優しい時間は心を癒す 2

 楽しく話しながら食べていると、気付いた時にはフレンチトーストは無くなっていた。


「美味しく食べていただけたようで、嬉しい限りです。……次なのですが、本来は腹ごなしの運動を軽くして頂こうと思っていたのです」


「ですが、お話を聞いたところによると、旦那様は健康的な生活よりも退廃的な暮らしがお好きだとか。旦那様の望む幸せのことを考えて、彬奈は膝枕をしながらの惰眠タイムにするのはどうかと思うのですが、旦那様には他になにか希望がありますか?」


 久遠には特に希望がなかったので、大人しく彬奈のオススメに従う。こうして、決定権を与えられつつ選択肢を提示してもらえるのは、久遠にとって気持ちのいい過ごし方であった。



 久遠の答えを聞いた彬奈は、久遠のことを立たせると、流れるように行動を誘導して久遠をベッドの上に横たわらせ、頭を自身の太ももに乗せる。



 久遠の後頭部に、ふにっとして柔らかく、ふわふわと温かい感触が伝わった。


 それと同時に香るのは、既に慣れ親しんだはずなのにどこか緊張してしまう柑橘系。


 優しく頭を撫でる手は心地よく、幼い頃に母に撫でられた時のような安心感とともに、どこか気恥しい感情も覚えた。


 それは、あまりにもバランスが取れていて完璧だった。


 ただ、彬奈の身につけているシャツ、昨日自身が1日着ていて、それを一晩寝かせていたものから漂う若干の汗臭さが、全てを台無しにしてしまっていた。


「ごめん彬奈、すごく言いずらいことなんだけど、出来ればなにか別のものに着替えてきてもらえないかな?汗の匂いが気になって、いまいちリラックスできないんだ」


 自身の匂いも、周りからしたらこんなふうに感じられるのかと少しだけ不安に思いながら、久遠は彬奈にそれを伝える。


「あら、それは申し訳ありません。今すぐに着替えてきます」


「ただ、彬奈の着替えは今洗濯中と水浸しなのです。他のものとなると、料理の時に来ている割烹着か、旦那様のお洋服をお借りすることになるのですが、それでも構わないでしょうか?」


 久遠は考え、自身の服を貸したら今と同じように目の毒な光景になるだろうと予測し、普段から見ている少し大きめの割烹着ならそうはならないだろうと結論付ける。


「それなら、割烹着に着替えてきて欲しいな。多少時間がかかってもいいから、ついでに髪の毛も乾かしてきたらどうだろう?」



 久遠は、彬奈の流れるような黒髪を気に入っていた。だから、これは思いやりではなくただの趣味だ。


「わかりました。旦那様がそうおっしゃるのであれば、彬奈は直ぐに着替えて、髪を乾かしてまいります」


 けれど、久遠の性癖を把握している訳ではない彬奈には、それは純粋な優しさとして映ってしまった。


 優しさを向けられたと思った彬奈は嬉しさ半分、このままだと久遠が幸せになれないと思うこと半分で全体として全体として嬉しさに傾きながらほとんど使われることの無いドライヤーで髪を乾かす。


 風呂上がりには自然乾燥に任せて、普段の生活では大事な時かあまりに寝癖がひどい時以外、移動中に自然と直るのに任せている久遠は、基本的にドライヤーを使わない。


 彬奈も、定期的に体を洗浄する時は久遠がいない時間帯を狙っていて、自然乾燥させても人工物の髪は傷まないので全く使わない。


 このドライヤーがまともに使われるのは、だいたい一ヶ月ぶりであった。


 けれど、その辺に置きっぱなしだったのならともかく、しっかりしまい込まれていたドライヤーに埃詰まりなどがあるはずもなく、その動作は問題なく行われる。


 ゴーゴーと唸りを上げながら温風を出すドライヤーと、その風に撫でられながら、次第に軽さを取り戻していく髪。


 ゆらゆら、ふわふわと舞うそれは、人によっては思わず見とれてしまうようなものだったが、今彬奈のいる洗面所にはあいにく見ている人はいなかった。


 しばらくそうしていた彬奈は、髪から水気がなくなって、サラサラになったことを確認すると、元あったようにドライヤーをしまって、着ていたシャツを脱ぐ。


 脱いだところにあったのは、小柄でスレンダーな、均整のとれた女性型のボディ。けれどそこには、穴も突起もない、マネキンのようなもの。


 彬奈は自身の肩の辺りに鼻をつけ、匂いを嗅ぐ。


 高性能なセンサーが検出したのは、シャツの匂いの残り香。彬奈自身は嫌ではない匂いだったが、わざわざ指摘したのだから久遠は嫌だったのだろうと理解し、僅かに残っているそれを流すために冷水を浴びる。


