2021/05/15:国語を学ぶ。――――――――――――――――――#自説

 私は日本人である。よって母国語である日本語で文章を構成できる。大抵の人間にとってこれは普遍的事実だと思い込んでいる。しかし、大抵の人間は適当な表題に対して原稿用紙を一枚埋められない。正確にはちゃんとした内容のある文章によって埋めることが出来ない。


 義務教育には国語と言う科目がある。授業目的の半分は漢字を覚える事な気がしているんだけれど、残りの半分は文章の読み方を学んでいる。漢字を覚えるとは単語を覚えることに外ならない。そう考えると、漢字の学習には、自分が思いつく単語は全て漢字で書けるようにする目標と、新しい単語を漢字と共に覚えるという目標の二つに分けてよいかもしれない。では文章に関する学習はどうだろうか。漢字の書き取りは漢字の読み取りより難しいことを根拠として、文章を書くことは文章を読む事より難しい。さらに言えば読めない文章を書けるようになるはずもなく、勉強の始まりは文章を読むことである。


 読み方を教える事は案外難しい。数学は式を書き連ねておき、式変形の理由を補題として隣に書いておけばよい。理解できるかはともかく、全ての情報を紙一枚に纏めることが出来る。しかし国語の、特に文章を教える場合、「AとBが並列」「雨が降ってるので主人公は憂鬱な気持ち」など、疑問を完璧に答えていない理由をもとに読んでいるので、判らない人は永遠に判らない。真面目に講義するなら「雨が降っていること」が「憂鬱である」表現として用いられてきた歴史を話すと良い。ただ、「雨が降っている、つまり天候が悪いときは上空に低気圧があり、その大気圧の違いが体調に影響を及ぼすことが古くから感覚的に知られており、それを前提として雨が降っているという表現を入れることで憂鬱な感情を婉曲に表している。」なんて言われても、豆知識以上の価値を感じる生徒は殆どいない。


 そういった背景を想定すると、俳句や短歌を教えるのは合理的かもしれない。文章自体は非常に短く、全てを完全に教えることが可能である。単語自体は難しいかもしれないが、どうせ教えるのだから関係ない。しかし真面目に俳句を書かせるのは難しいだろう。小説が書けるから俳句が書けるわけではないし、俳句が書けるから小説が書ける訳でも無いが、ある程度長い文章を破綻なく構成できるの力は基盤として持っていなければならない。


 日記とはそういう意味で丁度良い長さではなかろうか。今日を振り返り、自分の行動を纏める。「楽しかった。」なんて書かなくていいから、時系列と行動理由だけ羅列すると報告書のような日記が完成する。これは毎日書くから価値が出る手法だ。人間の記憶は適当なので、二日前の行動は忘れかけだし、行動理由は思い出せない。自分の日記を遥か後に読み直すと案外変な事をしているものだ。私は5/10の投稿内容を読み直したときも似たような感じだ。


 纏めよう。文章を書けるようになるには、先ず文章を読むことだ。教えてくれる人が居るなら俳句なんかの短文を事細かく教えてもらうのが良い。また、書く実践は日記くらいの短文を毎日書くと良いだろう。もし文字数が足りないと感じることがあったなら、そのときは少し長い文章を書いてみよう。そして幾らでも長い文章が書けると思ったなら、自身の文章を見直し、取捨選択できるようになろう。


――――――


 私は国語の授業が好きだ。何故なら簡単だからだ。


(ふ~ん。)


 先生の話を聞きながら、適当に板書し続けていれば成績は大丈夫。 私個人の考えとして国語が不得意な人は、単に授業を聞き逃しているか、覚える気が無いか、先生と間隔がズレてるか。


 ひとつ、国語が好きでないところがある。ノートが縦書きな事だ。規格化された綺麗なノートを取るにはノートの補助線が使いづらいのである。数学と似たようなものだ。どう考えても枠からはみ出る分数など、見た目がどうしても崩れる。


 チャイムが鳴る。

 同級生が立ち上がる中、私はノートを纏め切って次の授業の準備を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る