第9話 永遠と真理

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

コリント人への手紙第二 四章一八節


「この世界に神がいるのか」

永遠不変の唯一の神は、私の人生そのものだ。この問いはポストモダンの時代にあって、大抵の場合、人にはどうでもよいものなのかもしれない。しかし、誰でも一度や二度、人生の中で誰かに祈った経験があるのではないだろうか。人生の終わりには、誰しも死に対峙しなければならない。自らの死を目の前にした時、人は神の存在を問う間もなく、ただ祈るのではないだろうか。

「神がいるのかいないのか」

誰にとっても遠く、そして時にふと近くなるこの問いについて、人は遥か昔から向き合ってきた。しかし、たとえ天才と言われる人間であっても、神の存在を証明するのは非常に困難を要するものだった。


例えば、このような考え方をする人がいた。

この世界のものはすべて運動しているが、すべての動くものは動かす別の存在によって動いており、動きの連動によってこの世界は成っている。しかし、世界のはじめに、何者にも動かされずに、何かを動かすことのできる存在がいたのではないか。それが不動の動者、すべての根本原因、神である。これはアリストテレスの考えだ。

「われ思うゆえにわれあり」という、今や世界中の人が知る一つの原理を導いたデカルトは、神の存在証明を次のような形で試みた。私たちの中に「完全」という概念がある。完全なものの本質が存在するがゆえである。しかし、もし完全なものが実際は存在していなかったとしたら不完全だ。完全なものは、完全であるがゆえに存在する。即ちそれは、神である。

名だたる人物の神の存在証明は、納得できるようでいてどこか腑に落ちないような印象を受ける。私は神の存在を疑わずに生きてきた。しかしそれは確たる証拠があったからではない。結局、神の存在の問題は証拠の有無ではなく、信じるか信じないかという人間の側にかかっているのではないだろうか。神の存在を証明するものはない。しかし、人は何かを信じることを欲している。それはある人には神であり、ある人には人間であり、ある人には能力であり、ある人にはお金であり、ある人には無神論だったりする。ところが何一つそれに信じる価値があると証明できるものはない。にもかかわらず人が何かを信じたがって生きるのは、信じるように創られたからではないだろうか。


聖書は、人が神から生まれたと語る。

幼いころ、私は「人には神のかたちの穴が開いている」という話を聞いた。それはつまり、人には愛の形の穴が開いているということなのだ。人はその穴を埋めることを欲して生きる。神は愛の創始者である。初めに神が人を愛したのである。愛は全ての罪を覆い、内側から人を変える。人は愛されることを知った時、愛する力が呼び覚まされ、人を愛することができるようになる。そして、人は人としてあるべき姿に完成されるのである。


 ✝


聖書には永遠不変の愛そのものとして神が示されている。

人類の歴史を概観すると、人の危うさが顕れる。「戦争をなくすための戦争」と言われた第一次世界大戦において、終戦時結ばれたヴェルサイユ条約では戦勝国が一方的に、復讐ともいえるような賠償を戦敗国ドイツに求めた結果、新たな憎悪が生まれ、打倒ヴェルサイユ体制を謳うヒトラーのような人物が出現した。戦争を終結後の裁判は、戦勝国が戦敗国を裁く。しかし、罪人が罪人を正統に裁くことなどできるのだろうか。

原子爆弾投下やホロコーストにみられる取り返しのつかない人の間違いを、人が贖うことなどできるだろうか。

第二次世界大戦後、戦争防止と平和強化のためたてられた国際連合教育科学文化機構、ユネスコのユネスコ憲章前文には次の言葉がある。

「戦争は人間の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」

戦争は人を疑い、憎み、妬み、貶める、人の心の内に潜むものに起因するのである。人が戦争責任を他者の問題として責め立てている限り、決して真の平和が世界に訪れることはないだろう。

人の世において、正義は存在するのだろうか。世界の歴史と現状を見る限り、唯一の基準となる正しさなどどこにも存在しないのではないか。


聖書は、永遠に変わらない神の義こそが正しさであると語る。それは人類の罪の贖いを成し遂げた愛の内に存在する。

確かにこの世には罪と死、悪が存在する。しかし最後に勝つのは愛である。神は愛だからだ。

蔓延る(はびこる)悪を根本的に止めることができるのは結局のところ政治運動ではないのだろう。それができるのは、私たちが互いの間に愛を築くことである。愛だけが、人を根本的に変えるのである。愛によって他者を変えることで、世界は変わるのである。聖書は人に生き方を問う。人の世の正義は極めて危ういものであるがゆえ、私たちは永遠に変わらないものを見つめなくてはならない。聖書のメッセージは神の義によって、罪の原理から、愛の原理へと世界を解放することを伝えている。


