第3章 深緑色のやさしい瞳

3-1

 窓から差し込んでくる陽光に頬をくすぐられ、メイはゆっくりと目を覚ました。横になったまま大きく伸びをする。


(よく寝たなあ……って)


 はっと起き上がると、ベッドには自分だけ。上体を起こして部屋を見回してみるが、エルの姿はどこにもない。


 昨日は何もかけずに寝たはずなのに、体には毛布がかけられていた。先に起きたエルの心遣いだろう。あとでお礼を言わなければならない。

 それにしても――。

 メイは膝を抱え込むようにして、勢いよく顔を伏せた。


(うう……ひどり熟睡してたなんて、恥ずかしい……!)


 建物の陰に位置する部屋であるため、朝日が入ってこなかったのだろう。昨日は問題なく起きられたというのに、よほど気を緩めてしまっていたようだ。


(寝顔変じゃなかったかな? よだれ垂れてない? いびきは? かいてなかったかな? ……ああ、もう! どんな顔をして挨拶すればいいんだろう!)


 誰かに正解を教えてもらいたい。先輩天使たちに助けを求めるべく、小瓶を手に取ろうとしたメイは固まった。


 首から提げていたはずの小瓶がない。『鍵』はあるというのに、ペンダントチェーンから小瓶羽根だけが消えてしまっているのだ。


(嘘……! どこにいったの!?)


 慌てて立ち上がり、毛布を整えてみる。眠っている間に落ちたのかもしれないと、ベッドの下を覗き込む。それでも、見つからない。


 すうっと、朝の陽気が冷めていく。

 崩れ落ちるようにして絨毯の上に座り込んだ時、ノックの音が響いた。


「お客さん、起きてるかい?」


 女将の声だ。扉を勢いよく開けて寝間姿のまま飛びついたメイに、彼女は「うわっ!」と素っ頓狂な声をあげた。


「そんなに慌てて……。そうか、そんなに……」

「わたしのっ、わたしの小瓶を知りませんか? 手のひらサイズのもので、中に大切なものが入ってるんです!」

「大切なもの?」


 はい、と頷いたメイは矢継ぎ早に続けた。


「天使の羽根です。身につけていたはずなのに、今確認したらなくて」


 口にしたあとでまずい発言だっただろうかと思ったが、女将に気にした様子はなかった。メイからそっと身を離すようにして、気の毒そうな表情を浮かべる。


「もしかして、勇者に謁見を申し込むつもりだったのかい? ……可哀想だけど、そりゃあスリの仕業だよ。今この島には、人の羽根を盗んで勇者に献上しようとする輩も集まってきてるっていうからね」

「そんな……」

「ちなみに。その小瓶、最後に見たんはいつなんだい?」

「最後……」


 記憶をたどる。この宿に来た日には確実にあった。エルにからかわれてベッドに倒れ込んだ時、ブラウスの襟元から飛び出したところを見たため間違いない。


(あれ……? 昨日は……どうだったっけ)


「……一昨日の晩には、確実に手元にありました。だけど、そのあとが思い出せなくて」


(いつも小まめに確認してるのに、昨日は触りもしなかったからだ。朝の着替えの時も、エルさんが起きないうちにって急いで済ませたし……夜だって……。ああ、どうして……お風呂で、あんなに羽根のことを考えていたのに……)


 女将が「そうか」と気遣わしげな声で呟いた。


「お客さん、昨日外に出てただろう? きっと街を歩いている間に……」

「だけど! わたし、小瓶をペンダントにしていて、服の下から出していないはずなんです! 羽根を持ってるなんて、ぱっと見てわからないかと」

「あたしゃ探偵じゃないから、はっきりしたことは言ってあげられないけど。……そうだねえ、島に入る前から、目を付けられていたって可能性は?」


 心臓が、どくんと嫌な音を立てた。もしかして、と背筋が凍る。


(一昨日の収集家……。あのあと、わたしを追って来たんじゃ)


 彼は、メイが羽根を持っていると知っていた。十分にあり得る話だ。

 ひとりでに、最悪な光景が思い浮かぶ。勇者に小瓶を献上し、したり顔で報奨金を手にする収集家の姿だ。小瓶には羽根が十数本は入っていたため、願いを叶えてもらうことだってできるかもしれない。


(そんなこと、させない!)


 メイは、寝間着姿のまま部屋を飛び出そうとした。その腕を、女将が慌てて掴む。


「待ちな! 若い女の子がそんな格好で外に出ちゃいけない! それに、お客さんに伝言を預かってるんだ。それで部屋を訪ねたんだよ」

「……伝言?」

「あの、風変わりな兄ちゃんからさ。『全部思い出した。もう一緒にはいられない、ごめん』だってさ。……しばらく前に、二人分の宿代を払って出て行ったよ」

「――え?」


 エルが、自分をおいて出て行った。


 予想もしなかったことだというのに、冷静な自分が一瞬で状況を理解してしまう。

 きっと、恋人のことを思い出したのだ。いてもたってもいられず、彼女を探すための旅に出たのだろう。


 昨日の段階では、メイを船着き場まで見送ってくれるという話だったというのに――。


 そこまで考えて、はっとした。彼を責めている自分に気づいたのだ。


(……昨日、エルさんの本当の幸せを祈った……それが叶ったんだから、喜ばないと……)


 ああ、本当に。自分はどうしようもない、寂しがり屋の泣き虫だ。

 メイはこぼれ落ちそうになった涙を必死にこらえながら、下手くそな笑顔を浮かべた。


「伝言、ありがとうございます。準備を整えて、わたしもすぐに出ていきますね」

「……そうかい? だけど、顔色が悪いよ? 少し休んだほうがいいんじゃ……」

「大丈夫です。お世話になりました」


 今できる精いっぱいの笑顔を浮かべたまま女将を見送ると、メイは急ぎブラウスに着替えスカートを履いた。中身の少ない旅行鞄を肩にかけ、息も整えずに階段を駆け下りていく。

 ちょうど朝食の配膳をしていた女将の背中に別れを告げ、メイは宿を飛び出した。


 エルのことは忘れよう。今は、羽根のことだけを考えなければ。


(出航時間までは、まだ時間がある。あの収集家を探そう……!)


 ジュジュがいるという土地には、美しい海があるという。そのため、そこに天使たちの魂そのものである羽根を還そうと考えていたのだ。

 人の物を奪って私欲を満たそうとする汚い人間に、それを邪魔されるなんてあってはならない。「彼女たち」は、いつだってメイのそばにいてくれた。――言葉なくとも、大切な家族なのだから。



「はあ……はあ……っ」


 金色の髪を大きく揺らしながら、朝だというのにすでに賑わう街を駆け抜けていく。

 あてずっぽうに探しても意味がない。向かう先は、収集家が必ず足を運ぶ勇者城だ。


(まだ献上は済んでないよね? 間に合うよね? もし姿が見当たらなかったら、兵士に聞いてみて……それで……) 


「――え、なになに?」


 息を整えようと一瞬だけ足を止めたメイの横を、観光客だと思われる女性たちが足早に通り過ぎていく。


「向こうで、女の子がガラの悪い男に絡まれてるんだって。なんでも、天使信仰者らしいよ」

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