げると ――ぱちり。お互いの視線が交わり、照れ笑いする。

 何かおかげで肩の力が抜けた。

「もう、変なこといきなり言わないでよ、こっちまで意識しちゃうじゃん」

 やんわりと批判する。

「ごめんごめん。でも、綾音の優しさがうれしかったし、それに……わ、私だけ意識してたら、なんだかさみしいかなって……一緒に綾音と同じ気持ちを共有したかったから、ね?」

 蓮花がカーディガンで萌袖状態の手のひらを口元に当ててちろりと見つめてくる。

 うぐ……。

 その熱視線に息がつまりそうになる。

 再度加熱し始めた頬を悟られないように顔をそむけつつ、勢いのままに当初の話へと切り替えた。

「そ、それよりさ! れ、蓮花は、どっか行きたいとことかないの?」


 そう、初めにこの提案を受けた時に、蓮花はどこか具体的に気になっている所があるに違いないと、思ったのだ。

 蓮花検定二級くらいは所持してると自負する私にとって、こんなの五級レベルの問題なのだよ、れんちょ……蓮花さん。


「え? あ……う、うん。じ、実は……」


 好きなことにまっすぐな彼女だけど、自分の意見を相手に強要するようなことはしない。

 でも、ちゃんと自分を視て、知って、気持ちに触れて欲しい……そんなちょっと面倒くさい女の子――それが私の彼女、姫宮蓮花ひめみやれんかだった。


 蓮花がわずかに俯いて髪の毛を指でいじいじしながら頬を染める。

 いじらしい姿に胸から温かいものがじわりと溢れてくる。

「うん、いいね! そこに行こう!」

「え、まだどこに行くか伝えてないけど……」

「大丈夫! 蓮花のためならキッズスペースでも遊べるし、ファーストフードの店員にスマイルやお子さまメニューも頼めるから!」

「え? ちょ、わ、私そこまで子供じゃないんだけどっ?!」

 蓮花が頬をふくらませてねてしまう。

 そんな顔を見てもあせりよりも微笑ましい気持ちになる自分がいた。

 二十分後、週末の予定が決まった。

 空白の二十分の間に何があったのかは、お互いのプライバシーのために割愛かつあいさせていただきます! まる。



          ◆◇


 玉子焼きを一つ食べ終えたつむぎから声を掛けられた。

「――時に蓮花ちゃん、何か良い事あったっしょ?」

「え?」

 驚く私を見て、紬が苦笑した。

「いやね、バイトに来てから今日はずうっと……暇さえあれば鼻歌歌ったり、急にえへへって笑い出したりして分かりやす過ぎかよ蓮花ちゃん。というか、これで何もなかったりしたら、一度精神科への受診をおすすめするね、私は」

 ずいぶんな言われようだったが、図星を突かれた私は黙り込むしかなかった。

 午後一時半、私と紬、汐莉しおりさんの三人は受付を交代して貰って少し遅めのお昼ご飯をとっていた。

 夏休みに入ると、私は朝食の後に自分一人でお弁当を作るようになっていた。

 まあ簡単なものばかりだけど。

 いつか綾音にもご飯を作ってあげたい。

 何とかは胃袋でつかめって言うし……。

「蓮花ちゃん? 急に頬を赤くしてどしたん?」

「ふぇ? あ、いえ! な、何でもないよ?! うん!」

「分かり易過ぎなんだよなぁ、その反応。本当チョロ娘だねぇ、蓮花ちゃんは。ま、そんな初々しいところがまたからかい甲斐かいがあるんだけどね♪」

 にひひっと意地悪く紬が笑う。

「もう、つむちゃんそれパワハラだよー!」

 見かねた汐莉さんが紬に注意してくれる。

「え? そうなん?」

 むう、さっきから言われたい放題で、何だか悔しい。

 ところで……二人もお弁当だけど、いつもメニューが同じなのは何でだろう?

 私の視線に気付いた紬がマイ箸で肉団子をつまみ、差し出してくる。

「これ欲しいの?」

「いや、そういう訳じゃないけど」

「ほーれほれ、美味しいミートボールだぞー」

 紬が私の目の前で肉団子を挟んだ箸で八の字を描く。

「だからいらないって」

 と、汐莉が聞こえよがしに大きく咳き込んでいる。

「ん? 汐莉ちゃんどったん? 風邪ですかにゃー?」

 紬が意地の悪い笑みを浮かべる。

「紬ちゃん、とりあえずミートボールを振り回すのを止めて! お行儀も悪いし」

 私が本気のトーンで言うと渋々といった形で紬が弁当箱へ――ガシッ!!

 その手首をがっしと掴み、そのまま汐莉がその肉団子をパクンと食べた!

 室内に沈黙が落ちた。

 呆気に取られる私の肩を掴み、紬が一言。

「あはは、ごめんね。汐ちゃんお腹が空くと時々野性味溢れちゃうんだよね~」

 や、野性味? 何その新単語? いや、何となくニュアンスは伝わるけどさ、適当過ぎないその説明。

 笑顔の紬の頬を汐莉がグニグニとしているのは見なかった事にする。

 何ともモヤモヤする幕引きになってしまったが、これ以上深入りする気にはならなかった。


 バイトを上がる時に綾音とのデートの話を伝えると紬は「ふふ、良い報告を楽しみにしてるよん!」と肩をぽんとしてされ、すかさず汐莉さんに「まーた、変なプレッシャーかけないの!」と注意されていた。



          ◆◇


 ねーちゃんへのフライングボディアタックは夏休みに入って数日、もはや朝の習慣となりつつあった。

 バイトを始めたというからねぼすけねーちゃんも少しはマシになると思ったのに、どうやら朝イチの時間にシフトを入れていないらしい。

まったくもってぐーたらねーちゃんなのであった。

 初めのころは順を追って起こしていたけど、最近はメンドーだからいきなりフライングボディアタックをおみまいしている。

 ラジオたいそうに毎朝欠かさず参加してかいきんしょうをねらっている身としては朝はいそがしいのである。

 ねーちゃんの部屋のドアを開けながら声をかける。どーせ起きてないだろーけど。

「ねーちゃん、もう朝ごはん出来……」

 そこで言葉がつまる。

 見つめる先に長いかみの女が居たのだ。

 女はこちらに背を向けてねーちゃんの布団の前にかがんでいた。

 ドアノブに手をかけたまま固まる私の耳に、カシャッという聞き覚えのある電子音が聞こえて来た。

 そうしてこちらにふり返り、私の存在に気付いた。

「きゃあっ!」

 なんともかわいらしい声のトーサツ犯だった。

女をにらみつけながら、なるべく声を低くする。

「あ、あんた、だ、だだ、だれ?」

 きんちょうのためカミカミで、声も上ずってしまい、せき払い。

 女はむねを押さえて何度かしんこきゅーすると私を見てにこりとした。

 その笑顔はクラスメイトのリリちゃんみたいにきれいだった。

「驚かせちゃってごめんね。私、姫宮蓮花。あなたのお姉ちゃんの……お友達? うん、友達ともだち!」

 ……なんで初めに首をかしげるんだよ。そう何度も友達と言われると、うさんくさいことこの上ない。

 目を細めて相手にジンモンする。

「ふーん、仮にあんたの言うよーに友達だったとして……何でトーサツしてんの?」

「と、盗撮?」

 女がきょとんとする。

 見開かれてひとみがとてもきれいだった。

「ねーちゃんのねてる顔をサツエイしてたじゃん、フツー友達にそんなことしなくない?」

「そう…かな? えーと、あなた、どんな花が好き?」

 は? 花? なんでいきなりそーなる。

 私は不思議に思いながら答える。

「ひまわり…」

「ひまわり。いーね、夏の花って感じがしてあなたに似合いそう」

 女がなぜだかうれしそうに笑いかけてくる。

 女が笑うとふわりと周囲の空気がやさしくゆるんだ気がした。

 あやしいヤツではあるけど、好きなものをほめられて悪い気はしなかった。

 けど、なんか話をごまかそうとしてる?

