第22話 踏み込む者の覚悟

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 ハルは走った。危機は直ぐそこにある。助けなければならない。


 ――もう嫌だ。あんな思いは二度とごめんだ。

 恐怖に歪んだ少女の顔を思い出す。耳の奥に張り付いている悲痛な声。「ああ……」とそれが彼女の最後の言葉だった。

 命が空へと消える間際、ハルは少女と目を合わせていた。死を望む者の眼差しではなかった。彼女は生きたかったに違いない。死にたくないと思っていたに違いない。


 ハルは一心に走った。

 悔しさを喉の奥へと押し込む。息は苦しく鼓動も限界まで速いが歯を食いしばる。今ある全力をもって迫る危機を退けなければならない。


 目的の場所は五階の一室。くしくもあの時と同じように階段を駆け上がっていた。コンクリート剥き出しの階段は狭く、更に螺旋を思わせる。その急な階段を目が回りそうになりながら上った。走り抜ける際に階ごとに色分けされた扉をいくつも通り過ぎた。まだか、と心に焦りだけを募らせてハルは走った。


 ヒリつく肌、現場に近づくほど纏わり付く怖気が強まった。玄関扉の前に立ったときには全身の肌があわ立っていた。

 身体をくの字に折り息を切らしながら顔を持ち上げる。急ぎ呼び鈴を鳴らすも反応はない。聞き耳を立てたが扉越しにテレビの音声は聞こえてくるものの、話し声や生活音などは聞き取れなかった。


「くそっ!」

 ハルは錆の見える鉄のドアを叩いた。


「宮本さん! 宮本さん!」

 繰り返し大きな声で名前を呼んだ。


「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 悲壮を帯びた男の子の泣き声を聞く。反射的に手を掛けると丸いドアノブが回り扉がフッと引き寄せられる。後はもう夢中だった。中の状態は分からない。そこに誰が何人いるのか、どんな悪意がいるのか。はたして宮本円香は生きているのか。

 

 土足のままで上がり込む。玄関を入って狭い視界を抜けると直ぐにダイニングに入った。部屋をぐるりと見回すが人の姿はない。まるで衛生的でない台所。悪臭こそ無かったが、部屋の中には雑多に積み上げられた雑誌とゴミ袋の山が見えた。



「お姉ちゃん……。お姉ちゃん……」

 泣きじゃくる声を奥の部屋に聞く。直ぐさま首を向け、駆けよって叩き付けるように襖を開け部屋に飛び込んだ。


 ――なっ!

 へたり込むようにして泣いている小学生くらいの男の子が見えた。

 その小さな背中の向こう側、ちょうど男の子の頭の真上に白い素足が見えた。

 部屋の真ん中で宮本円香が不自然に宙に浮かんで揺れていた。


「大丈夫か!」

 ハルは声を張り上げた。良かった、まだ間に合う、とハルは意気をあげる。


「いま助けるからな!」

 円香の視線が横に動いてハルを捉える。彼女は危機に瀕しながら微笑みを浮かべた。まるで死を受け入れているようであった。


「見えているんだからな。今度ははっきり見えているんだからな!」

 ハルの目は、両手で少女の首を絞める白い影を捉えていた。

 急いで駆け寄り白い影に向かって拳を放つ。だが、ハルの身体はその勢いのままにつんのめってしまう。

 ――くそっ! またこれか! 

 負けじとハルは白い影を振り払おうとするが何度挑んでもハルの手はすり抜けるばかりで影を捕まえることが出来ない。ハルはあの夜の犬神との戦いを思い出し焦燥感を募らせた。

 ――どうすればいいんだ。

 バタバタと足掻いているうちに手が少女に触れた。白い影はすり抜けてしまうが少女の身体には触れられることに気づく。ハルは白い影と円香の間に割って入り身体を引き離した。だが、それでも白い影は着いてくる。影の手はハルの身体を通過したまま円香の首を離さなかった。


「くそっ! 離せよ!」

 ハルはむしり取るように円香を床に降ろし腕の中に抱きかかえた。


「いい加減にしろっ! お前は、こんなにも平然と人の命を奪うのか! いったい何人殺せば気が済むんだ! お前、言ったよな、こいつらには殺されても仕方がない罪があるって。でも、罪があれば殺してもいいのか」

 白い影は応じない。影は絞める首から手を離さなかった。


「もう止めろよ、お前は間違っている。殺すことは罪だ。罪の罰が死ならば、この子を殺したお前の罪は、罰はどうなるんだよ!」

 訴えども白い影は頑としてその手を離さない。


「あ、ああ……」

 円香の口から掠れる息とともに音が漏れ出た。


「大丈夫だ! 絶対助けるからな、だから頑張れ」

 円香を励ます。白い影の手は首を掴んで離さなかったが自分の身体を通していることで幾分かその力は弱まっている気がした。円香の顔にも僅かだが血色が戻ってきていた。ハルは微かに希望を見いだした。何としてでもこの化け物を退けなければならない。

 

