第2話 猿神

赤いガラス玉の様な目。


さっき、茂みに潜んでたのはこのサルなんだわ。

白い毛並みに赤い目、多分アルビノのサル。


クチャ、クチャ……。


サルが食いちぎった肉を咀嚼している。

口元から胸元にかけて返り血がべっとり着いて、より一層不気味にえる。


き、気持ち悪い……。

込み上がって来る吐き気をグッと我慢する。


二本足で立つそのサルは思いの外大きく見える。

背は私よりは小さくて小学生程度だけど、骨太で筋肉質な体躯。

とても戦って勝てる気がしない。

そもそも、ツキノワグマを無傷でたおせる相手に戦うと言う選択肢は無い。


そのサルが二本足で立ったまま、こっちにゆっくりと歩み寄って来る。

表情も無く、ただクチャクチャとクマの肉を咀嚼そしゃくしながら。


ど、どうしよう……。


たおしたクマにはもう興味が無い様。

たんに私を助けてくれた……なんて考えるのは都合が良すぎるわ。

狙ってた得物を横取りされそうだったから私を助けた……のかも……。


そ、そうだわ!


リュックのサイドポケットにチョコバーを二本入れてたはず。

ゆっくりと歩み寄るサルに視線を向けたまま、右手を廻してまさぐる様に取り出す。

その一本の封を開けてサルに差し出す。


「た、助けてくれて……アリガトウ……」

恐る恐る震える声で、そう小さく声を掛ける。


チョコバーに妙味を示したのか、赤いガラス玉の様な瞳をチョコバーに向け、顔を近付け匂いを嗅ぐ。

そして手に取って一口かじる。

どうやら気に入ってくれたみたい。

無表情だったサルが恍惚こうこつとした表情で、味わう様にチョコバーをかじってる。


野生の猿に餌を与えるなんて良く無い行為だけど、他に良いアイデアも無い。

教え子の生徒たちには見せられないわね……。


チョコバーに夢中に成っているサルに視線を向けたまま、その足元にもう一本のチョコバーを封を切らずにそっと置いて、ゆっくりとその場を立ち去る。


お願い、追って来ないで!


そう心で願いながら、一応はツキノワグマから助けてくれたその白いサルに軽く一礼すると、サルを刺激しない程度に足早に林道の出口へと向かう。

そして、十分距離を取って一度振り返り、追ってきてない事を確認すると体力の続く限り走る。


息が切れる……。

足が痛い……。

でも、休んでる余裕は無い……。


朦朧もうろうとした意識の中、視界にほこらが見えて来た。

ここ迄来ればもうすぐ出口。


ハァー、ハァー、ハァー……。

足を止め息を整える。


恐る恐る背後を確認する。

気配は無い。

雑木林を吹き抜ける心地いい風が、火照った体をクールダウンしてくれる。


たぶん、もう大丈夫……だと思う……。


ふと、何気なく視線が祠へと向く。

あれ?