「あのさ、そんでなにが言いたいのさ」

「え? ああ。つまりさ、人間、きれいなものを見るとワクワクしたりニコニコしたりポジティブな感情がいてくると思うんだよね。そして、目に焼き付けるだけでなく、写真に納めたくなるじゃん?」

「うん、まあその気持ちはわからなくもない」

「でしょでしょ! つまりはそーいうことなのです♪」

 ちょ、顔近い顔近い!! なんかいいにおいするし、ひとみがすいこまれそうなくらいにきれい。

 私はキラキラオーラに気圧されながら答える。

「そ、それで、なんでねーちゃんのトーサツコーイにつながるわけさ?」

「え? 完璧に説明したけど?」

 女が学校の鳥小屋に居るセキセイインコみたいに小首をかしげる。可愛い……じゃなくてっ!!

 私は気持ちを落ち着かせるために深く息をついた。

 どうもこの女とは思考がかみ合わない。

 ま、トーサツ女だしな。かみ合っても困る。

 母親が階下で私を呼ぶ声がした。

 時計を見るとそろそろ家を出ないとまずい時間だ。

 私はビシッと女を指さした。

「私はコトミ。これから出かけるけど、ねーちゃんがねてるからって変なことしたらゆるさねーからな!」

 言ってから、急にはずかしくなってくる。

 だって、これじゃまるで私がねーちゃん大好きっ子みたいじゃん。

 そんなことありえないけどなっ!

 女を見るとなぜかほおに手をあててリンゴみたいに赤くなっていた。

 今のセリフのどこに赤くなるヨウソがあるのさ。ホント変なヤツ。

 部屋を後にすると後ろから声がかかった。

「また遊ぼうね、コトミン♪」

 むっとして振り向くと、めっちゃフレンドリーな笑顔でバイバイされた。

「あそんでないだろ! それとコトミンいうなし!」

 があっ!とほえたのに、レンカはなぜかうれしそうだ。

 ささくれだった気持ちがやわらかな毛布にくるまれるような感覚。

 改めてハンコーの意思を示してもムダな気がした……。

 前を向き、リビングへ下りる。

 あーいうヤツってニガテだ。



          ◆◇         


 蓮花の夢を見た。

 私が布団で眠っていると蓮花が私の隣に座り込み、優しく髪をでてくれる。

 ひやりとした指先が気持ちよくて、私はなかなか起きれない。

 そんな私に蓮花がふすっと頬をふくらませ、頬をつんつんしてくる。

 身じろぎする私の頬を今度はむにむにとしてくる。

 そこでようやく私は目を覚ますと、蓮花が柔和にゅうわな笑みをたたえてこう言うのだ――おは……。

「おはよう、綾音♪」

 目を開き、布団の前に座り込んだ蓮花と目が合う。

 わあ、本物の蓮花みたい。

 私は布団から手を出すと彼女の頭を撫で撫でする。

「ちょ、あ、綾音?」

 ふわふわさらさらの髪の毛が指の間を流れる。

 頬をわずかに桜色に染める姿が愛らしい。そんな姿を見るだけで温かい気持ちになってくる。

 それにしても、ずいぶんリアルな感覚だなー。再現度すごい。ここはどうかな?

「ふぁ、ちょ、ちょっと……」

 彼女の頬をふにふにする。

 柔らか~、あったか~い。

 そのまま永遠にむにむに出来そうだった……。

「も、も~う!」

 蓮花が眉根まゆねを寄せて怒り、私の頬をグニっとした。

「いたた……へ?」

 手をぴたりと止めてまじまじと蓮花を見つめるとある事実に気付いた。

 さっきまで夢の中の蓮花は制服姿だった。

 でも、今目の前にいる彼女はノースリーブのワンピース姿だった。

 ぶわっと背中に冷や汗が浮かび上がる。

 私はふるふると手を震わせながら、そっと問いかける。

「…………あ、あの……れ、蓮花……さん?」

「なぁに?」

 いたずら成功にニコニコ顔の蓮花さん。

「ど、どーして、私の部屋に……居るのかなー?」

 いや、まあ私と蓮花は幼なじみだし、母親と蓮花は面識あるし、遊びに来たと言われれば――(綾音のヤツびっくりするぞ! こいつぁ面白そうだっ!!)どうぞどうぞと部屋に案内するだろう……て、これ犯人うちの母親じゃないかっっ!!(確信)

 そんな感じで寝起き早々に眉間みけんにシワを寄せて憤慨ふんがいしていると、蓮花はそっと口元を隠しながら、上目遣いでぽしょり……。

「……え、えへへ…き、きちゃっ……た♪」

 刹那せつな、全身を雷に打たれたような衝撃が走り、布団に突っ伏した。

 こうかはばつぐんだ!!

「あ、綾音?! だ、大丈夫?」

「あ、だ、だいじょぶッス」

 カの鳴くような声でかろうじて返す。

 ヤバいっ?! 何? 何? 今の?!

 死ぬわっ! 

 寝起き早々に、オーバーキルされそうになる。蓮花、いつのまにそんなあざと可愛い即死技を習得してるのさ。

 蓮花、恐ろしい子っ!!



