親子

 

 夜になり、気温は更に低くなった。窓の外から差す光が闇に取って変わられ、この部屋を暖めるものは本当に何一つ無くなった。物の少ない、生活感があまりにも欠けているこの部屋は冷気を必要以上に溜め込むようである。


 コーヒーなどとっくの昔に無くなり、私は畳の上に横になっている。コート越しに感じる畳の冷たさは、接触する面積が大きいほど私の体力を奪っていくが、それでも横にならなければ体が辛かった。


「お風呂はないんですか?」

「……近くに銭湯がある、そこに行きなさい」


 初めて返事をくれたが、必要なことを教えただけという感じで、言葉に温かみはない。おまけに銭湯ときた。こんな気温で外出して銭湯に入って歩いて帰ったら、湯冷めして風邪を引いてしまう。父は行く気なのだろうか?


「行かないんですか?」


 無視された、どうやら行くつもりはないらしい。じゃあ私も行かないことにしよう。着替えは一応持ってきたが、この寒い部屋でコートを脱ぐ気になれないので、このままでいることにする。

 ところで父は今のところ食事を取っていない。私も同じだが、戸棚にはまだインスタント食品が残っていたので、食べようと思えばいつでも食べられる。ひょっとしてお互いに意地を張っているのだろうか。寒さにより熱を奪われた思考から、そんなことを考えた。


「意地っ張りですよね、お父さんは」

「……君ほどではない」


 まさかの反応があった。なるほど、こういう種の言葉なら聞いてくれるのかと、そう思って会話を続ける。


「不器用な一貫性をお持ちで」

「……何が言いたい」


 やや嘲るような口調で言ったせいか、少し睨まれた。目が合って嬉しくなるので逆効果だと煽ろうかと思ったが、本題を続ける。


「自分の痕跡を、そんなに残したくないんですか?」


 何もない部屋。財産を持たず、死んだあとここには何も残らない。生きるために死ぬ準備をするのではなく、死ぬ準備をするために生きている。目的と手段が入れ替わっているのだ。不器用な男にありがちなミスだと思った。


「そんなに一貫性を保ちたいのなら、どうしてあの時最後まで確認しなかったんですか?」

「……なんのことだ?」


 ずっと動いていなかったせいで固まっていた筋肉を動かし、立ち上がってキャリーバックを開いた。その中の青色の大きな封筒を取り出して、父に向かって放り投げる。

 封筒の右下に書かれたロゴマークを見て、父は目を見開いた。


「捨てたはずだ」

「新たに申し込みました」


 私的DNA親子鑑定。

 あの封筒の中には遺伝子検査を行うためのキットが入っている。検査費用は五万円、私的というのは裁判など法的な手続きでは効果を発揮しない書類という意味だ。法的に使用できるものを用意しようかとも思ったが、今更なのでこちらにした。


「こんなものを申し込むために生活費を送っているわけではない」

「私のバイト代です」

「…………」

「どうして、あの時は捨てたんですか?」


 私が小学五年生で、ちょうど父との関係が冷え始めたときのことだ。新聞紙を捨てようと思って古紙をまとめていると、その中に見覚えのない書類を発見した。最初は父の仕事の書類かと思ったが、封筒に刻まれた会社名にDNAという単語が入っているのを見てすぐに気がついた。


 その封筒の中身を確認したところ、遺伝子検査のための綿棒が開封されたまま中に残っており、一度はそれ使おうとしたのが伺えた。けれども、これを捨てているということは、結局父はしなかったのだろう。私が寝ている隙に、この綿棒を私の唇に差し込んで、頬の裏を一撫でするだけでよかったのに、父はそれをしなかった。


 父を臆病だとは思わない。いざ、やろうと思ってやっぱり止めてしまうことなんて、生きていればいくらでもあることだ。けれども、中途半端な不信感をそのままにして、無謀な一貫性を保とうとするこの男の生き方を、私は容認し難かった。

