第2話

 サマンサはいつも俯いていた。

 子供の頃に遊びで登った木から落ちて、額に大きな傷が残ってしまったからだ。前髪で隠れる場所ではあるものの、顔を上げると乱れた髪の隙間から傷が見えてしまいそうで嫌だった。

 ……それが、サマンサの知られたくない秘密でありコンプレックスだった。


◆ ◇ ◆ ◇


「ねえ、サマンサ。コーヒー淹れて」


 毛足の長い上等なラグにクッションを抱いて寝転び、振り向きもせずにミミー・ミレニアがメイドに命令する。

 アンダーソン家当主の姪だという彼女は昼過ぎだというのにネグリジェのままで、芝居小屋の俳優の姿絵集を捲りながら、ビスケットを齧っている。


「ミミーお嬢様、そろそろお着替えになられては……」


 コーヒーを持ってきたメイドのサマンサがやんわりと促すと、


「はぁ? メイドのくせにあたしに指図する気? 伯父様に言いつけてやる!」


「し、失礼しました」


 強い剣幕のミミーに、サマンサは慌てて頭を下げる。

 天使のように愛らしい容姿のミミーの中身は悪魔だ。

 国外で働いているというミミーの両親は、多分彼女を持て余して、この屋敷に置いていったのだろう。

 彼女が来てからというもの、アンダーソン家は荒れた。

 まず、可愛いミミーにベタ甘な夫と息子に愛想を尽かし、当主夫人はサロンや習い事に没頭し家を空けることが多くなった。

 そして、歯止めの効かなくなったミミーの横柄さに、使用人も次々と辞めていった。

 本当はサマンサも辞めたかったのだが……顔の傷のせいで自信が持てず、転職を諦めこの屋敷に留まっていた。

 最盛期には十八人在籍していた使用人は、今や庭師と執事とサマンサの三人だけ。料理も洗濯も掃除も一人でこなさなければならないので、サマンサの手はあかぎれだらけだ。

 こっそりため息をついていると、


「うえっ、にがっ!」


 お嬢様の悪態が聞こえてきた。


「なにこれ? あたし、ミルクと砂糖たっぷりじゃないと飲めないっていったわよね?」


「は、はい。ですからいつもどおりにお入れして……」


「足りない」


 必死で言い訳するサマンサの前で、ミミーはコーヒーカップをひっくり返した。

 茶褐色の液体はラグにこぼれ落ち、世界地図のようなシミを作っていく。


「あ……!」


 サマンサは慌ててエプロンを外してこれ以上シミが広がぬよう押さえるが、コーヒーは良い香りを漂わせながら、真っ白な毛長兎の敷物を黒く染めていく。


「あーあ、あんたのせいよ。弁償しなくちゃね」


 この上なく愉快そうにミミーが嗤う。


「そんな……」


 このラグだけで、メイドの給金一年分はするのに。


「汚いから早く片付けてね。あ、新しいコーヒーも持ってきてよ」


 濡れたラグを避けて、今度はベッドでゴロゴロし出したお嬢様に、メイドは俯く。肩が震え、唇を噛んで我慢しても、涙があふれてしまう。


 ……もう、限界よ!


 サマンサが泣いて逃げ出そうとした……その時!


「やあ、愛しの従妹ミミー! 調子はどうだい!?」


 バンっ! と扉が開き、伯爵令息のリードが入ってきた。


「あ! お兄ちゃま。おかえりなさい」


 ベッドのミミーは一瞬で仰向けになってクッションに頭を落とし、シーツを首まで引き上げて儚げに微笑んだ。その手品師かくやな変わり身の速さに、サマンサは毎回感心してしまう。

 ……口の端にビスケットのカスがついているのはいただけないが。


「早かったのね。デートは楽しかった?」


「いや、今日のデートは中止だ。お前が病で辛く寂しい思いをしている時に、僕が楽しめるわけがないだろう」


 ベッドに腰掛け手を取るリードに、ミミーは瞳を潤ませる。


「ごめんなさい、お兄ちゃま。あたしの体が弱いばかりに」


「それは言わない約束だよ、ミミー」


「おにい……うっ!」


 感極まって笑顔になったタイミングで、ミミーは胸を押さえ、ゲホゲホと激しく咳き込みだした。


「だ、大丈夫か!? ミミー!」


 リードはオロオロしながら従妹の背中を撫でる。


「だ……大丈夫よ、リードお兄ちゃま。いつもの発作よ。少し休めば治るわ」


 ……なんの発作なのだか。

 ちょっとでも批判めいたことを言えば令息から罵倒されるのは目に見えているので、サマンサは今日も地蔵のように佇んでアンダーソン家の茶番劇を見守っていたが……。

 ――今回の演目には、スペシャルゲストが待っていた。


「ああ、可哀想なミミー。毎日辛い思いをして。でも……もう心配ないよ」


 ギュッと手を強く握る従兄の手に、彼女が「え?」と顔を上げた、瞬間。


「はーい! わたくしが参りましたよ!」


 またもや扉がバンッと開き、女性が入ってきた。ミミーの可愛らしさとはまた違った、凛とした美しさを持つ彼女は、立ち竦むサマンサに二つの箱を手渡した。


「リード様ったら足がお速いから、わたくし置いていかれてしまいましたわ。あ、これお土産のお菓子です。ご家族と使用人の皆様でお召し上がりください。ご当主にご挨拶したいのですが?」


 一気に捲し立てられ、サマンサはあわあわと答える。


「ええと、旦那様はお仕事で、奥様はサロンに行っています」


「ご不在ですの? それは残念ですわ。……あら?」


 闖入者は足元に転がっていたコーヒーカップを見つけて腰を屈めた。そして、カップの取っ手をつまんで口の中で何か呟くと……。ラグのシミになっていた黒茶の液体が蛇のようにスルスル動き、カップの中に戻った!


「はい、落ちてましたわよ」


 湯気の立つコーヒーの満ちたカップを自然な仕草でテーブルの置く彼女に、サマンサは驚愕に口をパクパクさせることしかできない。

 その奇跡の様子は、ベッドに居るアンダーソン従兄妹には見えていなかった。

 彼女はくるりと身を翻すと、花のように広がったスカートの裾をつまみ、優雅に一礼した。


「初めまして。わたくし、リード様の婚約者のカトレア・ピルチャーと申します。以後お見知りおきを」


「はぁ!?」


 ミミーは露骨に不快な声を上げてから、やべっと口を押さえた。


「お、お兄ちゃま! どうしてこの方を連れてきたの? あたし、女の人と仲良くするの苦手で……」


「ああ、解ってるよ。ミミーの可愛さに嫉妬した女達がいつも君をいじめるんだろう? でも大丈夫。カトレアが意地悪しても僕が君を守るから!」


 挨拶しかしていない初対面の女性に、酷い言い草だ。


「今日、カトレアに来てもらったのは、ミミーの為なんだ」


「あたしの?」


「そう! 彼女は治癒魔法の使い手なんだよ!」


 まるで自分の手柄のように得意満面なリードに、ミミーはヒエッとムンクの叫び顔で凍りついた。

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