          ◆◇          

 

「それじゃあ、綾音ちゃんをお借りします」

 綾音の母――静香さんに頭を下げる。

 静香さんは手をひらひらさせる。

「はいはーい、どーぞどーぞ。なんなら家に持ち帰ってもいいよー!」

「はあっ?! バッカじゃないの!!」

 すかさずムキになって反論する綾音。

 普段は私のことを子供扱いするわりに、こんなささいな言葉遊びに躍起やっきになっている。これじゃ、相手を面白がらせるだけだろうに……。

 案の定、静香さんが口元に手を当てて「そんなにムキになって、可愛いですにゃあ♪」

 なんて嘲笑ちょうしょうされていた。

 いつもは私より一歩引いて見守るような姿勢の彼女が、私の事になるとこんな単純なわなに引っ掛かってしまう。

 新たな一面に微笑ほほえましく思いつつ、私は首を振った。

「いえ、今日はお持ち帰りされる側ですから」

 満面の笑みで返す。

 綾音が目を見開く。

 静香さんは一瞬驚いた後――「あはは、言うねぇ蓮花ちゃん」と快活に笑った。



          ◆◇          


 駅のホームにある待合室に着くと蓮花が静かに言った。

「あのさ、これから都内に行っても手を繋いでいいかな……?」

 何だ、そんな事……そう応えそうになり、口をつぐむ。

 今までのデートでは、地元など比較的田舎の所が多かった。

 でも、今日は都内へと出掛ける。そうなると自然、多くの人の目に触れることになる。

 そのせいで奇異な視線を向けられたり、陰口を言われたり、不快に思う人もいるだろう。

 それは彼女のみならず私に対しても同じ。

 黙り込む私に、蓮花が慌てたようにわたわたと手を振る。

「あ、わ、私は別に、どちらでも構わないよ! どちらでも……」

 努めて明るい口調でえへへっと笑う。


 拒絶きょぜつされた時の予防線。傷付かない為に、相手を気に病ませない為の言葉。

 好きなものにまっすぐでいたいという気持ち。でもそれを貫く事が誰かを不愉快にさせる、大切な人に迷惑をかけるおそれがあるというジレンマ。

 その優しさは、同時に自らの気持ちを押さえ付ける鎖にもなる。

 彼女の手を掴む。

「あ、綾音?」

 おそるおそる、問うような視線に微笑む。

「前に、言ったよね。私は好きなものにまっすぐな蓮花が好きって――だから、私にもっとあなたの本当を視せて欲しいな。それに、地元は地元で友達とかクラスメイトに見つかるリスクはあったと思うけど」

「あ……」

 え? 気付いてなかったの? マジで?

 私の無言の視線に蓮花が照れ笑い。

 マジかぁ……。

 まあ私は周囲に警戒しつつ行動してたけどさ。えー、蓮花さん、まさかの無自覚でしたか……。

「だ、だって……あ、綾音と居られるのうれしくて。つい気持ちが舞い上がっちゃってそこまで余裕がなかったっていうか……夢中になっちゃうんだもん。それくらい、綾音の事好き……だし」

「ちょ、ちょっと待って!」

 いやいやいや、いきなり何を言い出してるのこの娘! 

 声を潜めていても、周りに人が居るからね!   

 あと、好き好きオーラがすご過ぎて、聞いてるこっちの方が恥ずかしくなるわ!


「え? でも、今綾音も言ってくれたよね?」


 好きなものにまっすぐな蓮花が好きって――だから、私にもっとあなたの本当を視せて欲しいな。


 言ったけどさ、言ったけどもさ!


 頬が熱を帯びてくるのを感じる。

 手をパタパタして頬に風を送りながら、蓮花をちらりと見つめ――うるんだ瞳の彼女と目が合い、お互いに視線をふいっとらした。

「……そ、そーいう事だから、気が付かなかったの……」

 髪をくしくしとしながら弁明される。

「あ、う、うん……分かった」

 得も言われぬむずがゆさを覚えて頬をかきながら何とかお礼みたいなものを返す。

 開け放たれた窓から風が流れ込み、一瞬のりょうをもたらした。

 ホームに電車が滑り込んで来る。

 立ち上がり、ホームへ向かいながら、どちらからともなくきゅっと手をつかんだ。



 乗り換えをして次の電車に乗り込むと、予想通り車内は混み合っていて、私達はドアの脇に何とかスペースを見付けて向かい合う。

 電車に到着する度に人が降りて乗り込む、ドアの脇は、降りる分には楽だけど、その分乗り降りの際にどうしても人の流れのあおりを受ける形になる。

 座席脇の壁に背中を遠慮がちに預けた彼女を守るようにドアに背を向ける。

 しばらく過ぎて何度目かの駅へ到着し、人が乗り込んで来た時、危うく蓮花にぶつかりそうになり、座席にある壁に手を付いた。

「綾音大丈夫?」

「うん、へーきへーき」

 大丈夫と笑いかけると、ふいに彼女が頬を赤らめてうつむいてしまう。

「蓮花?」

「……」

 黙り込む彼女を見ていると、ふとある事実に気付いた。

 ……こ、これって、壁ドン…だよね……。

 うぅ、ヤバい……意識すると急に胸がどきどきして来てしまう……。

 リンゴみたいに鮮やかな赤に染まる彼女の頬、つややかな黒髪、微かに漏れる吐息、そして彼女から香る花の匂い……。

 その柔らかそうな頬に、手触りの良さそうな髪に、はかなく聴こえる呼吸と甘い薫りに、触れてみたいと、つい食指しょくしが動きそうになる……。

 と、刹那電車が揺れて頭を壁にぶつけた。

「ったぁ…」

 じんじんする頭を、蓮花が撫でてくれた。

「大丈夫?」

「うん」

 もちろんそんなものですぐに痛みは引いたりはしないけれど、冷房にさらされたひんやりとした指先が気持ち良く、彼女優しさがうれしくて、でもちょっと恥ずかしい。

 蓮花の耳がうっすらと色付き始めている。

 きっと私も同じ色。

「綾音……」

「な、なぁに?」

「なんだか、熱いね……」

「へ? あ、そ、そうだね……な、夏、だからかな?」

「あ、そ、そうだね」

 本日何度目かのお互いの愛想笑い。


 もちろん、熱いのが夏のせいだけではないことを私達は分かっていた……。



          ◆◇          


 改札を抜けると数歩後ろを歩く彼女を振り向いた。

「目的地、とうちゃーく♪」

 自然、笑みが溢れる。

 彼女と居ると笑顔になることが多い。

 笑顔になると、気持ちが上がる。

 そんな効用が彼女と居るとある。

 これが幸せというものなのだろうか?

