第十三話

 西の国境で、交代しながら一晩中空を見上げ続けていた騎兵たちは、疲労の色を滲ませながらも少しばかり安堵していた。

 あれから大穴は現れず、静かな朝を迎えられたことに、みな一様に胸を撫でおろしていた。だが、その安堵も束の間、朝日と共にやって来た魔物達に、一気に辺りが喧騒に包まれる。第一報は発煙弾だった。大きな音と共に空に向かって放たれた灰色の煙に、騎兵たちが直ぐに配置についた。およそ百名からなる部隊が、一晩で築いた小さな砦を囲み、それぞれ持ち場に散っていく。


「一体どこから?」


 誰かの呟きが零れた。つい先ほどまでは全くと言っていいほどその気配は感じられなかった。まるで突如湧いて出て来たような魔物の襲来に、その場にいた全員が戦慄する。発煙弾の上がった国境の先にある荒野に目を向け、武器を構えた。

 魔物の数がどれほどいるのか分からず、また姿も見えないが、大穴から出現した魔物でなければ勝機はあると、部隊長が皆を奮い立たせた。だが、その期待は大きく外れてしまう。


「もう、すぐ目の前です! 数にして百……いや、それ以上!」


 伝令係が騎兵たちの背後から駆け寄る。そのことを不思議に思い、部隊長が振り返った。


「魔物は国境の外からではなく、内側からやって来ます!」


 その言葉と共に、騎兵たちの目に土煙が映る。物凄い速度で近づいて来る土煙に、騎兵たちは戦いた。

 発煙弾は確かに国境の外側から上がっていた。だからこそ、荒野に向けて前衛を出していた。だが実際は後方に広がる森の方に魔物がいると言う。後ろから来た魔物に真っ先に対峙するのは、後衛の魔術師達になる。直ぐに結界を展開し、攻撃魔法を繰り出すも、大穴から出て来た魔物には全く効果がない。そればかりか、あっと言う間に結界を破られ、隊の中程にまで入り込まれてしまう。


「怯むな! 戦え!」


 恐慌に陥る隊を統率しようと部隊長が声を張り上げるも、次々と蹂躙されていく様に騎兵たちは逃げ出した。だがそこに、救世主が現れる。正に、救い主だ。


「エグバート、結界を張れ!」


 突如何もないところから現れた救世主はそう短く告げると、騎兵たちの身体が仄かに赤く光り出した。その光がエグバートによる結界だと知っている救世主は、掌から剣を取り出す。救世主の魔力のオーラと共に現れた剣は、大柄な救世主の身長とほぼ同じ大きさだった。魔物の群れがその大きな魔力に反応し、救世主へと一斉に突撃していく。それを一太刀で薙ぎ払うと、剣を振ったことによる衝撃波で魔物と一緒に小さな砦も粉々に吹き飛んでしまった。その後も凄まじい剣圧で魔物を凌駕し、エグバートの結界のお陰で騎士隊には被害は及ばず、事は直ぐに収束した。


「終わったか?」

「はい。私は負傷者の手当てに向かいます」


 辺りを見渡し、立っている魔物がいないことを確認し、エグバートに確認を取る。残念なことに、救世主には魔物を感知する能力が皆無な為、魔物が生きているのか死んでいるのかの判断が出来ない。なので常にエグバートに確認を取らなければならなかった。


「元帥、ご足労頂き感謝します!」


 片足を引き摺りながら救世主の許にやって来た部隊長に、「おう」と短く返事を返す。


「遅くなっちまったな……」

「いえ、来て頂けただけで十分です」


 負傷者の多さに、救世主が顔を顰めた。直ぐそばで待機していたにも関わらず、出遅れたことに申し訳ないという気持ちを吐き出した。


「しかし、これだけの魔物の数なのに、こちらも全く気配を察知出来なかったことに驚いています」


 部隊長の言葉に、救世主はそうなのか?と首を傾げた。自分自身が魔物の探査能力が低いために、そういった事情が分からずにいたせいもあるが、これは相当に厄介だと溜息を吐きたくなった。


「ああ、こいつらは大穴から出て来た魔物だからな。それなりに気配を消したり、隠密魔法みたいな何かが使えるんだろうよ。実際、大穴から出て来た魔物は通常の魔物より強いってことしか判ってねえしな」

「確かに……」

「あれか? 何匹か生け捕りにして研究機関にでも送るか?」

「そっ、それはやめた方がいいかと思います!」


 救世主の物言いに、部隊長が青い顔で強く否定した。

 救世主以外、太刀打ちの出来ない魔物を唯の研究員が扱える筈もないと、思いっきり首を横に振った。そんな部隊長に救世主は、「傷に響くぞ」と呑気に言葉をかけていた。

 そのあと救世主は、一旦隊を離れ、まだ魔物が辺りにいないか確認するために巡回に出る旨をエグバートに伝えた。一緒に行こうと立ち上がったエグバートに、救世主は負傷者の手当てを優先させ、一人で巡回へと向かった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 昼近くになり、西の国境はずいぶんと落ち着きを取り戻していた。魔物の死骸は粗方燃やされ、砦の残骸も片付けられていることに、救世主は直に撤退だろうと息を吐く。

