2-4

 *   *


 約束通り別行動で情報を集め、二人が宿に戻ったのは空が藍色に染まってからだった。


(まさか、本当にジュジュさんの手がかりが見つかるなんて!)


 入浴を終えた脱衣所にて。

 亜麻布の白い寝間着姿になったメイは、濡れた髪をタオルで包み込むようにして拭きながら、つい数時間前の出来事について思い返していた。


 夕暮れ時に合流するなり、エルから「しゃくやけど。メイちゃんが喜ぶ情報、手に入ったで」と伝えられたのだ。

 なんでも、ここから遠く離れた東の地――メイが元々向かう予定だった地域で、ジュジュと思われる男性を見たという観光客がいたらしい。


 そのため、メイは明日の朝に出る定期船でビビアナ半島を発つことにした。舟券もすでに手元にある。荷物もまとめ終えたし、準備は万全だ。


(ステラちゃん……)


 目を見開き息絶えていた、愛しい友人の姿を強く思い描く。


(もうすぐだよ。必ずブレスレットを届けるからね)


 肌身はずさず身につけてきたブレスレットとの別れがすぐそこまで迫っている。

 そう思うと緊張してきて、メイは大きく深呼吸をしてから脱衣所を出た。夜であるため、足音を響かせないように気をつけながら、ひんやりとした空気に包まれた廊下を進んでいく。



 向かう先である借り部屋には、今、酔いの回ったエルがいる。

 宿に戻る前に、酒場に寄ったのだ。目的はエルの記憶の手がかりを探ることで、一緒にどうかと誘われたメイは、開放的な気分になっていたこともあり同行することにした。とはいえ、できることはなにもなく、初対面の男性たちとすぐに意気投合して上機嫌で酒をあおるエルの隣で、相槌を打ちながらおつまみをちびちびと食べていただけだったのだが。


 そんな中、男性たちの話題の大半は勇者ブルネットについてで、賛否両論様々な意見が飛び交っていた。

 好みの女性を次々と城に連れ込んでは住まわせているという噂や、行方不明の兵士――脱走兵だと考えられている――がでるほど厳しい戒律をつくっているという噂、魔王を倒したことへの素直な称賛など。

 しかし、その中で、一番印象に残ったのは――。


(最近では、天使の羽根をたくさん献上すれば、報酬だけじゃなくて、謁見の末に願いも叶えてもらえるらしい……。まあ、ものによるらしいけどって、そう言ってた)


 そのため、羽根を必死になって集めようとしている野心家が急増しているのだとか。もしかしたら、昨日メイを襲おうとした収集家にも、その狙いがあったのかもしれない。

 状況はわかったものの、メイは小さな引っかかりを覚えた。


(なんだか、やりすぎな気がする)


 勇者はもともと悪魔退治を生業にして旅をしており、人民を多く救った功労者として王から城に招かれるほどの手腕の持ち主だった。そして登城を目前にしたある日、創造主から「これで人間界を救いなさい」と啓示を受け、魔王の息の根を止める特別な力を秘めた『救いの剣』を与えられたのだという。


 魔王は人間に巣くうことでその本人に成り代わるわざを持っていたとされるが、『救いの剣』の力か、それとも創造主から授けられた別の力だったのか、勇者にはそれを見破ることができた。

 そのため、側近に成り代わった魔王が王を殺害しようとしている場面に遭遇したとき、瞬時に真実を見抜き、止めを刺すことができたのだ。


 そういった経緯があり、自らの命を救った彼に対する王からの寵愛は深い。

 島と城を与えられたことからもわかるように、巨額の資産を手にしていることは間違いないだろう。そのため湯水のように財産を使えること自体はおかしくないが――。


「ああ、おやすみなさい」


 カウンターで帳簿を付けていた女将が挨拶してくれたため、笑顔を返してコップ一杯の水をもらう。それを手に階段を上がりはじめた。


(エルさん、大丈夫かな)


 部屋を出る時、彼は椅子に座って「いってらっしゃーい」とひらひら手を振りながら見送ってくれた。舌が上手く回っていなかったし、酔ってることはたしかだった。

 彼は明日以降もビビアナ半島に残ると言っており、「メイちゃんと別れると思うと、飲まずにいられない……!」と男性たちが不憫がるほどの落ち込みようで酒をあおっていたのだ。

 それならば、情報を明かさなければよかったというのに――。


(本当に、優しい人……)


「……エルさーん?」


 そっと扉を開け、名前を呼ぶ。室内に小さく足を踏み入れたメイは、はたと立ち止まった。

 エルが、ぐったりとベッドに横たわっているのだ。

 それを見た瞬間、さあっと血の気が引いた。コップをテーブルに置き、慌てて駆け寄る。


(酔いつぶれているだけだったら、まだいい。もし、また意識を失って倒れているんだとしたら……!)