 なんて、ちょっぴり恥ずかしいことを思ってしまう。

 それくらいには浮かれてます、私。

 でも、好きな人と休日デートだってうれしいのに、それが初めての都内デートとなればそれくらい浮かれちゃうよね、フツー。

 うんうんと、自己完結。

「……それで、蓮花のお目当ては限定ショップでいいの?」

 いきなり目標の一つを言い当てられて驚い。

「サイトをググったら出てきたからさ、ミッフィーの限定ショップ。私も楽しみだったから、ちょっと調べてたんだ」

 彼女が私とのデートを楽しみにしてくれている……当たり前かも知れないけど、そんな事実がうれしい。

「じゃ、じゃあ、私がエスコートしてあげるね」

 彼女の腕をつかみ、体に密着させる。

「ちょ、ちょっと蓮花、歩きづらいし、汗かいてるから……」

「ふふ、大丈夫だよ、私も歩きづらいし、汗かいてるから♪」

「それは全然大丈夫じゃないんだけどなー」

 ぼやきつつも、綾音は私に大人しくドナドナされるのだった。

 彼女から香る柑橘かんきつの匂いに足取りは軽く、ゆっくりと歩き出した。



          ◆◇          


 限定ショップの中は多くのお客さんで混み合っていた。

 入口にたたずみ、店内へ向ける彼女の瞳は幼子のようにキラキラと輝き、ふるふると身震いをすると共にほわああああ、と小さな歓声を上げる。なんとも分かりやすい。

 自分の親しい人が放つ好き!というまっすぐな感情に触れていると意識せず、優しい声が出ていた。

「ほら、見てみようよ」

「う、うん」


 気になった商品を見付けると手に取り、眺めたり、手触りを確かめたりして、時折私に話を振ってくる。

 ハミングする音は調子外れのひどいものだったけれど、軽やかに弾む音は私にそこまで心を許してくれているという証左しょうさであり、うれしかった。

 幸せという音があるとすれば、それはきっとこういうものなのかも……なんてね。



 会計を済ませた彼女の手を引いてお店を後にする。

「買い物付き合ってくれてありがと♪」

「別にいいよ。私も良いのを見付けたし……」

「え? 綾音何か買ってたっけ?」

 無言でスマホの画面を彼女に差し出す。

「ちょ、ちょっと何それ?!」

 スマホには彼女がミッフィーのぬいぐるみを手に取りうっとりと見詰める姿が写っていた。

「いやぁ、可愛い写真が撮れて良かった良かった」

 彼女が頬を染めて抗議こうぎする。

「け、消して!」

「え~、可愛いじゃん。私はこんな蓮花も好きだよ」

「ふぁ、す、好き?! あ、その……あり……がと……」

 ほおに手をえてにへへ~っと笑う。

 チョロい、チョロ過ぎるよ蓮花ちゃん。

 今時小学生でももう少ししっかりしてそうだぞ。

 蓮花の行く末がつい不安になってしまう。

 ハッとした蓮花が詰め寄ってくる。

「…て、それはそうと写真は削除してー!」

 頬を赤くしたまま、ぽかぽかアタックされる。

 華奢きゃしゃな細い腕で叩かれても小さな孫がおばあちゃんに肩たたきをするくらいの力だった。



 適当なおしゃべりをしながら気になる店があると中に入る。

 そんなありきたりなやりとりも、好きな人とするそれだけで気持ちが高揚こうようする。まるで魔法にかかったようだ。

 


「お待たせ」

 トイレから戻った時、彼女がガラスケースをのぞいていた。

 後方からそうっと近寄ると、そこには腕時計やネックレスなどの貴金属類がかざられている。

 ショーケースを見つめるその横顔を、私は知っている――好きなものを見付けた時の顔。

「気になるものがございましたら、実際にお付けしてみますか?」

「え? あ? い、いえ…私は……」

 店員に話しかけられて狼狽ろうばいする。その隣に立ち、軽く頭を下げる。

是非ぜひお願いします。あ、私も同じものを付けて見たいのですが、同じものありますか?」

かしこまりました。確認して参ります」

 店員が下がると蓮花が振り返る。

「あ、あの……お、同じものって……」

 そんなうるんだ瞳でこちらを見上げないで貰えるかな。こっちだって頼む時結構恥ずかかったんだからね!

 ヤバい、頬が熱くなってきた……。

「あ、あはは。い、イヤ……だったかな?」

 顔を背けて頬をかく。

「う、ううん!! む、むしろ……う、うれしい……かな」

 蓮花が頬を赤くして指先をいじいじする。

「……っ!!」

 深く、ゆっくりと息を吐き出して平静を保つ。危ない、人前なのに危うく蓮花を抱きしめそうになってしまった。

「あのぅ、お客様?」

 と、背後からひかえめな声をかけられる。

 先ほどの店員が何かをさっしたようにこちらを見詰めていた。

「あ、すみません」

「いえ、こちらこそ申し訳ございません。お二人が親密な雰囲気のところをお邪魔してしまって」

「し、親密?」

 店員がこっくりとうなづいてニコニコと両手を合わせる。

「はい、まるで恋人同士のようでしたよ。私、この道に入って十年ですからね、そういう雰囲気には敏感なんですよ!」

「こ、恋人……」

 ちょいちょい蓮花さん! なに頬に手を当ててくねくねしてるのさ! その反応分かりやす過ぎるから! 本当にこの娘、チョロ過ぎる。 

「あらあら眼福がんぷく……もとい、可愛らしいこと」

 口元に手を当ててくすくすと上品に笑う。

 今この人眼福って言った! 眼福って!

 しかし都内だとこれくらいのことはよくあることなのか、あるいはプロ意識なのか、店員の反応にはイヤな空気は感じなかった。

「どうです? デート記念にペアリングをしている一枚をお撮りしましょうか? ふふふ♪」

 ノリノリだなぁ、というか、素で楽しんでないか? この店員。



          ◆◇          


 ふっくらと焼き上げられた生地にはハチミツの上品な甘みと相まってフルーツの酸味が口内に広がる。

「おいしぃ……」

 ついつい目尻がゆるんでいると、向かい側で頬杖ほおづえをついた綾音がニヨニヨ、こちらを見つめていた。

 頬を赤くしてうつむく私に綾音が声をかけてくる。

「ふふ、相変わらず美味しそうに食べるなぁ」

「だ、だって本当に美味しいんだもん」

 何だか口調がねた子供みたいになってしまう。悔しい……ので、綾音にもすすめる。

「ほら、綾音も食べてみてよ!」

 パンケーキを一口大に切り分け、ハチミツや生クリームにキウイ、ラズベリー等のフルーツを乗せ乗せ、綾音の口元へ差し出す。

「ちょ……」

 綾音が周囲をキョロキョロと見回し、店員等の視線がないことを確認した。

 一つ息を吐くと、人差し指で髪をかき分ける。普段は髪に隠れていて見えない柔らかそうな耳があらわになり、普段と違う表情にどきりとする。

 パンケーキをもくもくと食べる綾音を見つめながら、どきどきの原因を考える。

 私の視線に気付いた綾音がふいっと顔を背けてしまう。

 残念、もっとうまくチラ見をすれば良かったと後悔しつつ、きっと無理だろうなぁと思う。


 

 好きな人との時間は出来るだけ一緒に居たい。子供が自分だけの宝物を愛でるように、耳を澄ませて声を聞いたり、そっとその輪郭りんかくを手で触れて確かめたり、ためつすがめつしていつまでもじっと見つめていたい。

そうして新たな一面を少しでも発見したいと思うのだ。


 綾音はどうなのかな?

