月は天使のような輪を抱いて

維嶋津

本編

1.


 甲虫の背のようなバイザーが璽果じかの表情を隠している。それを見る僕の視界も薄い黒に覆われている。僕らは同じ装置を着けて向き合っている。教室で。正確には教室を模した仮想空間で。ヘルメットを隔てた向こうで生徒たちのざわめきが聞こえ、内側では湿った自分の息が反響する。


「ですから僕は――異性の爪先をしゃぶりたいのです」


 絞り出した僕の言葉に、彼女は問う。


「なぜでしょうか?」


 口をつぐみ、言葉で考えようとする頭を止める。大切なのは論理ではなくイメージ……先生のアドバイスを思い出す。


「たぶん、両親が僕の爪先を取り換えたことと関係していると思います」

「爪先を?」

「はい。三歳のころに壊死して、セラミックに置き換えました」


 なくした指が微かに疼き……まるで顕微鏡のピントがあったように、ひとつの像が鮮やかに浮き上がった。


 足だ。ピンク色の爪を備えた、丸く、やわらかい幼児の足。

 かつて失われた身体のイデア。

 彼女の顔がぴくりと動く。


「受け取りました」


 突如として、顔中に風船を詰め込まれたような感覚が僕を襲う。


 


 端末は額から延びる透明なワイヤで繋がっている。それはもちろん仮想イメージにすぎないけれど、この端末は実際に僕の脳の発火パタンを相手に転写できる。


 つまり璽果は、僕がさっき描いたイメージをそのまま見ているのだ。

 誰にも明かしたことのない性癖。その具体像を、いま。

 もっとマシなものはなかったのか?

 あんなどぎついのじゃなくて、もっと普通の……理解しやすい……。

 いや、きっとダメだ。

 少しでも穏当な――つまり彼女に嫌われなさそうな――イメージを共有する試みは、すでに何度も失敗していた。


『このセッションでは、他人と違う部分と同じ部分を切り分ける練習を行います』


 先生がそう言った通り……他人と共有したくないものでなきゃダメなのだ。

 教室の呻きは精神の断末魔だった。いまの僕が出しているような。地獄のような沈黙が、僕の後悔を一秒ごとに増幅させる。


「うん、わかる」


だけど、口を開いた璽果はそう言った。


「理解したよ、とや

「本気で?」


 聞き返した声色が間抜けに裏返った。


「欠損。もう戻らないものへの憧れ。そういう部分は誰にでもある」


 だがそこで彼女は首を傾げる。


「でもなんで異性限定なの? イメージは男の子のだったけど」

「いや、それはその」


 そりゃ誰のでもいいってわけじゃない。だからつまり、好きな女の子のとかの……。


 反射的に手元のボタンから指を離し、浮かんだ璽果のイメージを振り払う。

 


「塒が異性愛者だから?」


 幸い今のは璽果に共有されなかったようだった。双方が手元のボタンを押し続けていない限り、端末は互いの頭の中を共有しない。


「まぁ、そんなとこ。……璽果は違うの?」

「ううん、私も同じ。あー、でも本当にそうなのかってのは考えたことないな、言われてみると」

「や、そこはまだ別にいいんじゃない? だって共通項なわけだしさ、お互いの。違いを切り分けるのがこの授業の目的でしょ」

「でも、それが『違い』になるかもしれないし」

「そんな時間ないんだけど」

「塒がグダついたからじゃん!」


 非難の声を無視して、僕はボタンを押す。


「次は璽果の番だろ。ほら」

「あ、ちょっと待っ」


 極彩色の光が脳内で炸裂した。

 意識だけが漂う感覚のなか――霧が晴れるように光景が映し出される。


 朽ちた教室だった。

 散乱した机。汚れた雑巾のように捻じれた樹脂のタイル。裂けた天井から教壇へ、白い光の柱が降りていて……その中に、彼女はいた。

 上半身だけの男と抱き合って。

 着ている制服から同じ学校の生徒だとわかった。千切れた腰からは暗褐色の液体が脈打ちながら流れ、その間隙から白い脊椎が見え隠れしている。

 璽果は男を頭上に捧げる。肉片と溶けた脂肪の混じる吐瀉物のような液体が降り注ぐ。彼女はそれを待ちわびたような表情で顔に浴びて――

 視界が虹色のノイズをまとって再びぶれ、気付くと璽果の顔が目の前にあった。


「あー……えと……」


 バイザー越しでもわかった。

 怒っている。


「いや、わかるよ、わかる。失ったもの。欠損への憧れ……」


 考えるより先に口が動く。


? 僕と……」

「一緒にすんな」


 言葉を詰まらせたのと同時に、甲高いチャイムが鳴り響く。


「待って」


 伸ばした指先が、白い壁に触れた。

 端末ブース。

 防音壁に囲まれた現実に、僕は引き戻されていた。


『セッションはこれで終わりです。教師との振り返りに進みましょう』


 無機質な宣告に、もたれた椅子の背が大きく軋む。

 大失敗だ。 



2.