エルはこちらに背を向けて、寝返りを打つようにして横たわっている。ためらいなくベットに乗ったメイは、四つん這いになって彼のすぐ隣まで。


「――っ、エルさん!?」


 肩を強めに揺すると、聞こえてきたのは規則正しい寝息だった。酒の匂いがする。

 メイは、はあっと脱力した。


(よかった……)


 そのままベッドから降りようとしたというのに、なぜだか縫いつけられたように動けない。

 目の前にある顔に、自然と手が伸びる。左半分を覆う火傷の跡に、指先で本当に軽く触れた。思っていたよりも柔らかくて、温かい。

 天使狩り以来、人間に自分から触れたのは初めてだ。


(……きっと、痛かったよね。怖かったよね)


 彼は、どのような人生を歩んできたのだろう。全て思い出した時に喜べるような記憶であってほしいと、心から願う。


 そして、視線は目元を覆う前髪へと。ちょっとだけ魔が差した。


(瞳を見てみたい)


 ほんの一瞬だけ、そう自分に言い訳をしながら背中越しにそろりと手を伸ばす。それが髪に触れる寸前で――。


「何してるん?」

「!?」


 体をこちらに向けたエルに手首を掴まれ、強い力で引き寄せられた。思っていたよりも厚い胸板に、顔を押しつけられる。

 寝間着が薄い素材であるため、体温が直に伝わってきているように感じてしまう。

 熱い。熱くて、死んでしまいそうだ。


「は、はは、離してくださいっ!」


 その答えとでも言うように、メイの背中に腕が回った。ぎゅっときつく抱きしめられる。


(どどど、どうしよう! なに、この状況っ!)


 焦るあまり、目の前がちかちかと明滅する。

 少しだけ力が緩んだかと思うと、ぐっと顔が近づいた。

 前髪が小さく揺れる。けれど、惜しいところで瞳は見えない。


「そんなにじっと見つめて。悪い子やな」


 ふっと、薄い唇が悪戯に緩んだ。なんだか、やけに色っぽい。

 思考が停止して、考えていたことが全部吹き飛ぶ。


「俺のこと、誘っとるん?」

「さ、さそ……!? そ、そんなんじゃ――」


(だめ! もう、無理!)


 呼吸すらままならない。意識を今にも手放しそうになっていると、今度はそっと抱きしめられた。


「……ほんと、調子狂う」


 耳元で囁かれた声は、弱々しい。


「え?」

「俺は、優しくなんかない。俺は――」


 胸に抱かれたままの体勢で、彼の言葉が止まった。


「エルさん?」


 問いかけてみたけれど、返事はない。


「ええと……あの」


 すう、と耳元で呼吸の音が聞こえてきた。


(え?)


 嫌な予感がして、メイは身じろぎをするようにしてどうにかエルの顔を覗き込んだ。そして、絶句する。


(う、嘘! 寝てる……!)


「エルさん! エルさんってば!」


 必死に声をあげるが、彼はぴくりとも動かない。拘束を解いてくれる気配もまるでない。


(どうしよう。このまま一晩過ごすなんて、無理だよ……心臓が持たない)


「エルさん、起きてくださ――」


 顔を上げると、火傷の跡が視界いっぱいに広がる。無理矢理逃れようとしていたメイは、ぴたりと動きを止めた。


(エルさんは、これからどんな未来を歩んでいくんだろう。……わたしは、それを知ることができないままお別れなんだな)


 エルがこの島に残ると言ったとき。ほっとしなければいけなかったというのに、胸をかすめたのは寂しさだった。


(これ以上、一緒にいちゃいけないのにね)


 規則正しい寝息と、心臓の音が耳を打つ。今この部屋に流れている空気は、とてもゆっくりで、泣きたくなるほどやさしい。

 今背中に回っている腕。その右手に光る指輪を思い出す。


(……今この瞬間も、エルさんを探している女性がいるのかもしれない。もしそうなら、いつか再会して、結ばれてほしいな)


 チクリと胸が痛んだのは、きっと気のせいだ。


 エルはいつも明るくて、頼りないメイの手を引いて力強く導いてくれた。 反応に困る行動をする時もあるけれど、一緒にいると楽しくて。笑ってくれると嬉しい。

 人間界に来てからこれほど近しい距離になったのは彼が初めてだから、本当の幸せを祈りたい。


(だけど、せめて今だけ。……わたしが、エルさんの安らぎを守ってもいいよね)


 全身の力をふっと抜くと、熱いくらいの体温が体中に広がっていく。

 とくん、とくんと鳴る心臓の音。自分のものなのか、エルのものなのかわからない。


「おやすみなさい」


 そう囁きかけ、メイは、そっと目を閉じた。

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