 だから、そのために私はここに来たのだ。中途半端に終わった義務を、やり遂げさせてやるために。


「私が寝る前に、検査しましょう。そのあとは郵送するだけですから」

「…………」


 黙りこくった父は、ゆっくりと封筒を開けた。中から絆創膏の袋みたいな形の、綿棒が入った検査キットを取り出して、慣れた手つきでそれを開ける。綿棒を挟む指が震えているのは、きっと寒さのせいだろう。




 検査手順が全て終わり、封筒のなかに書き終わった書類一式を詰めたとき、父はようやく重い口を開いてくれた。


 父と母の出会いは大学時代で、同じサークルに所属していたらしい。母は大学では少し有名になるくらいには見目が良く、サークルの男はほとんどが彼女を好いていたらしい。父は、自分などが母のような女を恋人にできたのは、単に状況とタイミングが良かっただけだと言った。過去の自分を罵るような自虐的な口調で、母の容姿を褒め称える父はやはり不器用な人間である。


 父と付き合ったあとも、母は気の多い性格のままで父以外の男と二人で遊びに行くこともよくあったらしい。けれども、それは浮気というわけではなく、本当にただ遊んでいるだけだったので、不信感を抱きながらも父は、結婚すれば落ち着いてくれるだろうと思い、母と籍を入れたのだという。母は結婚してすぐに子を授かり、私が生まれた。

 そして、話は私が小学二年生の頃に繋がる。ホテルから見知らぬ男といっしょに出てきた母を見て、すぐに離婚を決意したらしい。私が父を選んだことについては、素直に嬉しかったと言われた。


 私と父の二人暮らしが続き、幼かった私はすくすくと成長した。大きくなるごとに、母親に似ていきながら。顔立ちが母親に似るということは、父親から遠ざかるということでもある。


「君が美樹に似ていくほどに、自分の遺したものがこの世から無くなっていくように思えた」

「私が、あなたの血が繋がった子ではないと?」

「その可能性を考えるだけでも恐ろしかった」

「あの時、親子鑑定を止めたのは、私への哀れみからですか?」

「違う。可能性を事実に変えたくなかったからだ」


 時が経つほどに、不信が紛い物の確信に取って変わられる。すなわち、この世に自分が遺せたものなど、一つもないのだと、そう思ってしまう。一度でもその妄執に囚われれば、あらゆることに活力を向けられなくなる。己の無力さを痛感し無気力になり、その果てがこの寒々しいボロアパートだ。何も遺せないのなら、はじめから持たなければいい。愚直なまでの一貫性。



 全ての話を終え、私と父は同じ布団で寝た。この寒い部屋には一人分の布団しかなかったため、仕方なくである。歪な親子のふれあいを、それでも父は喜んでくれた。


「というか、なんでストーブすらないんですか」

「必要無いからだ」

「どう考えても寒過ぎます」


 こんな風に軽口を言い合ったのも何年ぶりだろうか。肉体こそ寒さに震えているが、心の奥にあった氷はすでに溶けて無くなっていた。



 翌朝、起床してすぐに新幹線で帰ることになった。父も休日であったため、途中まで送ってくれた。もちろん、途中で見かけたポストに親子鑑定の封筒を投函して。その後最寄り駅について、新幹線まで乗り継ぐルートを教えてもらった。


「そういえば言い忘れていたが」

「何ですか?」


 まだ何か話すべきことが残っていたのかと思いながら父を見る。


「本部に栄転するになった、年明けにはそちらに戻る」


 この上なく良いニュースだった。こんな大事なことを別れ際に言うなんてどういう了見だ。ここが人通りの多い駅前でなければ、きっと私は泣いていただろう。


「おめでとうございます」

「ああ、こちらこそ、家を守ってくれてありがとう」

「帰ってきたら、何を食べたいですか?」


 そう聞くと、父はこう即答した。


「鍋がいい、具材はなんでも構わない」

「やっぱり寒かったんじゃないですか」


 この男はやはり、意地っ張りなのだと改めて思った。


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