オウマガリ

マニアウ

 不注意から思わぬ事故が起こるのは日常を過ごしているとよくあることで、世の中の人はそういったケアレスミスを繰り返しているのだろう、と想像する。そういったケアレスミスが大きなインシデントを生み、生死に関わる大事故が起こる。ハインリッヒとかいう学者がそう言ったのだから、きっとそうだ。

 例えば歩きスマホによって人とぶつかるようなもので、僕の中ではひどく軽微な不注意だった。イヤホンから流れるデジタルロックの特徴的なイントロによって、アーケードのスピーカーから流れる放送の一部を聞き逃しただけだ。


『——ただいまより、夕暮れが始まります。喰われたくなければ、外に出ないでください』


 何故だ。何故忘れていた? 木曜の夕方は家に居なくてはいけない。それがこの町のルールなのに。

 数分前まで活気のあった商店街にもう人は居ない。閉じられたシャッターは赤茶けた錆を剥き出しにし、アーケード越しの空は苔むしたような緑に染まっている。僕は古びた貨物に身を隠し、この時が過ぎることを必死に祈っていた。

 この場を支配するのは、ヒトではない。往来を歩く異形の身体に、独特の腐臭。僕たちの数倍の体躯で変異した通りを歩く無数の生命体は、猛獣のような視線で何かを探し回っていた。


 ここは王勾おうまがり市。魔が潜む街だ。


    *    *    *


 王勾おうまがり市は人口約20万人の地方都市だ。昔から続く商店街と再開発されたマンション群がオセロのように勢力を競い合う古きと新しきが鬩ぎ合う街であり、地下には無数の古墳が眠っているという。

 そのせいで未だ工事中の再開発エリアも多く、僕は引っ越してすぐその不便さに辟易した。新居であるマンションの隣に新しく出来るはずの大型スーパーは未だ更地のままで、買い物といえば自転車を使って少し離れた商店街に向かうしかないからである。


 それは八月の中旬、茹だるような暑さも収まりつつある夕暮れの事だった。九月からの新学期に向けてここでの生活に慣れておく必要があった僕は、母親に頼まれた買い物をしに商店街に向かっていたのだ。

 耳にねじ込んだイヤホンから聞こえる軽快なサウンドが、僕の警戒心を弛ませた。その末路がこれだ。引っ越した時の回覧板の内容を深く読んでおくべきだったな……と妙な冷静さで反省しつつ、僕は静かに息を殺している。


 四本足の巨大な獣が八つある眼をぎょろぎょろと動かし、大きな足でコンクリートを軋ませていく。慌てて道端に置いた僕の自転車が無惨に踏まれて壊される。まだ買ったばかりなのに!?

 ひしゃげた愛車フレームに息を呑み、僕は冷静になるために無意識で頭を振っていた。イヤホンが外れて落ち、静謐が支配する魔窟に軽快なギターリフを響かせる!


 気付かれた。化け物は涎を垂らしながら、僕をまっすぐ見つめている。甲高い鳴き声を上げ、瞬く間に同類たちが僕の逃げ道を塞ぐように周囲を取り囲んだ。

 肉塊に血走った一つ目が浮き上がった異形の怪物が、地の底から響くような唸り声を上げる。僕の数倍もある体格の鬼が、筋骨隆々の腕を振り回して威嚇する。生かして帰してはくれなそうな、剣呑な雰囲気だ。

 助けを求めるために反射的にチェックしたスマホも圏外で、僕は徐々に自らの死を覚悟する。日常の中に潜む非日常に、安易に触れてしまった。まだやりたい事だってたくさんあるのに、小さなミスでヒトの命は簡単に潰えてしまう。

 化け物が垂らした涎がコンクリートに落ち、穴を穿つように腐食させる。あのように、僕も溶かされて死ぬのだ。これから自分に待ち受ける悲劇を前に、全身から力が抜けていくのを感じる。ゆっくりと眼を瞑り、人生を諦めようとした、その瞬間だ。


『——死にたくなければ、外に出ないでください。そう言ったよな、俺は……』


 スピーカーから聞こえる声が、嫌に耳に残った。反射的に音のする方を向いた僕は、拡声器のような形状のスピーカーが設置された商店の看板に腰掛けてこちらを見定める何者かの存在に気付く。例の声は、そこから聞こえるのだ。


「世の中は複雑だねェ。権利だの、義務だの、まどろっこしくてワカンねぇや。……まったく、スマホの契約ってあんなに難しいもんかね? 複雑なプランばっかり提案しやがって……。もっとシンプルになりゃイイんだよ」


 その人影は新品のスマホを片手に、看板上で背を丸めて座り込んでいる。一瞬通話中かと思ったが、その疑念はすぐに否定された。


「そう、何事もシンプルな方がいいんだよ。だからさっさと帰れ、!!」


 立ち上がるが早いか、人影は足場にしていた看板を蹴り、跳んだ。僕も、それを囲う怪物たちも、新たな乱入者に釘付けになる。僕と同じ歳くらいの青年が僕を取り囲む円の中心へ割り込むように飛び込んだのだ。

 奇妙な格好だった。黒ずくめのファーコートが風に靡き、同じ色の制帽には市章のツバキがデザインされている。白いガーゼの眼帯で左眼を隠し、青年は不敵な笑みを浮かべている。端正な顔だが、笑うとサメのような歯が露わになり、凶暴性を証明するかのようだ。

 その青年はどこからか取り出した長い柄のシャベルを振り上げ、怪物たちに宣誓した。


「——逢魔狩おうまがり、曽兌そだ彼方カナタ。特命を以って、まかり通らせてもらう。シンプルに言や、アンタらをぶん殴って此処から追い出すってことだよッ!」


 咆哮一閃。僕を狙って最初に飛びかかった八つ眼の獣は、その牙が僕に届く事なく横薙ぎに吹き飛ばされる! 金切り声を上げ、巨大な体躯が宙に浮いたのだ。動揺する獣は、空中からの追撃に対応できない!