 私と同じくらい……というのはさすがに恥ずかしいし、おこがましいと思うけど、少しでも私の気持ちに近付いてくれたら、うれしいな。


「はい」

 ふいに綾音がスプーンを私の口元へ向ける。

「え?」

 そこには綾音が注文したオムレツとチキンが乗っていた。

「食べたいんでしょ? それにこっちも一口貰ったからさ」

 照れ臭さを隠すために、やや不機嫌そうな態度を取る綾音が可愛らしかった。

 こちらの意図とはかけ離れていたけれど、律儀りちぎな好意を素直に受け取ることにする。

 これからも少しずつお互いの気持ちを伝えていこうと改めて思った。



          ◆◇          


 チケット販売の窓口に並ぼうとすると後ろからそでをくいっとされた。

 蓮花から白い紙切れを渡される。

 水族館のチケットだった。

 おどろいて彼女を見る。

 視線を受けてほおをうっすらと染めながらつぶやくような声で一言。

「……さ、ささ、サプラ~イズ……」

 セリフが明らかに言葉に負けていた。

「……わ、わぁ~~」

 ぺちぺちぺち……。

「……」

「……」

 むしろサプライズを決めたのにこの微妙過ぎる空気感のほうが驚きだった。

「…えっと、このチケットどうしたの?」

「…あ、う、うん。お、お兄ちゃんがその、余ったからあげるって…」

「水族館のチケットなんて余るかな? ま、いっか。今度バイトで一緒になったらお礼を言っておくね」

「えっ?! いや、それはちょっと……」

 蓮花が微妙な表情をする。

「え? ゆずって貰ったんだからお礼くらい言っておかないと……」

「あ、そ、そうだね……でも、うーん…」

 なんとも歯切れの悪い態度だった。


 んー、あれかな? 私と付き合っている事をバレたくないとか、彼氏と出掛けるとか言ってるとか?

 まあ蓮花の事情とかもあるのだろう。

「……わかった、あえてお礼は言わないでおくね」

 うなづいて胸をで下ろす蓮花。

 その手をつかみ、入口へと向かう。

 しかし水族館とか久しぶりだなぁ。何年ぶりだろう。あの時は確か妹の手を引いて歩いた気がする。

 それが今は好きな女の子と手をつないで歩いている。しかもその子は小学生の頃からの幼なじみなのだ……あの頃、妹の手を引いていた私には想像もつかない未来だった。



          ◆◇          


 目の前を親子連れや外国人のカップルが通過する。

 薄暗い館内からは控えめな波の音が聴こえる。

 目を閉じるとバイトの帰り際、つむぎから言われた言葉を思い出される。

「良い報告、楽しみに待ってるよ♪」

 紬も汐莉しおりさんも私の事を応援してくれている。

 その気持ちに応えたい。

 ただ何をする事が良い報告となるのか、その答えは見付けられていなかった。


 綾音とは今までに恋人繋つなぎをしたり、ハグもしたり、おでこにチューとかも……している。

 もちろんチューの話はしてないけど……。


 今までより関係を進展させたい、けどどうすればそれを達成することができるのか――気持ちだけが先行してしまい、胸の辺りがモヤモヤする。

 そう言えば、以前に読んだマンガにこんな一文があった。

 ひと夏の経験――……。

 うん。きっとそれだ。

 ただ、困った事にどの作品を見ても具体的なシーンや表現等はぼかされていて、明確な正解は示されていなかった。

 これじゃあいくら考えた所でラチが明かない。


 そもそも、私自身は彼女と具体的に何をしたいのかな?

 そ、それは、まあ……お、おでこ以外の所にも、き、キスとか……したい……。

 想像しそうになり、慌てて手を振って妄想をかき消す。

 いや、まあ、今まで何度もそんなことを考えなかったわけでも無いけれど……。

「ごめん、トイレ混んでて……て、蓮花? 頬が赤いけど、どしたん?」

「う、ううん、へーきへーき。さ、行こっか!」


 答えは出ないけど、今はただ目の前にいる彼女との時間を大切にしよう。



          ◆◇          


 階段を登り、少し進むと照明が落ち、楕円形だえんけい水盤すいばん『ビッグシャーレ』と呼ばれる水槽すいそうでクラゲが回遊していた。

 一定時間ごとに水盤は様々な色の灯りで照らされ、クラゲの舞う姿と相まってより一層幻想的に染め上げている。

 小さなステップを登ると水槽を真上から眺める事が出来た。

「綺麗……」

 一言そうつぶやいて、蓮花が黙り込む。

 うん、確かに綺麗…なんだけど……何かなまめかしくてちょっと気持ち悪い……というのが私の正直な印象だった。

 海で泳いでいてこんなのに囲まれたらゾッとする。

「綾音? 何か顔色悪くない?」

 蓮花が不思議そうな瞳で見詰めてくる。

「そんなこと……」

 横を向くと予想外の距離の近さにおどろいて慌てて前を向く。

「綾音?」

「い、いや…ちょ、ちょっと距離、近いな……って」

 照れ笑いを返す。

「あ、ごめん。嫌…だった?」

「ううん、嫌…ではないけどその……は、恥ずかしい…かなって……」

 だってさ、ほんのちょっと寄っただけで頬に唇が触れちゃいそうな距離、だったし……。

目を閉じると、蓮花の方から花の薫りがただよい、鼻腔びこうをくすぐる。

 それだけでまた胸が熱くなってくる。

 きゅっと、手を恋人繋こいびとつなぎされ、ぴくりと跳ねた耳元でささやかれる。

「ふふ……私も、一緒だよ」

 一瞬、息が止まる。

 そろりと目を開き、胸をおさえながら横を向くと蓮花が微笑んでいた。


 ビッグシャーレの照明に浮かぶその笑みはあやしくも美しく、私の脳裏に深く刻まれるのだった……。



 目の前の水槽すいそうには細長いひものような形をした魚が集団で頭をうねうねさせていた。

 魚達は一様に同じ方向へ首をもたげ、思い出したように時折小さな口をぱくぱくさせている。

「白地に黒い斑点模様はんてんもようのがチンアナゴでオレンジに白のラインが入ってるのがニシキアナゴだってさ。可愛いねぇ♪」

「え? かわ……」いい、のか?

 ヘビやウナギ、ドジョウの類が苦手な私には、砂からたくさんの頭を出してゆらゆら水流になびく姿は若干、気持ち悪くすらある。

「あ、ねぇねぇ、アナゴさん達と一緒に写真撮ろうよ!」

 その表現は某国民的アニメのおじさんを彷彿ほうふつさせるので止めて貰いたい。

 しかしあのおじさん、実はまだ二十代後半というから驚きである。声優の声がダンディー過ぎないか?