「いい加減にしろって言ってるんだ! お前が誰かを殺すっていうのならば、僕はそれを必ず阻止してみせるぞ! 離れろ! ここから去れ! 玉置訪花!」


 玉置訪花の名前を叫んだ途端に影の迫力が薄らいだ。ここが勝負所だとハルは思った。頭の中に訪花の姿を思い浮かべ彼女に向けて渾身の気力を放つ。


「玉置さん、もうよせ。意味なんてない。こんなことは、やっても意味の無いことだ」

 もう一度、訪花の名を呼んで訴える。すると影が戸惑うように揺れはじめた。


「玉置さん、もうやめてくれ」

 白い影が沈黙した。ゆらゆらと揺れる影はしばらくその場に佇んだ後、ゆっくり薄らぐように消えて失せた。直後、円香が咳き込んだ。


「よかった。間に合った」

 腕の中で円香の緊張が解ける。安心したのだろう。そこでハルもようやく胸をなで下ろした。泣きじゃくっていた男の子はハルの背にしがみついて嗚咽を漏らしていた。ハルは少年に微笑みかけて引き寄せ宮本円香とともに腕の中に収めた。


「まったく! 無茶しやがって」

「茜ちゃん」

「それにしてもお前、危急の時とはいえ余所ん家に土足で上がり込むとは、もうどうしようもないな」

「あっ」

 しまった、と頭を掻きながらハルは宮本円香に目を向けた。円香は虚ろなままハルに向かって微笑んだ。


「さて、お前、これからどうするんだ」

 茜が部屋の中を見回しながら言った。


「どうするって、どうしようか……」

 これで終いということはないだろう。円香が自宅で襲われたことは、彼女がいつ如何なる場所で襲われてもおかしくないことを示している。だとすればどこか安全な場所を見つけて避難させるほかはないのだが。


「とりあえず、お前の家に連れて行けばいいんじゃね?」

「そ、そんなこと出来るわけないだろ!」

「なんで?」

「なんでって、勝手に連れ出せるわけないじゃないか。今は不在のようだけど、ちゃんと親の許可も取らないといけないし、それに、なんて言って説明すんだよ。娘さんがお化けに狙われているので匿いますっていって誰が信じるんだよ」

「お前、この状況をよく見てみろよ」

「はあ? 状況って?」

 言いながら茜の視線に合わせて部屋の隅々を見渡した。


「円香ちゃん、あんた、親がいないも同然なんだろ?」

「え? 茜ちゃん、何言って――」

「ネグレクトだよ」

「ネグレクト?」

「そんなもん。家の中を見りゃ分かるだろ? それに、その男の子をよく見てみろ」


 ゴミ屋敷というほどではなかったが、確かに壁にも置いてある家具にも荒んだ様子が見て取れた。思えばキッチンにもダイニングにも生活感が無かった。物が散乱するその場所はとても機能しているようには見えなかった。


「な、これは!」

 ハルは男の子を見た。


「虐待だよ」

 茜の端的な言葉が心に響く。ハルは唇を噛み眉を寄せた。

 くたびれたTシャツに半ズボン姿の男の子の姿は見窄らしかった。衣服から出ている腕や足には不自然な青あざがいくつもあった。


「連れ出しても大丈夫だよ。むしろ親から離す方がいい。幸いにしてお前の住まいは寺だ。住職にでも相談すれば何とでもなるだろう。社会的には信用もあるんだ。寺から方々へ連絡してもらえば話も通りやすいだろう」

 

 ハルは円香を見た。円香は少し困った様子を見せたが、それでも直ぐにこくりと頷いた。


「あとはあれだな。呪いを少しでもなんとかしなきゃってことだな」

「茜ちゃん、あれは、あの白い影は何だったの?」

「白い影?」

「僕がここに来たとき、円香ちゃんは、白い影のようなものに首を絞められ宙吊りにされていたんだ」

「ほほう」

「あれが生き霊ってことなの?」

「うーん……。私がここに着いたときにはもう終わっていたからな」

「対処できそう?」

「今は何とも。ともかく見極めてからになるな。でも、とりあえずの処置だけどこれを渡しておこうか」

 茜はブレザーの懐から紙切れを取り出した。


「それは?」

「退魔護符だよ」

「たいま、ごふ?」

「魔除けのお札だ。これをお守り代わりに持つと良い。この護符とお前の家の加護があるなら当面は何とかなるかもしれない」

「うちの寺の加護?」

「寺の敷地内は聖域、邪な者は入り込めないってことだ」

「なるほど」

「それに、あそこにはお前の従僕もいる」

「従僕? ……あ、ああ、仙里様のことか」

「あいつの縄張りってことなら、並の妖なら近づくことすら出来ないだろう。それに、万が一の時にはあいつに頼めばいい」

「仙里様に、頼む、か……」

「なんだよ。使役してるんだろ?」

「い、いやぁ……」


 ハルの苦笑いを見た茜は溜め息をついた。

 呆れられてしまったが、今はどこか胸が張れるような気分だった。何とか間に合った。それがたとえ僅かな成果であろうとも危機を退けることが出来た。

 振り向くとハルと茜の様子を円香と弟が不思議そうに見ていた。


「もう大丈夫だから」

 姉弟に向けて微笑み、今後のことに思いを馳せる。宮本円香のことは、とりあえずだがこれで何とかなるかもしれない。

 次は桐島華蓮だ。最も危惧するのは玉置訪花とあの黒犬であろう。ハルは黒麻呂が言い残した言葉を忘れてはいない。黒麻呂は言った、訪花の宿願を妨げれば殺すと。

 ハルは遂に事件の真相へと踏み込んだ。これで文字通り命がけになった。

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