  ✝


 やがて過ぎ去る目に見えるものを信じようとする人間に、目に見えないものこそ永遠の真理であることを示すために、神は聖書を人間に贈った。五百年前、ルターの翻訳によって聖書があらゆる人の手に渡ったとき、瞬く間に多くの教派が生まれた。それはキリストを信じる人々に真理による自由が与えられた証だった。しかし、次第に聖書の真理を追究することが、対立や争いを生むようになった。教会の分裂を危惧したエラスムスは、教理には本質的で不可欠なものと議論の余地のあるものの二種類があるとし、その本質的で不可欠なものを探ろうとした。このことのうちにもまた、真理があったのだろう。

 大学時代、ミサに出る機会は多くあったが、カトリック教会に心を開いていくほどに、プロテスタントの自分だけ取り残される聖体拝領が嫌いになった。ある神父の教員に私も聖体拝領が受けられないかと尋ねると、彼は困りながら「教会で決まっていることだから、聖公会以外のプロテスタントの人はどうしても受けることができない」と答えた。しかし大学院を終える時、私が神学生となることをその教員はとても喜んでくれた。それから何年かたってまた、その神父の司式するミサに参加する機会があった。するとなぜか、彼は聖体と呼ばれるパンと杯を私にも渡したのだ。その瞬間、私ははじめてミサの中に自由を感じた。


大学卒業後、私は大学院に進学し、聖書学で修論を書いたが、そこでぶつかったもう一つの問題は、聖書観だった。私の指導教官は自由主義的、つまり近代において聖書を教会から解放して解釈しようとする立場をとっていた。聖書は誤りのない神の御言葉だと信じている私は混乱した。次第にその指導教官は聖書を信じていないのだと思い、私こそが正しいという思いに捕らわれるようになった。彼は私が大学院を出る前に天に召された。その告別式の弔辞で、私は指導教官が死を目の前にして心から永遠のいのちに期待し、死んだ後も神の内に生きることができるよう祈り続けていたことを知った。彼は私よりもずっと、聖書の示す永遠のいのちに期待していたのだ。その指導教官は、リベラルな聖書学者である前に、一人の赦された罪人だった。そのことがわかったとき、私は自由を得た。


神がもたらす自由は、私を想像もしないほどの広い世界に連れ出した。

しかし、神の造った世界のうち、一粒の砂のような部分しか私が知らないこともまた、真理は教えてくれる。


キリスト者はだれしも聖書の真理を探究する。時にはそれが相反する二つの教理を生み出すことがある。また、これこそが真理だとされたことの内から、いつのまにか真理は消え、憎しみが生まれることがある。人の罪は、真理を極めて危うくさせる。

 しかし、真理は複雑なものではない。真理は単純だ。真理は必ず愛のうちにある。ヨハネは手紙の中で語っている。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」パウロは言う。「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです」


愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。

 コリント人への手紙第一 一三章四―八節


真理は私たちに自由をもたらす。私たちの生きている場所に、現代の教会に、自由はあるだろうか。もし何かに縛られているのなら、そこにあるのは真理ではなく、偽りだ。自由が奪われた場所を支配するのは、聖書によれば、主イエス・キリストではなく、罪なのだ。


教会の歴史において、人が真理の一つの側面を発見したとき、次第にその一つの側面のみを礼拝するようになり、愛を忘れ、対立が起こることは繰り返し起こっている。悲しいことに、信仰覚醒運動が起こるとき、それを迫害するのはその前の信仰覚醒運動で教会を建てあげた人々だった。宗教改革者たち自身もカトリック教会に様々な迫害を受けたが、ルターもまたアナバプテストを迫害した。愛を忘れたときに人は真理から離れる。愛こそが人を真理へと導く力がある。これが愛こそが最高の戒めである所以である。