 そんな些末さまつな事を考えているうちに撮影は終わっていた。



 メイン水槽すいそうへの道は二手に分かれている。一つは階段を下りるルート、もう一つはスロープのルートだ。

「ねぇ、見てみて!」

 手すりを掴んだ蓮花が手招きをする。

隣に立つと、そこからは丁度下の階にある水槽が見下ろせるようになっていた。

 トコトコと肩をひょこひょこさせながら歩いたり、水に飛び込んで縦横無尽じゅうおうむじんに泳ぐ姿、はたまた仲良く寄りって香箱座こうばこずわりをするもの。

 水族館のメインエリア、ペンギン大水槽だ。

「可愛いねぇ♪」

「うん、久しぶりに見たけどやっぱり可愛い」

「あのトコトコ歩きとか超好き!」

「わかる! ペンギンって言ったらあの歩き方が一番に思い浮かぶもの」

 スロープをゆっくり下りながら、ペンギンを眺める。

 正面まで来るとペンギンの名前と性格などの一言解説や恋愛相関図なるものが描かれていた。フラれたとかまで書かれてるのは少しかわいそうだな。

「あ、あの子とこの子が結婚してるんだぁ」

 蓮花がペンギンと相関図を熱心に見比べている。

 あー、こういうの蓮花地味に好きそう。

 私は少し離れて様子を見守る。

 水族館のメインというだけあってここが一番人が集まっていた。

 近くではクラゲの子供の水槽があったがスルーすることにする。



 目を閉じて耳を澄ますと涼しげな音色が聴こえる。

「涼やかな音だね♪」

 うなづきつつ、涼やか……そんな言葉あるの?と思い、すぐにどうでもいっかと思い直す。

「ほら、一緒に行こう」

 目を開くと数歩先に立った彼女がこちらへ手を差し伸べていた。

 格子こうしに組まれた屋根からは透明の風鈴かられる彩とりどりの短冊がそよと揺れ、りんとした調べを奏でている。

 壁には江戸の画家、葛飾北斎かつしかほくさいがデザインしたとされる紋様と青に染まった限りある世界の中で思い思いの舞を披露ひろうする多様な金魚たち。

 暖色だんしょくの光にたたずむ彼女の姿に一瞬、ひと夏の夢――うちわを片手に立つ浴衣姿の蓮花を幻視げんしする……。

「綾音?」

 我に帰ると蓮花が心配そうに見上げてくる。

「ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

 笑いかけると蓮花はほおふくらませてる。

「その、私と居るときは、ちゃんと私を視ていて欲しい」

 ややご機嫌ナナメな彼女と並んで歩きながら、優しく伝える。

「大丈夫、ちゃんと視てるよ、蓮花のこと」


 蓮花が立ち止まり、本当?――問うような視線を向けてくる。



 その瞳には、何かがきらめいていた……。



 そこにはきっと、彼女の想いが宿っている。

 緊張、不安、焦燥しょうそう、期待と信頼――それ以外にも、私にはうかがい知れない気持ちがあって、更には本人ですら意識のほかにあるものが含まれているのだろう……。



 私はよく彼女のことを子供扱いしているけれど、いつも与えてくれるのは、彼女からだった。



 好きなものにまっすぐな彼女……。



 私も、彼女のようにありたいと思う。

 なら、いつまでもこのままじゃダメだ。

 彼女が私の為に、近付いてくれているのに、私が歩み寄らなくては、その行為がウソになってしまう。

 勇気を持て。少しでも近付くのだ。

 一歩が無理なら、半歩でも……。


 彼女の手をつかみ、通りの脇にあるエリアへ引っ張り込む。

 そこはちょうどペンギンエリアの後ろにある水槽すいそうで、オットセイがのんびりと欠伸あくびをしていた。

 素早く周囲を見回して人が居ないことを確認してから彼女の額に手をえ、そっと上にスライドさせる……。

「あ、綾音?」

 戸惑とまどいつつも彼女が咄嗟とっさに目を閉じる。

 さらりと、垂れた前髪が指の上を柔らかく滑り、ひっそりとした温もりがひんやりとした私の指先を包み込み、小さく息を吐く。








 彼女のまっすぐな心に応えるために、私は……。








 ――指先の熱と同化しつつある滑らかな額へと……そっと――口付けを……した――。








 うつむいて黙り込む彼女の耳元でささやくように言葉をつむぐ……。



「これで、信じてくれる?」



 少しの間をおいて、ふるふると首を振られる。

 えぇっ?! 

 まさかの否定。

 そんな……今までに生きてきてこれまでにないくらいの、渾身こんしんの勇気を振り絞ったのに……。

 よろけそうになる私の顔を見詰めて彼女が頬を染めながらも必死に告げる。

「あ、あのね! も、もちろん、綾音からしてくれた事はすごく、すっごーく! う、うれしかったけどっ!! そ、その。い、いきなり過ぎて心の準備とか、出来てなかったし。だ、だから……そ、そのぅ、て、ていくつーを、所望しょもういたします」

 ていくつー? テイクツー?!

 ま、マジで? も、もう一回やるの?

 ていうか、相当ゆっくりとしたつもりだったけど……。

 まあそれは私の体感時間であって、彼女からしたら訳の分からないうちに終わっていたのかもしれない。

 通りの方から話し声が聞こえてくる。

「ほらね、ここにオットセイの水槽が……」

 他の男性客と視線が合う。

 通りから視覚になる柱の後ろ、触れ合いそうな距離に立つ私達に何かを察したのか、サッと身を引かれてしまう。

「……えっと、と、とりあえず行こっか?」

「う、うん」

 逃げるように後にした。



          ◆◇          


 水族館のお土産コーナーでチンアナゴのぬいぐるみを吟味ぎんみする。

 初めこそみんな一様いちように見えたのだが、よく確認してみると、微妙に目の位置が低かったり、模様の向きが平行でなかったり。

 その為に受ける印象が変わってくる。

 こっちよりもこの子のほうが可愛いかな……あーでも、こっちの子は目付きが少し意地悪っぽい感じがして、綾音を彷彿ほうふつさせそうな気が……。

「れ、蓮花」

 振り返ると綾音が頬を染めながら手を後ろに隠してもじもじしている。

 そんな些細ささいな仕草なのに、私の胸は思わずきゅんとしてしまう。

 うくっ、か、可愛い。

 普段、どこか大人びた雰囲気をかもし出してるけど綾音がこんな可愛いらしい反応をするのは初めてで、この表情を間近で見詰みつめられるのは多分私だけで、もう、何と言うか、そう、あれです、あれ。

「と、尊……」

「トート?」

 慌てて咳払いをして言葉を飲み込む。

 危ない危ない。

 綾音が尊過ぎて危うくハグしてお持ち帰りぃ♪しそうになっていた。

「え、えぇっと……な、何かな?」

 胸に手を当てて荒くなりそうになる呼吸を整えつつたずねる。

 綾音が後ろに隠していた手を差し出してそろりと開く。

 そこには二つのキーホルダーがあった。

 ペンギンの形をしたそれはそれぞれにイニシャルのポーズを取っていた。

 RとAのイニシャル。

「あ、あのさ、お互いのイニシャルのキーホルダーを買わない? おそろいとは違うけど、何かいいなぁって……。だ、ダメかな?」

 何その可愛い提案は!! 

「綾音!」

「は、はい!」

「いいよ。どうせなら、お互いの分を買ってプレゼント交換しちゃおうよっ!」

「あ、うん」

 どこにでも有りそうな数百円のプレゼント。

 彼女と同じイニシャルを交換しただけ。

 そんな小さな出来事なのに、すごくうれしい。

 綾音が一緒に居ない時も、私の事を思って考えてくれている、そう想像するだけで、胸が暖かなもので満たされていくのだった……。

          

            

 気がつくと四時を過ぎていて、私は以前から気になっていたお店に綾音を誘った。

 注文したケーキが届くと、ワクワクしながらフォークで一口大に切り取り口に運ぶ。

 濃厚かつクリーミーなチーズが口内に広がり、つい目尻や口元がゆるんでしまうのが分かる。やっぱり美味しい物を食べると気持ちが幸せになる。

 世界中の人が美味しい物を食べられる世界になったら世界から戦争とか無くなるんじゃないかしら?

