第四章第二節<玄汐>

 <洞>から出たイースがまず目にしたのは、崩れた建物だった。

 屋根が落ち、壁の一部が壊れて中が見える。そこには朽ちかけた調度品がちらりと見えただけだ。

 緩やかな坂道を降り、午後の日差しの下に出てきたイースは、同じような建物が無数にあることに気づいた。

 すぐ横の建物の入り口から中を覗くと、中はひどい有様だった。

 棚が倒れ、机や椅子だったものが壊れて散らばっていた。何かの破片もそこかしこにあるが、元が何だったのかは分からない。その上に埃が降り積もり、部屋全体が白っぽく見えていた。

「もう、誰もいないんですね……」

 何があったのだろう、と訝しむイース。

 振り返ると、残りの仲間たちもこちらに向かっているところだった。

「<玄汐くろしお>というやつだ」

 初めて聞く言葉だった。怪訝そうな顔をするイースを見て、トールヴァルドは続けた。


 <玄汐くろしお>というのは、<洞>の中にある力のようなものが地上へと溢れてくる現象を指す言葉だった。

 それが一体どのようなもので、何故起きるのかは全く分かっていない。

 とある聖職者は、<洞>の力が太陽の光の加護を求めて地表へと溢れるのだと主張し、太陽神への信仰を説いた。

 とある魔術師は、<洞>もまた生きているのだとして、力の奔流は人間が息を吐いたり排泄したりすることと同じと主張し、生命の神秘を説いた。

 これまでに幾度となく起きている<玄汐>だが、それがもたらす被害とは対照的に判明していることは限りなく少ない。

 まず、<玄汐>が起きる間隔は不定期だ。記録によれば、数年しか間がないときもあれば、百年以上起きないときもあった。無論、記録が間違っている、もしくは散逸している可能性もあったが、それしか頼るものはないのだ。

 そして一度<玄汐>が起きると、力に触れた大地は命を蝕む。土は黒い腐汁を滲ませるようになり、耐え難い悪臭を放つ。そこでは強い生命力を持つ草さえも育つことができず、当然ながら作物は枯れ果てた。

 それだけではなく、人々の間にも奇病が蔓延することとなった。

 皮膚に黒い斑点ができ、生きながら腐っていくような疼きが全身を包んだ。食事もできず、一度病にかかれば急激に弱っていく。そして最後は、残る体力で<洞>へと向かおうとしながら死んでいく。

 当然ながら、人々は<玄汐>が起きた場所からは移り住まなくてはならなくなった。その土地は呪われた土地とされ、二度と故郷に戻ることはできなくなっていった。

 最初のうちは、人々は<洞>の中に満ちた毒気が外に漏れ出ているせいだと考えていた。その毒気に触れた土は腐り、人々は病に苦しむのだと信じていた。

 しかし、<洞>に挑む人々が病にかかることはなかった。もし本当に<洞>には毒があるのだとしたら、武器を携え潜っていく者たちが倒れないのはおかしい。道に迷い、数日の間<洞>の中をさまよい続けた者でさえ、弱り果てた体が病に蝕まれることはなかった。

 そしてさらに奇妙なことは、<玄汐>による影響は限られた範囲でしか起きないということだった。それは決して腐る土地が狭いということではない。古い記録によれば、城下町一つが<玄汐>に冒されたこともあったと言う。だが、そこから少しでも離れれば、まるで何事もなかったような平和な場所となるのであった。

「この辺だと、西の町外れか……ここが飲まれたのは十五年くらい前のことだ」

 トールヴァルドは足元に転がる塀の欠片を蹴り飛ばしながら思い出しているようだった。

「長居はできんが、見ることも学び。少し回ってこい」

 ブラジェイに促され、イースは棄てられた町の路地を歩き出した。

 ちょうどいい休息だと思ったのか、トールヴァルドもまた、その場を離れて古い町並みへと姿を消していく。

「おい、一人で行かせて大丈夫なのかよ」

 ややしてから、十字槍を壁に立てかけたルイゾンが心配そうにブラジェイに向き直る。

「心配なら見に行ってやればよかろう」

 我関せず、とブラジェイは近くの石に腰かけてしまった。ルイゾンは少し迷ってから、小さく舌打ちをするとイースの通った道を小走りに駆けていった。


 先程教えられた話は、すぐには信じられないような内容だった。

 しかし、これだけの場所から人がいなくなっているのは事実だ。しかも、自分たちが暮らしている町のすぐ近くなのだ。

 町の中ということもあって、ブラジェイが話していた「腐った土」というものはどこにも見つからなかった。割れた石畳が続き、道の左右には大小さまざまな建物が並んでいる。遠くに見えるのは教会だろうか。

 耳が痛くなるほどの静寂が辺りを包んでいた。自分たちが住んでいる町のすぐ近くで、これだけの広さの場所を人々が棄てたのだ。<玄汐>がどのようにしてやってくるのかは聞きそびれてしまったが、人々はいそいそとこの場を離れたのだろう。

 イースはふと、通り過ぎかけた建物の中に入ってみた。

 別に特に理由があったわけではない。強いて言えば、それが周囲に並んでいる中で、一番大きなものだったからだ。

 壁は大きく崩れているため、外の光が建物の奥まで差し込んでいた。

 もとは酒場のようなところだったのだろうか、長い机や椅子の残骸が壁際にうず高く積まれていた。広い場所には崩れた石塊があちこちに散らばり、満足に歩ける場所はあまりない。間を縫うようにして奥にある扉の前まで来たところで、イースはふとあることに思い当たった。

 確か、トールヴァルドは十五年くらい前だと言っていた。

 扉や家具が朽ちるのは分かる。しかし、石で組んだ壁や天井までが

 扉を開けようとしていた手が止まった。そのときだった。

「止まれ」

 背後で声がした。

 聞き覚えの無い声だ。子供のような、少年の声だ。

 恐らく、年は然程変わらないだろう。状況が分からず、首だけを動かして横を向こう、とした。

 やおら襟首を掴まれた。そのまま前の壁に強い力で押し付けられる。

「動くなつっただろうが」

 視界の中に、一人の少年が入ってきた。

 予想通り、見知った顔ではなかった。実った麦のような色の髪の向こうから、刃物のような敵意を込めた瞳でイースを睨みつけている。顔の下半分は、染みだらけの布を巻き付けて隠している。

 背後で足音が聞こえる。帯の留め具を外され、短刀が奪われるのが分かった。

 イースには何が起きているのか理解ができなかった。自分が一体何をしたのだ。ここには誰もいなかった。この少年たちはどうやってここに入ってきた。見るからに、<洞>での戦闘を潜り抜けられるだけの装備ではないのに。

「お前、あいつらの仲間だろ」

 あいつら、というのが分からない。聞き返そうと声を出した時点で、押し付ける力が強くなった。胸を強く押されてるせいで息が満足にできない。

「三日待ってやる。その間に、あいつらの持ってる<神鋳>をなんでもいいから持ってこい」

 背後には少なくとも二人はいる。話しかけている奴で三人目。見えないところにはもっといるかもしれない。

 満足には使えないものの、武器は取られてしまった。今までにも戦闘にはほとんど参加してきていない。

 こいつらの言葉に従うしかないのか。

 従わなければ、倒れるまで殴られるか。

 厄介な連中に目をつけられてしまった。

 イースは視線だけで、ありもしない反撃の機会を探していた。

 

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深淵 不死鳥ふっちょ @futtyo

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