〈3〉

 母親のような深い優しさに包まれているような気がして、家族のことを思い出した。

 父、母、そして妹。

 三人は、自分のいない家でも、いつも通りに過ごしているのだろうか。


 決まった週に必ず、三人からの手紙が来るが、翠は両親にしか返事を書かなかった。


 たった一度、最後の別れのつもりで、一冊の愛読書と、それに沿った一行の文章を当てて出したことを除いては。


 妹は、いつになったら自分のことを忘れてくれるのだろう。


   ○


 十時半頃に起きて、カーテンの中で制服に着替え、休み時間に一度教室に戻った。


 クラス全員分の視線が一瞬そこに止まり、すぐにもとの友達のところに戻って、何でもないように話し出す。


 この光景もだいぶ慣れた。ロッカーに体操着を戻して、次の授業の教科書を出し、机に着いてノートを開くと、デイケア組時代に夏央たちから熱心に聞き取った、メモの殴り書きが残っていた。


 そっか、このノートにも書いてあったっけ。

 あちこちの授業ノートにいろいろなことを書いてきたせいで、どのページを切り取ってファイリングしていたのか、すっかり忘れてしまっている。


 ペンケースからカッターを取り出し、メモの欄を切り取る。多少ガタついてしまったが、割ときれいに切り取れると、鞄に毎日入れているファイルに、新しい一枚を入れた。


 大人になればきっと変わるよ。


 いつか誰かが言っていた。

 誰の台詞だったのか、もう記憶が定かではない。


 子どもと言わると腹が立つが、大人と言われても、少しむっとする。自分はそんな完璧な存在じゃない。でもポンコツとも言われたくない。

 結局、自分はどっちに転ぶのだろう。大人か、子どもか。またはそのどれでもないのか。


 翠は気だるい気持ちで、次の授業の予鈴が鳴るのを聞いていた。


   ○


 教室に自分の居場所はないので、昼休みになるとさっさと弁当箱を持って、保健室へ向かった。


 舞衣に返すための本も準備して、職員室の対面にある、大きな間取りの部屋の扉を開ける。


 すぐそこに彼女の姿があった。

「保険委員」とネームプレートを胸に下げて、二人の保険医と一緒に仕事をしている。

 もう一人の的場まとばという保健委員の女子生徒は、壁の本棚の整理をしている。


「舞衣」


 声をかけると、飯塚舞衣は、翠の差し出した本を受け取って、


「おもしろかったでしょ?」と得意げに言った。


「実は全部読む時間がなくて、飛ばして読んだ」

「えー、ちゃんと読めよー」


 舞衣は唇を尖らせた。


「だって今の俺ほとんど一人暮らしだもん。部屋の掃除も洗濯も、自分でしなきゃならないし」

「学生寮はコインランドリーとクリーニング部屋が備えられているし、食事も三食ちゃんと作ってくれるでしょーが」

「それでも家にいる時と違うんだよ」


 翠が多少むきになると、舞衣は、

「まあ、学校の課題もあるしね」とあっさり引いた。


 彼女のいいところは、言葉の駆け引きが上手いところだ。

 相手の感情を敏感に感じ取り、その場の空気が悪くならないように、最善の注意を払う。

 翠に限らず誰に対しても態度を変えないので、きっと彼女を信頼する仲間は多いのだろう。


 飯塚舞衣は、一つ年上の二年生で、夏央と同じ保健委員だった。


 週に二日保健室で作業をこなし、夏央と入れ違いにここへ来る。

 毎日のように保健室で昼休みを過ごす翠は、頻繁に出会う夏央や、舞衣などの上級生たちと、だいぶ話せるようになっていた。

 舞衣と同じクラスであり友達の、的場という女子生徒も、優しくて気遣い上手な先輩だ。


 同じ学年のクラスメイトより、余裕のある落ち着いた上級生たちと関わるほうが、楽しかった。


 彼らは一つ学年が違うだけで、見違えるほどに大人な対応をしてくれた。

 年が一つ上になると、これほどまでに成長するのかと、翠は彼らをまぶしく思った。

 自分もいつか、こんな風になれるのだろうかと。


 広いテーブル席で、食堂の料理担当のものが作ってくれた昼ご飯を食べていると、舞衣がすっと横に座った。


「あまり意気地になりなさんな」


 一時限目の体育の騒動のことを言っているのかとすぐに気がついた。


「お前らみたいな人間にはわかんねーよ」


 ふんと鼻を鳴らすと、舞衣は困ったように笑って「まーた、そういうこと言う」と頬杖をついた。


「あんたは普通扱いしてほしいのか、気遣ってほしいのか、どっちなのよ」

「どっちでもねーよ」

「曖昧だなあ」


 舞衣はそう言うと話題に興味を失くしたらしく、再び保険医の机のところに戻った。的場と楽しげな会話をしながら、チェックリストらしきものを作成している。

 翠は無言でご飯を口に入れた。


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