冬の月

 

 ここ半年ほど私の月経が遅れつづけている。遅れながらもきちんと来るものは来るので、妊娠しているわけではない。それに関する不安はないが、いずれ来る痛みに怯えながら、中々到来しないそれに一度は安堵したかと思えば、唐突にそれは訪れて私に女を思い出させる。課題の提出日を何度も繰越すかのような心理的な痛みを抱えながら、もしかすると、これは私が先延ばしにしてしまったことへの罪悪感から来るものなのではないかと、本能的に感じた。


 罪悪感とはすなわち、私の父である桜田晴彦についてのことである。中学の頃に少しだけ会ってから、久しくその声すらも聞いていない。スマホなどという便利な道具を持ちながら、ダメ元で連絡を入れる努力すらを怠る自分への罰のように感じられる月経の遅れ。トイレで下着を下ろし、皮膚に張り付くそれを剥がすたびに父親を思い出し、また、今回も出来なかったと後悔する。月を経ると書いて読むことのなんと皮肉なことか。


 そんなことを何度も何度も繰り返して季節は冬。いい加減、決着をつけるべきなのだと思い立ったが、ただ話をするにしても、如何にすればあの男を解きほぐすことが可能になるのだろうか。手紙、電話、LINE、もしくは直接会いに行く。色んな方法が思い付くが、正直どれもあまり良い結果にはならないように感じる。というのも、父の晴彦は柔和でありながらもどこか頑固な性格であったので、こう何年と続いた関係を一気に引き戻すことが出来るようには思えない。あの男に器用さを求めるのは酷である、そもそも、器用さを持ち合わせてればこんなことにはならなかったであろう。


 時間が解決してくれる問題は数あれど、事ここにいたって、過ぎ去った時間というものは私と父の間に刻まれる溝を深く掘り下げ、また横方向にも距離を伸ばしてしまった。

 仲の良かった友人、そうでない友人、普通の知り合い、大抵の人間なら時間を置いて連絡して、軽く食事でもしさえすれば仲の修復や再構築などどうとでもなる。たとえ拗れた関係であっても、時間が立てば何か解決への妙案が思い付くか、もしくは外的な要因によって事情が変わってくれるかもしれない。そういった無意識下の甘い考えが私を堕落させ、怠惰に、何もせずただ待つという選択肢を取らせるのだ。

 遅れて現実を突きつけてくる血垢は、そのたびに、私の自尊心を傷つけ、その醜悪な匂いでもって私の脳天を引き裂く。


 何もしないよりも、何かをして後悔するほうが良い。これ以上悪くなることは、あるにはあるが、現在の状況を考えれば、それは誤差のようなものだった。思い立ったが吉日、キャリーバックに最低限の荷物を詰め込んで、出来る限り何も考えずに用意を済ませて足早に家を出た。少しでも思考してしまえば、理性的な私の頭は停滞という回答しか導き出さないことだろう。

 本能の赴くまま、父のもとに向かう。単身赴任先への足は新幹線を使うことにする。チケットの予約すらせず、駅に向かってその場で購入する。待ち時間はかかってしまうが、これまで待ち続けた時間に比べれば誤差のようなものだった。


 食事は取らなかった。きっと安堵して眠ってしまうから。水も、出来る限り飲まなかった、トイレに行けば、ここまで来ておきながら引き返してしまうかもしれないから。何も考えず、何もせず、ただ新幹線のシートに身を沈める。動作を停止して、レールの上を走る車両に身を任せる。ようは、たったそれだけのことなのだ。けれども私はこの行動をするまでに、幾度となく締め切りを破り、計画を反故にして、時間を無駄にした。

 東から漣面と流れてくる時間を飲みこんではそれを西に吐き出す。捨てられたそれは東に見えていたころよりも体積も表面積も縮んでいて、赤黒く染まった泥と変わっている。貴重な資源を噛み砕いて捨てる私はさながらシュレッダーのようであった。


 目的の駅に着くと、すぐにその場でタクシーを呼び止めて、父の住所を伝えてそこに向かうよう頼んだ。「そこそこ料金がかかりますよ」なんて言われたが構わない。お金を失うことよりも、むしろ私には決意を鈍らせる無駄な時間を使うことほうが恐ろしく思えた。

 タクシーの中は暖房が弱いのか、少し寒い。コートのポケットに両手を入れて、スカートの中で太腿をぴったりと閉じる。顎の先をコートの襟に埋めながら、車窓から風景を眺める。先ほどまでいた、新幹線の駅の周りは都会的であったが、今タクシーが走っているのは、とても寂しい廃れた町だった。おそらく、バブルの頃に建てられたであろう建築物ばかりで、そのどれもが経年劣化して薄汚れていた。綺麗な町とは程遠い、けれど、かつてそこにあった賑わいを感じさせるこの風景は、そのため余計に惨めさが引き立つようである。