 国境より少し離れた場所には昼食のための炊き出しも始まっていた。それを目にした救世主はもう昼なのかと目を瞠る。そして直ぐに懐中時計を取り出し時間を確認した。幸いなことにまだ正午にはなっていなかった。そのことにホッと胸を撫でおろす。だが、流石に今抜け出すことは出来ないだろうと考えた。

 セラフィーナの顔がふと浮かぶ。どうにかここを抜け出して、学園に行けないものかと救世主は考えた。だが何も良い案が浮かばないことに、ただただ項垂れる。


「お疲れ様です、元帥。どうでしたか?」

「ああ、特には。今朝の襲撃以外、魔物の姿はなかったな」


 戻って来た救世主の姿を認め、エグバートが声を掛けると、特に収穫がなかったことを告げられた。救世主の報告に、この一帯には魔物がもういないのだということが判り、部隊にも安堵の色が浮かぶ。それなのに、救世主の表情は優れない。そればかりか既に昼食を食べ始めている騎兵たちに目を向けながら、救世主はそわそわと落ち着きのない様子を見せた。それに不審を抱いたエグバートが、疑問を投げかける。


「どうかしましたか?」

「あー、いや……」


 歯切れの悪い返事に、昨日の救世主の態度が重なった。西の国境からの救援要請の際にも同じように煮え切らい態度を見せていた。そこでエグバートは今日、救世主には何か用事があったのではないかと勘繰った。だが、救世主の側近になって二年以上経つが、こんなことは初めてだった。


「元帥、魔物は見当たらないとのことですので、一部を除き、撤退命令を出して頂けませんか?」

「ああ、そうだな。怪我人も多いし、撤退してもいいだろう」

「では、もう既に昼時ですし、お疲れでしょうから一度宿舎で休まれたら如何ですか? あちらの食堂でも昼食は摂れますし、こちらはもう昼食を摂ったら一部を除き、撤退することにしますから」

「お、おう。そうか。じゃあ、そうさせてもらおう」


 エグバートの提案に、救世主は飛びついた。だが、一つ懸念があった。


「はい。ではそのように、部隊長にも伝えておきます」

「ああ……あー、湯浴みって、今の時間、出来るのか?」


 自分の軍服を見て、救世主が小さく言葉を零す。魔物の血で汚れた軍服を見て、眉を寄せる救世主が、エグバーには酷く情けなく見えた。その言葉と表情にエグバートは確信した。やはり、誰かに会う用事があるのだと。


「残念ながら、朝と夜しか湯殿は開いていません」

「……そうか」


 項垂れる救世主に、エグバートはひとつ笑みを零し、「失礼します」と断りを入れて救世主の胸元に手を翳した。淡い金色の光が救世主を包み込み、あっと言う間に軍服の汚れが落ちていく。軍服だけでなく、身体の汚れも落とされたことに、救世主は上機嫌に笑顔を見せる。


「おお、便利だな、お前」

「元帥も、もう少し魔力を抑えられれば、簡単に出来るのですが……」


 道具扱いされたことを怒るでもなく、エグバートは救世主に苦笑いをした。強すぎる救世主の魔力では、軍服ごと消滅させてしまうだろうと、それを想像しつい笑みが零れてしまう。


「では元帥、直ぐに招集がかかるかもしれませんが、それまではゆっくり休んでください」

「おう」


 そう返事をしてから、救世主は上機嫌のまま、音もなく転移魔法でその場を後にした。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 セラフィーナはいつもの椅子に座り、いつものように小さな弁当箱を広げていた。

小さな口に一口食事を運び、そっと前方の茂みに目を向ける。そこには勿論、木々や草花の緑以外は何もなく、思わずセラフィーナは小さな溜息を零した。

 連日のように昼時に救世主が現れることに、ひょっとしたら今日も来るのではないかと、チラチラと茂みに目を向けては残念そうに溜息を零していた。

 まだお昼になったばかりだし、初めてこの裏庭に来た時にはお昼休みが半分ほど過ぎたあたりだったと、セラフィーナはもしかしたらとまたチラチラと茂みに目を向け溜息を吐いた。


 がさりっ、その音と共にパッと顔を上げたセラフィーナは前回同様、小さく笑みを零し、「救世主様」と声を零した。少しの緊張と弾む心に気付かぬまま、セラフィーナはその場に立ち上がり、腰を折った。


「よう」


 短く声を掛け、近づいて来る救世主にセラフィーナは顔を上げ、「ごきげんよう、救世主様」と柔らかく声を掛ける。その表情に救世主は驚きはしなかったが、また昨日とは違ったずいぶん好意的な表情に少しばかり照れ臭くなった。