 何て言ったら、きっと綾音にあきれられるんだろうな。

「……おいしい……」

 目を丸くしてもくもくと食べる綾音。

「ねー! このお店、つむぎちゃんに教えて貰ったんだぁ。後でお土産に買って帰ろ」

「紬ちゃん? ああ、バイトの友達だっけ?」

「うん、汐莉しおりさんとよく遊びに出掛けているんだって」

「ふーん、汐莉さんて女の人?」

「うん、大学生だけど、いつもどこか抜けてて、全然年上っぽくないんだ。紬ちゃんがしっかり者だから、いいコンビなんだよ」

「へぇ、仲良しなんだ」

「うん、お弁当とかいつも二人で同じのを作って来てるんだよ」

「……え?」

「ん? どうかした?」

「いや……買ったお弁当じゃなくて、作ったお弁当が同じなの? 二人とも?」

「うん、きっと毎日一緒に話し合ってメニューとこ決めてるんじゃないかなぁ?」

「……」

「綾音?」

「あ、うん、いや……その、今度二人の事を紹介して貰ってもいいかな? というか、今度蓮花のバイト先に行くね」

「? う、うん」

 どうしたのかな? 何か気になる事でもあるのかな?

「ちなみに、紬さんと汐莉さんは大体毎日いるのかな?」

「うん、シフトもいつも二人一緒だね。あ、紬ちゃんも汐莉さんもどっちも可愛いからって変な気を起こさないでよね」

「なっ、何バカな事言ってるのよ」

「だって、まだテイクツーして貰ってないし……」

「そ、それは……」

 頬を薄紅色に染め始める綾音に微笑みながら

チーズケーキに舌鼓したつづみを打つのだった。



          ◆◇          


 電車に揺られながら流れる風景を眺めている。自然、ふぁっと欠伸あくびが漏れる。

 隣の彼女も口元を押さえているものの、欠伸をしているのは何となく空気で伝わる。

 視線に気付いた彼女が照れた笑みをする。

 そんな些細ささいなやりとりに胸が温かくなる。

 窓の外、茜色に暮れなずむ空は美しく、故にどこか物悲しい気分になる。

 もう少し、蓮花と一緒にいたいな……。

 今日一日、それこそ寝起きから今まで、ずっと一緒だったのに、まだ物足りないと感じている自分に驚き、呆れ、内心苦笑する。

 あなたはいつからそんな欲しがりになったの?

 あるいはこれもマジックアワーの成せる魔法なのだろうか。

 ……蓮花は、どうかな? 

 私と一緒だと、うれしい。

 一緒……蓮花は時折、私と想いが一緒だった時、喜んでたっけ。

 そっか、こういう気持ちなのか。

 好きな人と一緒に居て、想いも一緒というのは、何だか考えが筒抜けみたいで恥ずかしいけれど――でも……うん。確かにそれ以上に喜びの方が勝るかも。

 こんな事、言うのは恥ずかしいけれど、それでも――伝えたいと思った。

 今のこの気持ちを、彼女へまっすぐに。



 いつも彼女が私への想いをつづってくれているように。



「れ、蓮花……あ、あのね! そ、その、私……」

 気持ちばかりが急いてしまい、伝えたい言葉は舌の上を空回りするばかりだった。

 何でこんな簡単な一言がうまく言えないのか。以前の私ならすらすらと伝えられた筈なのに……。

 一言を伝える事がこんなに恥ずかしいなんて……。 

 いつも蓮花はこんな気持ちを抱えながら、私へ伝えてくれていたのかな?

 すごいな、蓮花……。

 うつむいて下唇をみ、手のひらをにぎり込む。






        ふわり――。






 そっと頭をでられて、耳元にささやくような声……。






「無理しないで、綾音。ゆっくりでいいから、あなたの想いを聴かせて」

 小さくうなづく。

 目を閉じて深呼吸をする。

 頭がクリアになる感覚。

 今度は思いのほか、さらりと伝える事が出来た。



          ◆◇


「帰る前に寄り道してもいい?」

 いつもなら地元辺りでしかしないのに……。

 今までと違う流れに楽しみと不安に気持ちが揺れる。

 茜色に染まる彼女の横顔はどことなく緊張した面持ちをしていて、黙々と改札を目指した。

 駅前通りを歩いて数分、古い石で出来た橋が見えると手前を右に曲がる。

 しばらく進むと石段があり、川のすぐ近くまで降りられるようになっていた。

 石段を降りてそのまま橋の下に向かうと、そこには真新しい小さなベンチがあり、綾音と二人座った。


 風がそよと吹き、さわさわと草木のささやくような音が聴こえる。

 水場が近いためか、空気はひんやりと気持ち良かった。

 先程まで聞こえていた蝉時雨せみしぐれもどこか遠いもののように感じる。

 滔々とうとうと流れる水面には黄昏時たそがれどきの空が映り込んでいて、反射した光が宝石のようだった。

 こんなにも綺麗ないろを今までに視たことがあっただろうか。

 感嘆かんたんの息を吐くのもはばかられ、自然が描き出した一枚の風景画に魅了みりょうされる。

 あるいはこれも蒼海綾音あおみあやねと付き合った事による変化なのかも知れない……。

 好きな人と一緒に居られる――それだけで、何気ない風景がより一層美しく感じる……なんて、我ながら恥ずかし過ぎる妄想もうそうもだえそうになる。

「……蓮花」

「ふぇ?! は、はいっ?」

 絶妙ぜつみょうなタイミングで話を振られてあせる。

「あ、ごめん。おどろかせちゃった?」

「あ、だ、だいじょぶだいじょぶ! な、何かな?」

「その、私がいい、と言うまでちょっと目を閉じていて貰えないかな?」

「う、うん」

 疑問に思いつつも、大人しく彼女に従う。

 立ち上がる気配、次いで左の手のひらをそっとつかまれる。

 指先をそっと包まれるような感覚、次いで

薬指の表面を綾音のすべすべした指がさすりながら……第二関節あたりで止まると、指の腹の辺りをくっと押されて付け根に到達する。

「……いいよ」

 目を開くと、そこには――――細く蒼のラインが入った銀の指輪があった。

「これ……」

「その、昼間に一緒に観たお店のはさすがに無理だったけど。この指輪を蓮花に似合いそうだなって……間に合わせみたいな感じになって申し訳ないんだけど……」

「ううん、そんな事ない! うれしいよ♪ ありがとう、綾音」



 夕陽に照らしてみると、茜の光が輪郭りんかく上をきらめき、宝石があしらわれているようだった。

 その輝きがまぶしくて、うれしくて、あったかくて、同時に胸がきゅっとすぼまる位にときめいて、ときめいて、もう、何て言えばいいのか……私の語彙力ごいりょくではとても言い表わせそうない。