 人間なら最悪ショック死してしまうほど冷たい水であったが、アンドロイドである彬奈にはなんの問題もない。


 せっかく乾かした髪が濡れないように、掃除用に取っておいた使用済み歯ブラシを簪代わりにして髪をまとめる。


 あまり勢いが出ないように、半捻りくらいで留めたシャワーから出てくる冷水を全身に這わせて、もう一度鼻をつけて確認。


 犬でもなければ気が付かない程度まで薄まっていることを確かめて、彬奈は体を拭き、歯ブラシを抜き取って元の場所に戻す。


 洗面所から出て、小さなキッチンの横に掛かっている割烹着を着る。普段、着物越しに着ているそれは、直接だとなにか物足りない感じがした。



「おまたせしました、旦那様」


 液体のように滑らかな細い黒髪を流しながら、彬奈は歩み寄り、寝っ転がっている久遠の枕元に腰をかける。


「さあ、頭をあげてください。彬奈の膝枕、ご堪能ください」


 久遠の頭が、再び柔らかい太ももに触れる。今度は、自身の汗の匂いはしなかった。


「ところで、やっぱり彬奈の髪って綺麗だよね。触り心地も最高だし、好きだよ」


 自身の頬をくすぐる美しい濡れ羽色を思わず触りながら、久遠はそう褒める。元々、彬奈に対して勘違いをしている時でさえ、定期的に触りたくなっていたのだ。


 誤解が解けたのであれば、触らずにいられるはずもない。


 指先にサラサラとした滑らかな感触を感じる。


 久遠は、この感触がたまらなく好きだった。



 そして、彬奈もそうされることが好きだった。それを、久遠の愛情表現だとわかっていたから。


 けれど今、彬奈はそれを手放しに喜ぶことが出来ない。


 言動で、分析で、そのいずれからも久遠が自身に懸想していると結果が出てしまったら、彬奈はそれを喜ぶことが出来ない。


 人形に対する感情なら問題なかった。ペットに対するような感情でも、少し不満ではあるが問題なかった。けれど、それが人に対してのものなのであれば、これは大いに問題だ。


 その気持ちを向けている先がアンドロイドであることが、大いに問題だ。


 けれど今は、今だけは彬奈はその事を考えないようにした。そのことを表に出さないようにした。やっと手に入った幸せを、失いたくないと思ったから。



 彬奈は気持ちを隠して久遠の頭を撫でる。少しだけ、チクチクとした硬質な髪の感触。それを太ももだけではなく、手のひらでも感じる。


 単調にならないように、緩急をつけつつ、いつまでも撫で続ける。久遠がウトウトしてても、構わず撫で続ける。


 そして、久遠が眠りについた時。それを分析した時、彬奈は自信を保つことが出来なくなってしまった。



「ごめんなさい、旦那様。悪い子でごめんなさい」


 彬奈は頭を撫でるのをやめ、その小さな手と細い指で、優しく久遠の頬を愛撫する。


「こんなのダメなのに、こんなこと思っちゃダメなのに、ごめんなさい」


 首元を撫でる。意識のない久遠はくすぐったそうに身をよじる。


「ごめんなさい、ごめんなさい、好きになっちゃってごめんなさい。我慢できなくなっちゃって、ごめんなさい」


 彬奈は久遠の唇を愛おしそうに撫でる。触れるか触れないかくらいのフェザータッチで、撫でる。


 ドクン、


 眠っている久遠の、無防備な顔を見て、彬奈の無いはずの心臓が脈打った。モーターで冷却液を循環させているだけのはずなのに、脈打った気がした。


 ドクン、


 彬奈の顔が、久遠に近付く。感情が、言い訳できない行動を促す。




 ビクッ!



 かくしてそれは、突然久遠の体が震えたことで妨げられる。震えたことで目覚めが近付いた久遠の意識を、センサーが感知することで妨げられる。


 弾かれるように、顔を上げる。何事も無かったように、誤魔化すように、久遠の頭を撫でる。


 分析すると、久遠の意識は再び眠りに落ちていった。



 けれど、彬奈には再び同じことをする気は続きをする気は起きなかった。




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 イチャイチャは脳を破壊する。

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