叫び

 ある日曜の朝、僕がいつも通り朝食を終えて読書をしていると、何やら屋敷がいつもより騒がしいことに気づいた。


 時折騒がしくなることはある。大体は母親が発狂している時だ。


 しかし今は、母親とおぼしき声が聞こえてこない。誰かの声が特段目立って聞こえるわけでもない。だが珍しくバタバタと複数の足音がして、四方八方で女性同士が話しているのが聞こえる。どうも腰元が慌ただしくしているようだった。


「ちょっと、そんなのじゃなくて極上の座布団を出さなきゃダメよ!」

「え、これよりいいのってどこにあるの?」


「九時半に到着なさるそうよ」

「十一時って言ってたのに?」

「なんか気が変わったんですって。迷惑な話よね」

「時間も分からないほどボケちゃったんじゃない?」

「あはは、それもそうかもね」


「酢の物は用意しないの?」

「お嫌いだそうですよ」

「嫌いなのは揚げ物でしょう?」


 聞き取った会話から察するに、急な来客があるのだろう。それも重要人物とみえる。あるいはあまのじゃくな人間か。


 いずれにしても、僕とは関係のないことだった。


 本家にはよく来客があり、その度に父親が対応する。時には兄が同伴することもある。最近はめっきり減ったが、母親の友人が訪ねてくることもある。


 だが僕が客に会うことはない。いつもそうだからだ。


        - † -


 九時半になり、先ほどのざわつきとは打って変わって静寂が訪れていた。無事客をもてなすことができているのだと思う。


 僕はというと、「行ってはいけない」と言われている場所に、自然と足を運んでいた。




 ――今、母親の部屋の前にいる。



 どうしてこんな行動に出たのか自分でもよく分からない。

 だが、腰元のほとんどが近くにいない今なら、誰にも止められることなく到達できるだろうとは思っていた。


 中から小さなうめき声が聞こえる。


 母親がそこにいるのだ。

 そして、状態がよくないようだ。


 僕は息子なのだから、僕自身がこのかわいそうな母親となんとかしなければ。もし自分に非があるなら謝ろう。

 子供の頃だから、そんな思いもあった。



「ははうえ……?」


 ふすまに向かって恐る恐る声を掛ける。

 


 うめき声がやんだ。


 母親は顔を両手で覆って硬直していた。その手には徐々に力が入っていき、すぐに肌がえぐれるのではないかと思うほどに強くなった。

 姿を見たわけではない――僕の右目には、母親の姿がのだ。



 僕はそっと襖に手を掛ける。

 ――片目に映る母親は、絶望と怨念の混じった鬼のような形相になっていく。



 様子を見かけた一人の腰元が、遠くから僕を呼んだ。

 叫び声に近かったと思う。



 でももう遅い。



 手を掛けた襖は、驚くほど滑らかに開かれた。





「来るなああああああああああっ!!」


 世紀末のような金切り声がするや否や、僕の右目は熱をもった。



 後方に倒れていく僕の正常な左目に映ったのは、長い黒髪の隙間からのぞく瞳孔の開ききった表情と、自分の右目に向かって伸びているつただった。



 ただただ右目が熱かった。

 どろりと、温かい涙のようなものが流れた。



 それに、急に耳が遠くなった。


 罵倒、悲鳴、足音といった何もかもを、一人水の中で聞いているような気がした。




 僕の右目は機能しなくなった。

 それはつまり、索田家の特殊技量アビリティをほぼ失ったことと同義である。



        - † -



「…………」


 顔の右半分に刺すような痛みを感じた時には、すでに見知らぬ天井があった。


 必死に辺りを見渡し、状況を理解しようとする。


 父親が目を伏せて腰かけていた。腰元が、見える範囲では二人いる。部屋は全体的に白かった。他に分かることといえば、右腕と液体がチューブでつながれていることと、自分はどうやらそれらを左目で見ているらしいということだった。


「辰二郎様!」

 腰元の一人が気づいて声をかけてきた。その直後にもう一人の腰元が近寄ってきて、その次に父が目を開けた。


「……辰二郎」

 父が静かに僕の名を出すと、腰元が動きを止めてまっすぐになった。


「ちちうえ、ぼくは……」

「なぜあの部屋に入った」


 父の目は温かさをどこかに置き忘れてきたかのようだった。ああ、怒っている。どんなに鈍い子供だろうと、この様子を見れば必ず悟るだろう。


「……もうしわけありませんでした」


 僕はうつむいてこう言うのが精一杯だった。質問の答えにはなっていないが、仕方がない。他に言葉が出てこないのだ。



 幸いにも、父はそれ以上問い詰めてこなかった。その代わり下した判断が、僕の今後を大きく変えることになる。



「お前は今後、離れて暮らせ。……別荘を一軒与えよう」

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