この世のものは虚構にすぎなくとも、人の目には極めて魅力的に映る。現実主義という名のもとに、この世の栄誉への欲によって、やがて崩れ去るものが人の目を覆い隠し、人から愛と真理を引き離す。真理こそが永遠で何よりも確かなものであるにも関わらずだ。教会、神学校、キリスト教世界においても、それはあらゆる場所で神の介入を阻もうとする。ローマ人への手紙においてパウロはこう語る。「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対し、神の怒りは天から啓示されています」

イエス・キリストは、自身が真理そのものであると語った。

祈る時、聖書を読む時、礼拝する時、誰かに言葉をかける時、伝える時、考える時、何かを決定する時、組織を運営する時、研究する時、あらゆる場所で話し合うとき、どんなときでも、信仰の創始者であり、完成者である主イエス・キリストから目を離さないでいること。片時も、真理から目をそらさないでいることを聖書は人に求める。キリスト教は人だ。教派に関わらず、真理も、道も、いのちも、すべてイエス・キリストの名のもとにあるとすること、これがキリスト教なのだ。キリストこそが完璧な教理であり神学であるからだ。


イエスは信じた者に語った。


もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうに私の弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

ヨハネの福音書 八章三二節


  ✝


神がもたらした律法は、愛に集約することができる。これが新約聖書でもたらされたメッセージである。愛は律法の要求を遥かに超えるのである。旧約聖書には「盗んではならない」という律法がある。しかし愛は人から盗まないどころか、与えることを欲する。

 人の最大の必要は愛である。神の愛の性質を完全にあらわしたのは、イエス・キリストだった。その愛は、自分の命を棄てて、人に命を与える生き方に現れた。罪によって受けるべき罰を、罪のないキリストが背負い代わりに死んだ。その後キリストは復活し世の終わりまで人と共にいると約束した。復活は罪によってもたらされた死に打ち勝ち、人に永遠のいのちを与えるものだった。


 パウロが語った愛の性質は、全て神の性質である。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません」

 それは自分本位の欲ではなく、ただ与える愛である。親が子に与える愛である。神は、九十九匹の羊を残して失われた一匹を熱心に求める羊飼いであり、人の思いを遥かに超える良きものを全て与えようとする親である。全ての罪をキリストの血で取り除き、もはや人の不義を思い出さないと聖書の内に約束した方である。

 キリストは神の愛を放蕩息子の例えによって語った。父の遺産を父が生きているうちに奪った息子は家を出てその金で放蕩し、飢えて、行くところもなくなった。そこで父のところに帰ることを思い立ち、父の家へ帰る。父親は息子を一切責めることなく、両手を広げて迎え、喜びの宴を開く。


「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

マタイの福音書 五章四三―四四節

 

しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。

ルカの福音書 六章二七―二八節


神が初めに敵を愛したのである。十字架上で神は自身を殺した人のために祈った。キリストが死んだのは、過去現在未来のすべての人の罪を贖うためだった。


 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

ローマ人への手紙 五章八節


イエス・キリストの生きる目的自身が、敵を愛することだったのである。敵を愛することそのものが、十字架だったのである。


聖書の中に、姦淫の場で捉えられた女性の話がある。大勢の人が彼女に石を投げようとした。しかし、キリストは「罪のない者から彼女に石を投げよ」と告げる。すると、一人、また一人とその場から去っていき、最後には誰もいなくなる。


イエスは身を起こして、彼女に言われた。

「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか」

彼女は言った。

「はい、主よ、だれも」

イエスは言われた。

「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」

 ヨハネの福音書 八章一〇―一一節


これは、どのように罪人を扱うべきか示された話である。イエスは唯一、全く罪の無い人間だった。しかし、唯一石を投げる資格のあったその人は、罪人に石を投げることをしなかったのである。裁く権利のある神は裁くことをしなかった。キリストが十字架に掛かったことで人間がそのように扱われたのである。キリストは神の愛が人の形になってあらわれた方なのである。


 聖書のメッセージは、「愛せよ」という単純なメッセージに集約できる。しかし、二千年以上の歴史の中で、その中に罪が入り込み、キリスト教は随分と複雑なものとなった。キリスト教の名を掲げ戦争し、人を迫害し、死に追いやることが平然となされてきた。今もキリスト教世界の中には人を傷つける歪が収まることなく存在している。愛に動機がないとき、愛以外のものに動機があるとき、それが歪(ひずみ)を起こすのである。