「骨砕くか、それとも真核たましい割るかァ!? 次にぶん殴られたいやつは何処だ……!?」


 地に伏せた敵に剣を刺して絶命させるように、青年は介錯の一撃を振り下ろす。まるでスイカ割りだ。僕を狙った奇妙な獣は、何かを割られたような轟音の後に液状化していく。まるで地面に吸い込まれていくかのようだ。おそらく、これが真核たましいを割るということなのだろう。


『ウ……ウオーッ!』

「次は鬼か……来い!」


 鬼は筋骨隆々の腕を振り回し、全速力で駆け出す用意を始めた。その目標は、また僕だ。


「わかってんだよ、そんなシンプルな動き!!」


 またも僕に届く寸前で、鬼の強烈な攻撃はシャベルの剣先によって食い止められた。得物が軋み、青年はそれでも獰猛に笑う。戦闘行為が楽しくて仕方ない、とでも言いたげに。

 圧倒的な膂力を身ひとつで受け止め、青年は僅かにしゃがみ込んだ。舗装されたアスファルトがひび割れ、その身体が数センチ沈む。ひと呼吸の後、彼は確かな足取りで一歩踏み込んだ!


『ウオォォォォ!?』


 衝撃によって体を折り曲げながら、鬼は後方へ吹き飛ばされる! 錆びたシャッターを数枚破り、その身体は積み上がった瓦礫の山に沈んでいった。

 シャベル一本で、自らの数倍の体躯を吹き飛ばす。人間離れした青年の身体能力に、僕は危機的状況なのも忘れるほど目を奪われていた。


「……次、誰だ? そこのクズ肉か? 触手のやつか? 相手してやるよ、誰でもォ!」


 血を激らせながら吠える青年を恐れたのか、化け物たちは既に僕を包囲するのをやめていた。建物の薄暗い影に潜み、姿形も残さずその場から消失したのだ。


「所詮はザコか……。自分が狩られる側だとは本気で思ってなかったんだろ。思考がゴチャついてんだよ!」


 彼は尊大に言い放つと、持っていたシャベルを地面に突き立てる。ひび割れたアスファルトが砕け、少し離れた位置にいる僕にまで振動が伝わった。

 スプーンでケーキを崩すように、驚くほど呆気なくアスファルトが人力で掘り進められていく。地の底に埋まっていた何かを拾い上げ、彼はスマートフォンを取り出した。


「もしもし、アカツキ? 四丁目の商店街、遺物回収したから。後片付けと資料は任せた。おう、よろしくー」


 何者かと通話をしながら、青年は掘り起こした物を所在なげに振り回す。独特な紋様が描かれた土塊に見えるが、何か希少な物なのだろうか? そう僕が考えている間に、彼は土塊をアスファルトに置き、シャベルで叩き割った!


「えっ……なんで……?」

「……あぁ、まだ居たのかよ?」


 唖然とする僕を一瞥し、彼は土塊の破片を踏み壊す。通話を継続したまま僕から目を離さず、鋭い視線で見つめ続けるのだ。


「ごめんアカツキ、生存者がいたの忘れてた。一人保護、よろしく」


 彼は通話を切ると、僕の方へ静かに歩み寄った。僕を見上げるその姿は彼の小柄な背丈を物語っていて、その身体のどこにそんな力が眠っているのか疑問に思う。

 凶暴な野犬じみた獰猛さによって気付きにくかったが、近くで見ると幼さを残す顔立ちだ。僕を見定めるような黄金色の瞳から目を逸らし、僕はこの場でどうするべきかを思案する。


「あっ、あの……助けてくれてありがとうございまし」

「アンタ、名前は?」

「……えっ!? 小暮こぐれ睦月ムツキと申します……?」


 反射的に名乗ってしまった。恩人とはいえ見知らぬ青年に、ペラペラと個人情報を漏らしてしまった。

 狼狽えながら話す僕を見て、青年は表情を崩した。もしかしたら、そこまで悪い人ではないのかもしれない。


「オッケー、じゃあクレムツくんって呼ぶわ。もうちょっと此処にいてくれる? 色々と用意があるし!」

「……別に構わないですけど、そもそもこの変な状態は元に戻るんですか?」


 視界を覆う空は緑色のままで、錆びついたシャッターは変色したままだ。まるで異世界に迷い込んだような風景は、冷静に考えると違和感が湧き上がっていくものである。


「結界の元は壊したし、そのうち問題なく戻るわ。片付けが終わったら人の数も増えてくるって」


 彼の言うことを理解できなかった僕の表情がよっぽど奇妙だったのだろう。青年は破顔したまま、わかりやすい説明を試みようと口を開きかけ、止めた。


「……いいや。こういうのはアカツキの方が説明上手いんだよ! とにかく、後は全部俺らに任せてくれりゃいい。なんてったって俺らは市民を助けるコーボク……」

「公僕?」

「そうそう、コームインってやつ!」


 見る限り未成年だが、本当に職に就いているのだろうか? 僕は奇妙な格好の青年に興味が湧き、彼の言うことに従ってその場に留まる事にした。自分を襲った謎の現象について、少しでも知りたかったのも理由の一つだ。


「……ところで、あなたは何者なんですか……?」

「あのカッコいい名乗り聞いてなかったのか!? 曽兌カナタ。王勾市役所の再開発に伴う威力担当部門にして、逢魔狩りだよ!」


 僕の脳内に、無数の疑問符が浮かんだ。

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