「なにかの間違いじゃないですか?」


 うわずった僕の問いに、先生は大きく首を振った。

 刃を研ぐような微かなノイズ。下顎から鎖骨までを置き換えている先生は、首を動かすたびそのような音を立てる。


「評価は一定の基準のもと公正になされました。時間不足でもありません」

「でも彼女は『わかる』と言ったんですよ」


 僕のイメージをかみ砕き、受け入れてくれた。

 いっぽう僕は――彼女の欲望を無遠慮に覗き、上っ面の言葉で怒らせた。

 落第はどう考えても僕のほうだ。


「だからこそですよ、塒さん。『理解』したからこそ、彼女の点数は低いのです。もちろんあなたの成績もよいとは言えませんが。授業で言ったことを覚えていますね?」


 僕はうなずく。

 安定した仕事を得るために多くを学ぶ必要があった時代のこと。

 生活に追われ、人と正しく関わる時間がなかったこと。

 結果、権力を求める人は雑な方法に頼っていたこと。

 嘘、誇張、決めつけ、対立の扇動……。


捧冠デフロックド』以前の時代。

 混乱と争いの時代。


「だから身につけなければいけない。拡張皮質オーグテックスが知性を補う代わりに、人間本来の――つまり、互いに理解し、尊重し、知性をもって社会に参加する力を」


 涼しい音と共に先生はうなずく。


「その通りです」

「じゃあやっぱり璽果は満点じゃないですか」


 先生は瞬きしない目で僕を見た。


「ではなぜ彼女は怒ったのでしょう。同じことを言ったはずのあなたに」

「それは……」

「そもそも理解しあっていなかったからです」


 息が止まる。


「最初に伝えましたね。これは違う部分と同じ部分を切り分ける練習だと。私たちは自分が論理的だと思っている。しかしその実、心の奥に他者と共有できない非合理を抱えている。このセッションはね、塒さん。理解のではなく、を学ぶ授業なのです」

「じゃあ、どうしたらよかったんですか?」

「受け入れることです。否定も肯定もせず。他者の解釈は、それがどんな形であろうと暴力なのです。理解ではなく」

「嫌われたままでいろと? あんなイメージを互いに暴露させておいて!」

「触れ得ない領域を前提としても、人は言葉で繋がれる。受け入れがたい欲望も、他人を傷つけず充足する手段をデザインできる。コミュニケーション。それこそが人類の最も偉大な力であり……また希望なのです」


 、と思った。


 母指球から先。

 セラミックの肉体に存在しないはずの疼きが、耐えがたいほどに暴れている。


 そのとき、バイザーの画面を何かがよぎった。

 見間違いではなかった。


『きょうの夜、ふたりで話せる?』 


 璽果からのメッセージだった。



3.


「さっきは……ごめん」

「僕こそごめん。適当なこと言って」


招かれた仮想の丘で、僕らは裸足のまま座っている。

夜の天蓋を、あり得ない大きさの月が塗り潰していた。


「本当によくなかった。わかってもないくせに、そのフリをして……」

「いいよもう。それよりさ」


 彼女は僕を見つめる。


「会おうよ」

「え?」

「現実で。ふたりで」


 思わず正面から璽果を見た。

 死んだ珊瑚のように白化した目。

 表面に無数の穴が穿たれた眼球はしかし、僕の視線を受けて微動だにしない。


「……無理だよ」


 辛うじてそう言った。

 捧冠デフロックド。哺乳類の大量絶滅が引き起こした、未知のウイルスの大量感染。

 地球の支配者でなくなった僕たちはいまや、常在菌と獲得免疫のバリュエーションによって隔てられている。

 異なる免疫圏イミュスフィアに暮らす人どうしの接触は禁忌だ。それは当人どうしの――さらにはその家族や友人の命を、危険に晒すから。


 僕らは生まれた土地を出られない。彼女と出会えるのは、仮想空間の中だけだ。


「私たちは死なない」


 だが、璽果は目を逸らさない。


「幼児のクローン技術、意図的な発病と間引き、獲得免疫の集中と生得化……。知ってるでしょ? 世代を重ねた私たちの免疫システムはもう、無数に変異するウイルスにも対応できる。たとえ他の免疫圏イミュスフィアのものでも」

「大人たちはそうじゃないだろ」

「だから?」


 空気が震えた気がした。


「私が冒されたのは水晶体と骨髄だった。あいつらは骨髄を優先した。私の血液を紛い物に置き換えて、生きた血清として使うために。ねえ塒。見たんだよね?」


 僕は思い出す。

 朽ちた教室。赤黒い液体。

 それを浴びる恍惚の表情。

 璽果の欲望。


「ほんものの血。私たち以外の全てを台無しにする汚れた血。わかるよね、塒。理屈じゃない。衝動は理屈じゃないんだ。君もそうであるように」


 ああ。

 彼女は見逃してなんかいなかった。

 あのとき隠そうとしたイメージを。僕の欲望を。

 欠損。戻らないものへの憧れ。

 


「璽果」

「なに?」

「あのときの言葉、もう一度言ってくれる?」


 璽果は微笑む。


「……わかるよ、塒」


 手を伸ばし、仮想かりそめの爪先にそっと触れる。



 僕たちは理解しあえない。

 心は決して伝わらない。


 けれど。

 それでも繋がることが、人の希望だというのなら……。


「会いに行く」


 湧き上がるこの衝動もまた、きっと正しいに違いない。


「必ず会いに行くよ、璽果」




 月は天使のような輪を抱いて、僕たちふたりを照らしている。

 爪先はもう、疼かない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月は天使のような輪を抱いて 維嶋津 @Shin_Ishima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る