アウフヘーベン


 連続性を失った私の性に、帰納法的経験則でもってなんらかのルールを導き出すことは始めから不可能であった。積み重ねられた過去の記憶は、想起されるたびに私を郷愁のうちに追いやるけれども、それらは心を慰めるのみで一向に進展するためのヒントをくれない。ヒントがなければ答えを見つけ出すことなど無理筋だ。つまり私は手法を変える必要があった。


 積み重ねられた経験則こそ人間をもっとも理性的足らしめるものであることに疑いはない。しかしながら、不完全な男とも女ともとれない人格、途中で引き千切られ、その後無理やり結ばれたような私に、それを当て嵌めることはできなかった。


 科学全盛のこの時代で、帰納法を放棄することは自殺に等しい。しかしながら、私の肉体と精神が過去の経験を通して得た知見と規則とは相反するものであり、その背反性はどうしようもないほどに私という存在を分かとうとする。分裂を恐れた私はどちらかを捨てる決心をする必要があった。

 中学三年生のころ、私が選んだのは男の魂の悉くを喜捨することであった。理性によって打ち捨てたそれを、あろうことか私は航平へと注ぎ込もうとすらしていた。今思えばあまりにも愚かで、航平に対する侮辱的行動である。


 幸か不幸か、結果的にその試みは失敗し、私の裡には未だこびりついたような男の精神が残っている。その粘つきは肉体を汚すものであり、また肉体はその汚れを取り去ろうと必死に血垢を吐き出し続ける。ちょうど月の引力によって引き起こされる潮の満ち引きのように、私の存在は揺れ動かされていた。


 経験則という名前の帰納法的な生き方には欠点がある。例外としたい出来事が発生したとき、そのデータを消去することができないという点だ。一つでも異質なものが含まれてしまえば、そのあとに続くものはそれを薄めることはできても埋めることは絶対にできない。異質は常に寄り添って私を逃がさないのである。


 男の精神と女の肉体、それぞれが別個に導き出した理論を、私はどちらも活かす必要がある。そしてそれらを同時に活かすために、帰納法はあまりにも役立たずだった。


 私という存在、つまりアイデンティティを真に完成させるために必要なのは弁証法であった。美しい花は美しい種を遺す。接ぎ木の瘤は醜いが、しかし、それをして価値ある果実を付けない理由にはならない。私も、一人の人間としてあらねばならなかったのだ。


 であればこそ、まず、かいより始めよう。






「ブレンドコーヒーを1つ、あとミルクと砂糖もお願いします」


 初めて頼む店主のオリジナルブレンド。普段は入れないミルクと砂糖も一緒に頼んだ。

 私のオーダーを聞いた店主は、すこし驚いたのか、いつもよりも大きく目を見開いた。


「珍しいな」

「ええ、気分なんです」


 ブレンドの豆がミルで潰されていく。アルバイトをしているときに何度も嗅いだ匂いだ。

 私も店主も何も喋らず、コーヒーの香りだけが共有される知覚となった。


 ゆっくりと、いつもより時間をかけて出来上がったコーヒー。湯気を立てるそれが私の目の前に置かれた。すぐにその横に、ミルクと砂糖の容器も置かれる。ミルクで満たされた小さなポットを傾けて、真っ黒なコーヒーの中に注ぐ。飛び込んだミルクは、始めこそなんの変化も見せないが、カップの底から戻ってくると表面に白い花を咲かせる。歪な形の花はすぐに崩れ去り、混ざっていない白と黒の斑目の液体ができあがる。それに砂糖を数杯だけ落として、すぐにかき混ぜる。スプーンを回す度に、ミルクの白が飲み込まれていく。焦げ茶色になったコーヒーを、熱いままだが、唇をカップの縁につけて、息を吹き掛けながら恐る恐る飲む。

 舌を火傷することはなかった。

 そのままミルクと砂糖の入ったコーヒーを飲みつづける。頑なにストレートのコーヒーしか飲まなかった私は、これも悪くないと思った。ベタ付く口内はやや不快ではあるものの、味に不満は無い。

 カップをお皿に戻すと、店主が口を開いた。


「長い反抗期だったな」

「ええ、ほんとうに」


 私は再び、ミルクと砂糖入りのコーヒーを止揚した。



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