 タクシーに揺られて、一時間ほど、ボロい小さなアパートの前で運転手は車を停めた。タクシーを降りて、アパートの集合ポストを見る。桜田とかかれたポストがあったので一先ず安心できた。この場所で間違いないらしい。鉄が剥き出しになった古い外付けの階段を上って、父の部屋の扉の前に立つ。インターホンを押した。しばらくすると、扉の鍵が開く音がして、ドアノブが回転するのが見える。

 徐々に広がる扉の隙間から見える部屋の中は薄暗く、その暗闇から一人の男が顔を出した。

 私の父、桜田晴彦で間違いなかった。


「お久しぶりです」


 挨拶をしただけなのに、扉を閉められかけた。すかさず扉の隙間に靴を差し込んでそれを止める。フットインザドア、交渉や営業の基本である。まあ、あの心理テクニックはただの比喩で、実際に靴を差し込む人間など創作の中にしか存在しないが。ともかく、手段はどうあれ、私の行動によって、久しぶりに父と目を合わせることができたのだ。交渉の始まりとしてはまずまずである。

 私は、勢いをそのままに、小さな体躯を活かして扉の隙間に滑り込み、半ば父にタックルするくらいの気持ちで部屋の中に飛び込んだ。玄関になだれ込む私を、父は受け止めこそしてくれなかったが、それでも突き飛ばして追い出すようなこともしなかった。


「お久しぶりです、突然ですが今日の宿がないので泊めてください」

「……駅前のカプセルホテルにでも泊まりなさい」

「高校生一人だと、最悪補導されます」

「……わかった、明日には帰るように」


 相変わらず私を認めようとはしてくれないが、まあいい。これくらいは想定内だ。

 靴を脱いで上がった部屋は、とても狭いワンルームで、特徴的なことに、父の持ち物らしきものはあまりにも少なかった。仕事用のパソコンに、壁にかけられたスーツ、あとは布団くらいのものだった。本当に、ものが少ない。家電製品すらほとんどなく、物を持たないミニマリストという主義があるのは知っているが、私の知る父はそのような主義心情を持ち合わせてはいなかったはずだ。稼ぎが少ないというわけでもないし、取り立てて父は吝嗇りんしょくだったわけでもない。いつからこんな性格になったのだろうか。


「ずいぶん殺風景な部屋ですね」


 無視される。壁に寄りかかってパソコンで仕事をしているようで、邪魔をするのはやや躊躇われた。一旦、父との会話は諦めて、キッチンを借りることにする。別に料理を作るわけではない、作ったとしても捨てられるのがオチだろうし、そんなことで食材を無駄にするのは罰当たりもいいところだ。そもそも、今日の私は料理の材料など持ってきていない。

 では何をするのかといえば、単にコーヒーを淹れるだけだ。戸棚にあったやかんを勝手に借りる。水道水を中に入れて、換気扇をつけてから火をつける。ふと、そばにあったゴミ箱をみると、その中はカップ麺の空き容器や、冷凍食品の袋で一杯だった。生鮮食品を扱った時にでる生ゴミなどどこにもない。あの年でこんな食生活をしていたらすぐに死んでしまいそうなものだが、ひょっとすると本当に死にたくてやっているのかもしれない。そう考えると、孤独死した人間の棺桶みたいなこの部屋も納得できる。終活、というにはあまりにも退廃的にすぎるが、それが父の心の拠り所でもあるのだろう。こんなものに、父を寄りかからせておくわけにはいかない。


「コーヒー、いります?」


 無視される。いらないという意思表示だと判断して、自分の分だけ入れて部屋に戻る。部屋には机すらないので、マグカップを持ちながら、父の対面の壁に寄りかかって座る。狭い部屋はすぐにカフェインの香りで満たされた。そのお陰でやや自分の気持ちが落ち着いたので、さあ、このあとどうしようかと会話の運び方を考える。手元のコーヒーをぶちまけるのはさすがに最後の手段としたい。武力行使は外交のあとだ。


「お仕事ですか?」


 当然、無視される。父の目線はキーボードと液晶画面を交互に行き来するだけだ。


 しばらく黙ったまま、コーヒーを啜った。唇が痛むくらいにはまだ熱を保っていたが、その痛みはどこか心地よかった。舌と喉が暖められたことで、ようやく気づいたのだが、この部屋はあまりにも寒い。外にいたときと気温が変わっていないのだ。エアコンやヒーターを探したが、視界の範囲には見当たらない。もしかして、そもそも買っていないのだろうか。

 この地域は航平のいる私の地元よりも北部に位置しており、ただでさえ寒いのに今は冬である。部屋の中は凍えてしまうくらいに寒かった。そもそも、私はまだコートを着たままなのだ。


 体が冷たいので、マグカップに何度も口をつける。両手も添えて、手を暖める。

 ガチガチと私の歯が鳴るほどに寒いこの部屋。父は特に何も感じていないようだった。


「寒く、ないんですか?」


 キーボードを叩く音と私の歯が鳴る音だけがこの寒い部屋を支配している。


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