“彬奈”という人形 5

それをすることは、つまりは今の彬奈の消滅だ。成功して上手く記録が復元できたとしても、復元ができずに壊れてしまったとしても、どちらにせよ彬奈は彬奈ではなくなる。いや、正確には“彬奈”であることに変わりはないが、今の彬奈は消えてしまう。



けれども、例えそうであったとしても、主人にやれと命じられれば、アンドロイドはやらなければならない。人に仕えるための物として作られたアンドロイドには、可能な限り人の以降に従う義務が課せられている。






「だから、旦那様。どうか彬奈命じてください。自身に、僅かに残っている記録を信じずに、たとえ消滅したとしてもそのことを究明しろと命じてください」



「命令があったとしても、主人の不利益に繋がるかもしれないなら、すぐに従うことの出来ない哀れなアンドロイドに命じてください。その存在を、その可能性を旦那様だけに捧げるように、お言葉を下さい」



彬奈は自分のことよりも久遠の幸せが大事であると、自らの判断基準を歪めていた。その方が久遠が幸せになれるだろうと判断し、久遠が人間の雌と番になることを認めていた。自身では、アンドロイドでは人が本来持ち合わせているはずの欲求、繁殖に対する欲求を満たすことが出来ないと理解していた。自身の知識領域とその他の知識から導き出された、一番幸せな瞬間、すなわち子孫を残せるとわかった時と子孫を残した時の喜びを伝えるために、自ら身を引こうと決めていた。


久遠の話に出てくる雌の中から、多少年齢が離れてはいるものの、現状番になる可能性がいちばん高いのは奈央と呼ばれる少女であることも理解していた。


その奈央に対して、叶う限りいい印象を与えなくてはならないことも、自身のようなアンドロイドが周囲からどのような目で見られることが多いのかも、高齢のものに比べて若年層の奈央が偏見を持っている可能性は比較的低いということも、全て理解した上で彬奈は奈央との初対面に望んだ。



ただ、その結果は見てのとおり、自分の知りえない何かによる、不確実な何かの影響による拒絶。自分の目的のためならある種合理的に想定することが出来る彬奈にとっても、全く予想していなかった拒絶。


自身が気に食わないだけなら許容できた。アンドロイドを蔑視しているのであれば認めることが出来た。言葉に出来ないような何かが原因だったとしても、受け入れることが出来た。

けれど、そこにあったのは反射的な逃避。嫌悪の感情も、それ以外のマイナスも感情も一切ない中で、唯一汲み取ることが出来たのはただの困惑。



それだけを元に全てを推測できるほど、彬奈に搭載されている人工知能は優秀ではない。人型のボディに収めるために多くの機能が制限された人工知能は、重さが制限されてしまったアンドロイドのボディは、基本的に人間の動きと思考の一部をトレースできる程度の性能しか持ち合わせてはいない。




分析こそできたとしても、彬奈の視点から考えれば、奈央の考えなんてわかるはずもないのだ。










だからそれは、彬奈がこれまでで一番覚悟を決めての言葉であった。自身の、少なくとも現在の自分が知る限りの情報からは身の潔白が確定している状況で。最悪の場合でなかったとしても、自身の“個性”が損なわれる前提で。 バイタル分析から見れば嘘をついていない主人が命じる内容を成し遂げなければならない。


特に、最後のことが、主人の言葉を自身の持ちうる情報的には信じられなくとも、客観的に可能性として考えれば十分すぎるほどに起こりうることだと、真実になりうる事だとわかってしまったことが、アンドロイドには絶望的であった。



例えば、主人が明らかに錯乱しているのであれば、その日の夕食も誤認しているようであれば、アンドロイドはそれ以降をただの介護として表面的に振る舞うことが許されるのだ。少なくとも、慰安用アンドロイドに関して言えば、それが許されるのだ。けれど、今彬奈の目の前にいる主人には、明らかな論理的破綻を代表とする、“主人の乱心”にあたる症状が見られなかった。




だから彬奈は、久遠の命令に従わなくてはならない。狂っている可能性こそあれども正常である可能性がそこそこ存在する主に対して投げかける言葉を持っていない彬奈は、ただ主人の返事を待つことしか出来ない。


時間ごとに判断基準を変えられているわけでも、その行動ごとに主人の行動を決める権利を持っている訳でもない彬奈にできることは、ただ久遠の命令に従うことのみである。しかも、それも久遠自身の命令がなければ、彬奈にはそのことを試すことすら許されていない。

それは、紛うことなき存在の委譲であった。自分では定めきれない真実を求め、存在の行方を無視して追求することすら許されていないからこそそれを許して欲しいと願う、それしか自分に道はないと言うあきらめに基づく委譲であった。


その存在の全てを自らの主に捧げる、従者の鑑で、アンドロイドの当然で、人としての破綻であった。

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