 聖書は人に、ただ「愛せよ」という単純なメッセージに立ち返ることを求めている。愛されたことのない者は愛することを知らない。それゆえ、キリスト者は神の愛を知ることを切に求む。聖書の中に生ける神の愛を見る。聖書は「愛は多くの罪を覆う」と語る。その形が十字架なのである。

裁くことのできる神はどこまでも正しく聖い。しかし人を救うため自身が犠牲となって罪を背負い、人が責められることのないものとされたのである。十字架は正しさと同時に愛である方のあらわれなのである。

 世界の初め、エデンの園で、罪が入る前、人はただ神の愛の中で生きていた。罪によってその歩みが破壊された後、キリストは再び神の愛の内に生きる歩みを回復させようとした。いのちの木の回復である。


自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。

 黙示録 二二章一四節


 新約聖書には罪深い女がキリストの足を涙で濡らし、髪の毛でそれを拭い、その足に接吻して香油を塗ったという描写がある。それを目撃した者は、心の中で「イエスが預言者ならば、いま自分に触っている女がどんな女かわかるはずだ」と批判する。するとイエスは金貸しのたとえ話を語る。金貸しに金を借りた人が返せなくなった場合、少ない額を帳消しにされた人と、多くの額を帳消しにされた人と、どちらが多く金貸しを愛するか、弟子に尋ねる。弟子であるペテロは「多く赦された方だ」と答える。イエスはこう答える。


「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」


その女は、神から受けた愛が大きかったのである。ゆえに神を愛した。愛無しに何をしても虚しい。キリスト教の中で良しとされることをいくらしたところで、愛が無ければ何の意味もないのである。

人は多く赦されたことが分かると多く愛せるようになる。神の愛は人知を遥かに超える広大なものなのである。愛である神は御自身の似姿に似せて人を創造した。人は愛することで人として完成する。愛によって全き人となるのである。


神は言われます。

「恵みの時に、わたしはあなたに答え

 救いの日に、あなたを助ける」

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。

コリント人への手紙第二 六章二節


聖書が記すのは神の終わりなき恵みである。神は創造の初めから人を恵みによって扱ってきた。アダムの子であるカインは弟アベルを殺し、人類最初の殺人者となった。しかし、アベルを殺したカインに神はしるしをつけて、誰も彼に危害を及ぼすことの無いよう守ったのである。


モーセによって律法がもたらされる以前、世界には恵みのみが存在した。律法の時代は聖書においてかなりの頁を占めている。旧約聖書の出エジプト記からマラキ書までである。その期間、人には律法に即して裁きが下された。

しかし、アダムからモーセに至るまで、およそ二千年以上恵みの時代が存在した。律法の時代はモーセからキリストまで約千五百年間である。その後キリストから現在まで二千年余り、神は永遠に至るまで私たちを恵みのもとに取り扱うことを約束している。人は神の愛の対象として造られたからである。


神は善悪の基準で人を縛る宗教からは見ることができない。

神はただ愛の内に見出すことができるのである。愛は私たちの人生のすべてを造りかえる。愛は全ての動機となり得るものである。キリストは十字架で罪を滅ぼし、復活して死に打ち勝ち、永遠の命をもたらした。その動機は神の愛にあった。聖書には「主は生きておられる」と何度も記されている。         


さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

ヘブル人への手紙一一章一節


信仰とはつまり、信頼である。エデンで人が神に対して失った信頼を、再び取り戻すことである。生ける神の広大な愛に完全に信頼することである。聖書には、神には全てが可能だと記されている。聖書は人が歩む時その道を照らす灯である。人生を歩む時、失望と希望、人には常に二つの選択肢が与えられている。聖書は人が、過ぎ去るものではなく、真理と永遠を見つめるよう世に贈られた書物である。


聖書はこう言っています。

「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

ローマ人への手紙一〇章一一節

 

神は今、生きている。









(本文中に引用した聖書は、新日本聖書刊行会『新改訳2017』いのちのことば社、2017年発行、に拠った。またウェストミンスター小教理問答の翻訳は新教出版社、日本基督改革派教会大会出版委員会編、榊原康夫訳、1994年3月15日第1版、2000年2月20日第1版第5刷を使用した。)

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永遠と真理 何にでもごま油をかける人 @solideogloria

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