 ただ、彼女が今までで一番の想いを込めて私にプレゼントを送ってくれたという事だけは理解していた。

 そのまばゆい光を見詰めていると刺すような痛みを覚えた気がして、視界がぼんやりとにじんでくる。



「蓮花? な、泣いてる……の?」

「え?」

 綾音の言葉に驚いて目元をこする。

 指先がかすかに湿しめる。

 意識するとほろほろと止めどなくあふれてくる。

「だ、大丈夫? 私、何かしちゃった?」

 綾音がおろおろとし始める。

 おろおろ綾音とか、新鮮な光景かも。

 なんて呑気のんきな事を思いながら、こらえきれず、くすくすと泣きながら笑い出してしまった。

「え? え? 何? どういう事? 何で笑ってるのよ」

 今度は混乱し始める綾音。

 何ともせわしない彼女だった。



 何かしたかで言えば、そりゃあもう、何かされちゃってますよ。

あなたの優しい声音や瞳の色、暖かい指先、他にもたくさんのものを今も、今までも、そしてこれからも――――きっと。



「綾音♪」

「え? あ、はい」

 妙にかしこまる彼女が可笑おかしくてまた笑いそうになってほおをぐにぐにさせる。

「何してるの?」

「…ほ、頬のマッサージ」

「ふっ」

 くすくすと笑われてしまう。

 むぅ、テイクツーを要求したい……。

「れ、蓮花」

「ん?」

「……そ、その……て、テイクツー。してもいい、かな?」

 音の無い風が吹き、彼女の髪がさらりと流れる。

 その髪の輪郭が茜の粒子りゅうしまとい、きらりと光る。

 夕陽を背に受けた彼女の瞳は茜空に負けないくらい綺麗でドキドキする。

「あ、う、うん。ふつつかものですが、どうか末永くお願いします」

 あれ?

 変な事言ったかなと思った時にはすでに遅く。綾音があははっと笑っていた。

 むぅ……。

「ありがとね……」

「え?」

「私が緊張しないようにわざと言ってくれたんだよね?」

「え? あ、いや、ちが……」

「いいからいいから、ほら、目を閉じて…」

「あ、は、はい」




   これから彼女とキス、するんだ。    




 そう思うだけで胸の辺りが、はわああぁってしてくる。

 もう私の語彙死んでますね、はい。

 一体どこにキスされるのかな?

 指輪をプレゼントされた後のキス――とあれば、おでこよりも上のキスを期待しちゃってもいいのかな? いいよね?


 指先をきゅっと掴まれる。

「ふぁ」

 緊張し過ぎて鼻の抜けたような変な声を出してしまう。めちゃくちゃ恥ずかしいぃぃ~。

「ごめん、痛かった?」

 ぶんぶんと首を振る。優しいけど、余計恥ずかしいのでスルーして欲しかった。


 薬指の第二関節あたりがふにっと、柔らかくて湿ったものに包まれる。

 マンガとかでよく騎士ナイトがお姫様にする契約けいやくのキス、だった。

 すごい、うれしい!!……んだけど、その、も、物足りない……。

 こんな綺麗な風景の中、大好きな彼女と一緒に居て、最高のプレゼントまで貰って、お姫様みたいなキスをされて、これまでにないくらいに幸せなのに……。



 もっと、もっと欲しい。     

 より親密な関係の二人がする口付けを私は求めている。

 もっとあなたを知りたい、知って触れて、キスをしたい。

 もっと深い仲の二人がする口付けを、私は望んでいた。



「あ、綾音!」

 思わず目を開く。

 しかしそこに綾音の姿は無かった。






          え?          






「……もう、蓮花はせっかちさんだなぁ」

 右隣からささやかれる――湿り気を帯びた柔らかな声音。

 足元の辺りできしむ音。

 腕を回され、きゅっとハグされる。

 柑橘かんきつの甘酸っぱい薫りが鼻腔びこうをくすぐる。

 夏の熱気と、彼女の熱と薫りに浮かされて、頭がくらくらとしてくる。






 それでもこの想いだけは、一生忘れる事はないだろう。






 頬に触れたほのかな熱と、優しい感触、彼女が私へ応えてくれた確かな想いを――――。





          ◆◇          


「お、ようやく帰って来たな、この不良娘!」

 自宅に帰りリビングに入ったところ、ソファーにごろんとしていた母親から不良扱いされる。いやいや、まだ八時前だから。

 構わずに冷蔵庫から出した麦茶をお盆に乗せたグラスに二つ注ぎ、リビングで待つ蓮花に持っていく。

「ありがとう綾音」

「どういたしまして」 

 ところで何で蓮花がまだ私の家に居るのかというと、私の部屋に何やら忘れ物をしたらしい。

 私が取ってくるよと伝えても、蓮花は自分じゃないと分からないからと、かたくなにこばむのだった。


 部屋に入るとすぐにエアコンを付ける。

「ごめんね、散らかってて」

「ううん、大丈夫。というか、朝見てるしね」

 そうだった……今日は朝から蓮花の寝起きドッキリを仕掛けられたのだった。(犯人はヤツ)

 ん? ていうか、この状況って彼氏が彼女を部屋に連れてくる状況と同じなのでは?

 やっば、余計な事をまた考えてしまった。

 あぁ、また頬が熱く……くそぅ、夏め!  

 夏のせいで頬が熱くなってくる。

 他意はない、他意はないんだからね!

「…ねぇ綾音」

「な、何?」

「……あ、うん。えっと、このマンガの続きってどこかな?」

 いや、忘れ物を取りに来たのじゃないのん?蓮花さん!

 私の物言いたげな視線に気付いた蓮花が咳払いをする。

 そうそう、そろそろ忘れ物を回収して帰ろうね家族も心配するだろうし。

 私もちょっと今日は遊び疲れていて眠くなり始めているからね。送っていくのが億劫おっくうになっちゃうから。

「あ、ここにあったのか、ありがとう♪」

「て、そっちの意味じゃないわーい!」

「え?」

 咳払いをする。

「あのさ蓮花、忘れ物は?」

「へ? 忘れ物? ……あ、ああ~。うん、はい、忘れ物です」

 そう言って挙手をする蓮花。

 は? 何それ? プレゼントは私的な感じ?

「えっと、つまり……どゆこと?」

「今日は私、お家に帰らないから。綾音の家にお泊まりなので」

「お泊まり? ここに?」

「うん♪ 楽しみだねぇ、綾音」

「え? いや、ちょ…ま、待って待って! 聞いてないんだけどっ?! そもそも着替えは?」

「荷物なら綾音のお母さんに朝預けたよ」

 またしても母親かいっ!!

 ぐぬぬっと眉間みけんにシワを寄せる私に、蓮花が笑いかける。






「今度こそサプライズ、成功かな? 綾音」






 軽やかな響きで私の名を呼んだ彼女は、そっと私の手を握った。











―――――――――続く―――――――――

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