お供えしたバナナが皮だけに成ってる。

少し視線を上に向けると、ヒヒガミサマと呼ばれているその道祖伸と目が合う。


何となくだけど、さっきの白いサルに似てる様な気が…………。

まあサルの姿なんて、どれも似た様なモノだし、石像だと色も分らない。

気のせいなんだろうけど、さっきのサルはヒヒガミサマで、お供え物をした私を助けてくれた……と、そう思う事にしよう……私の精神衛生上……。


そして、どうにかトレッキングコースの出口に辿り着く。

「ハァ~……。せっかくの休日なのに、怖い目に会っちゃったわ……」


空は、少し赤みがさしている。

「少し休憩したら、夕飯作らなくちゃ」




キャンプ場に戻ると、相変わらずキャンプ客は少ないけれど、それでも人の気配が有るのに救われた気分になる。

「喧騒を離れて一人に成りたくて一人キャンプに来たのに、おかしなモノね」


一応、食材は色々持ってきてたけど、何だか料理する気には成れない。

結局、非常食代わりに持ってきてたカップ麺とクーラーボックスで冷やしてたビールでお腹を満たす。


その後は焚き火の前でアウトドア用のリクライニングチェアに座って読書。

いつもは、焚き火を眺めながらボーっとするのが好きなんだけど、怖い事を思い出しそうに成って諦めた。


そして段々うとうとしてきた頃、不意に視線を感じて体を起こす。

「誰!?」


辺りを見回しても誰も居ない。

気のせいかしら……。


遠く離れて点在する他の二つのテントは既に、焚き火を消し消灯している。

私も火の始末をして、そろそろ寝よう。


ふと、背筋に冷たいものを感じる。

やっぱり、誰かに見られてる……気がする。


昼間に怖い事が有ったからトラウマに成っちゃって、そんな気がするだけかも知れないけど凄く不安に成って来た。

「とにかく、早く寝よう……」


焚き火の消火を確認した後、テントに入って寝袋に潜り込む。

やはり不安で、LEDランタンの灯りは点けたまま目を閉じる。


風が吹く度に茂みが騒めく音が気になる。

近くに何かが潜んでる気配がする。


「はぁ~……眠れそうに無いわね……」

もし、万が一、野生動物に襲われる様な事が有ったら、テント一枚じゃぁどうにも成らない。

そんな不安が、頭を離れない。


客が少ないとは言え、キャンプ場で野生動物に襲われるなんて、滅多にある事じゃ無い。

そうは分っていてもやっぱり不安だ。



結局、せっかくキャンプに来たのにテントで眠る事は諦めて、ミニバンの座席を倒して中に寝袋を持ち込む。

「ちょっと予定とは違う事に成っちゃったけど、オートキャンプって事にしとこう」


風に揺れる木々の騒めきはまだ少し気になるけど、それでも車の中という安心感はある。

これなら眠れそう……。




キキッキーーー。


深夜その甲高く耳障りな音に目を覚ます。

いったい何の音?


昼間の事が頭をよぎり、怖くて目を開けられない。

それでも……勇気を出して、そっと目を開く。


寝袋に入って寝転がったまま、車の左側の窓を見る。

テントの横に張ったタープが見えるだけ、他に何も無い。


ゆっくりと寝返りを打つように、右側も見る……。

「はぁ~……良かった、何も居ないじゃない」


でも……じゃあ、さっきの何かを引っ掻く様な音は何だったの?



キキッキーーーー。



再び聞こえたその音に、ハッと成って体を起こす。


すると……フロントガラスにペタリとへばりつく様にアレが……居た。

赤いガラス玉の様な目と視線が合う……。


「ひゃっ!」

思わず小さく悲鳴が漏れる。


キキッキーーーーー。

フロントガラスに爪を立て引っ掻く音。



そして……無表情だったアレの口元が……ニタリと……嫌らしく……歪んだ様に……見えた…………。





チュン♪ チュン♪

小鳥のさえずる音に目を覚ます。

朝日が車内に差し込む。


わたし……あのあと気を失って…………。

ハッと成って体を起こし車内を見渡す。

異常は無い。


フロントガラスにも、アレは居ない。


「ハァー、あれはきっと夢ね。まったく嫌な夢を見ちゃったわ」

さすがにもう怖い事なんか起こらない筈。


「さて、帰る準備の前に朝食よ」

昨日の夕食は結局カップ麺だけだったし、さすがに腹ペコ。


寝袋から這い出し、車外に出て一つ伸びをして軽くストレッチ。

「えっ! な、何なの……コレ…………」


ふと、目に入った私のミニバンの車体に無数の引っ掻き傷。

「じ、じゃあ……まさか……」

嫌な予感がして、車の前に回る。

そして、フロントガラスに顔を近付け良く見ると、手形が……それも明らかに人のモノでない、でも人に良く似た手形。


昨夜のは夢じゃ無かった………………。




あのキャンプから二月が経つ。

今のところ、私の身の回りにおかしな事は無い。


あれから、気になってネットで調べてみた。

ヒヒガミサマは判らなかったけれど、猿を祭る猿神信仰と言うのは昔から有ったみたい。

神様の使いで有ったり、山の神で有ったり。

その事自体は、気になる事でも無いんだけど、ただ……猿神は人間に害を為す妖怪としての側面もあると云う。


で、大抵共通する話しとしては、何かの見返りに女性の生贄いけにえを求めるとかそんな話。


それで私は思うの。

林道でツキノワグマから助けてくれた時は猿神として、深夜フロントガラスにへばりついていた時は妖怪として現れたのかもと。


もし、あの山の工事が始まり、あのほこらが撤去されてヒヒガミサマへの信仰が完全に失われるとすれば、神格しんかくを失ったヒヒガミは……。


クゥ~~ン。

「ごめんごめん♪ 何でも無いわよジョン♪」

ジョンがシベリアンハスキー特有のブルーの瞳を心配そうに向ける。


おもむろに、フードボウルにドッグフードを流し込むと、ジョンががっつく様に食べ始める。

「ふふふ、心配してたのはこっちかよ♪」

と、食事中のジョンの首元を撫で回す。


そう言えば、犬が猿神を退治する話があったわね。

「ジョン、もしもの時は頼りにしてるわね」

ワン♪

分ってか、そうで無いのか、小さく返事が返ってくる。


と、その時。


ザザッ。

庭の一角にある茂みが揺れる。

ジョンの青い瞳がその一点をにらみつける。

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ヒヒガミの杜 春古年 @baron_harkonnen

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