「悪い、今日はちょっと急いでてよ。あんま長居はできねぇんだ」


 セラフィーナとの距離を縮めながらそう断りを入れる救世主に、セラフィーナはきょとんとしてしまう。


「何か、あったのですか?」

「ああ、大穴が出現した」


 さらりと返された思いもよらない言葉に、セラフィーナは驚き、固まった。


「……大穴が……」


 呟くように反芻するセラフィーナに、慌てて救世主が安心させなければと言葉を返す。


「ああ、大丈夫だ。もう塞いだ。二つともな」


 その言葉に、セラフィーナはまたも驚き、今度は震えるように片腕で自身を抱きしめた。


「二つも……」


 だが救世主の気持ちとは裏腹に、余計に怖がらせてしまったことに、益々焦り出した。その救世主の心配も他所に、青い顔をするセラフィーナはそれでも何とか言葉を絞り出した。


「……それは……大変でございましたね。お怪我など、されておりませんか?」


 青い顔のまま、自分の心配をするセラフィーナに、救世主は「ああ」と顔を背けながらも笑みを零す。普段ならば、この俺が怪我なんかするかと一蹴するところだが、今は素直にその心配を受け止め、何故かまた照れ臭くなった。その感情が何なのか、未だ救世主は気づかないでいた。


「しばらく、ここにも来れねぇ」


 酷く残念そうに言う救世主に、セラフィーナも思わず悲し気な表情をした。そして、救世主はセラフィーナの父親、ジョナスの顔を思い浮かべた。精霊族との関係を、セラフィーナに聞くべきかどうか逡巡する。だが、薬学部の職員たちとジョナスの間柄がとても良好だと勘違いしていたセラフィーナに、精霊族との関係を聞いたところで、また勘違いした回答が返って来ないとも限らないと思い、断念する。国を出るまでにまだ半年近くあるということが、救世主の焦りを緩和した。だが、救世主はまだ知らなかった。大穴が開いた、本当の理由を。



「明日は、学園がお休みなので……」


 明日は会えなくても、またいつでも会いに来て欲しい、そういった気持ちを込めて口に出した言葉を、セラフィーナは口を噤むことで直ぐに止めた。自分は何を言おうとしていたのかと、急に恥ずかしかが込み上げた。救世主がここに来る理由は、親睦を深めるためではなく、フランセスの側から遠ざけようとしているのだと思い至り、ギュッと唇を引き結んだ。


「そうか、明日は休みか。じゃあまた今度、落ち着いたら顔を出す」


 まるでセラフィーナの心の要望に応えるように軽く返された言葉に、セラフィーナは目を瞠る。それでも、本来の救世主の目的を思い出してしまったセラフィーナは困ったような笑顔を救世主に向けてしまう。自分をフランセスから遠ざけるため、そう心で呟き、感情が冷えていった。


「なんだよ、嫌なのかよ」

「えっ! いえ、まさか……その、そういうわけではなくて……」


 拗ねたように言う救世主に、ほんの少し、冷えた心が温かくなる。だがそれでも、と思いながら、いっそのことここへ来てくれる理由を聞いしまおうかと思い始める。  まだほんの少し魔力が残っていたせいもあり、その強く思った心の声は、傀儡魔法により気付けば声となって救世主へと問いかけていた。


「何故、いつもここへ来て下さるのか……その……気になってしまって」


 思わず、焦りが先に来たセラフィーナは、直ぐに口元に手をやった。これ以上余計なことを言わないようにと。それでも、心のどこかで期待してしまう。判り切ってはいるものの、もし他の理由からだったらと。そんな筈はある訳ないのと、自嘲しながら。だがその質問は、救世主を大いに慌てさせた。


「そりゃあ、あれだ……なんだ……なんかあれだ……顔が見たいっつうかよ……話したい……っつうかよ……なんかあれだ、そんななんかだ」


 組んだ腕を肩ごと忙しなく動かし、要領を得ないそんな救世主の言葉に、何故かセラフィーナは納得してしまっていた。自分自身も、全く同じ気持ちを持っていたのだと、たった今気が付き、思わずといった感じで心からの笑みを救世主へと向けていた。


「私も、同じです」


 綺麗にそう笑ったセラフィーナに、救世主の動きが止まる。余りにもその美しい微笑みに、救世主はしばし見惚れてしまっていた。だが、ハッと我に返る。見惚れていたことを自覚し、また狼狽えた。


「お、おう、そうか! そいつは良かった。とにかく良かった」


 何故か急に慌て出した救世主に、セラフィーナは首を傾げる。その仕草一つとっても救世主には眩しく思えて、益々狼狽えてしまっていた。このままでは醜態を晒してしまうと悟った救世主は、堪らずこの場を早々に去ることを決意する。だがその決意とは裏腹に、もっと話がしたいという自身の気持ちも湧き出て来る。それを断ち切るように少し大きめの声を出し、救世主はセラフィーナの顔を見ないように心がけ、言葉を告げる。断腸の思いで。


「じゃあな。落ち着いたら、また来る」


 そう言って、救世主は転移魔法でその場を去った。


 さっきまで救世主のいた場所を見つめ、セラフィーナは寂しさを覚える。その感情が何なのか、セラフィーナもまた気づかない。


「大穴が、二つも……」


 小さく呟かれた言葉は、震えていた。


「早くお母様に知らせないと……」


 ギュッと手を握り込み、まるで痛みを堪えるようにセラフィーナは目を閉じた。

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