人として軸がぶれている

 その日あたしはいつものネットカフェのいつもブースで、ざっと一万文字分くらい、焼肉にして十回分くらいの原稿に追われていた。焼肉と言っても叙々苑のではないが、あたし基準では太い仕事なのは間違いない。というか、現状続いている中ではこれが一番の太客で、この客が切れたら冗談でもフリーライターと名乗るのは辛くなる。つまり大事な客先からの仕事をしていたのである。


 あまりこの言い方はしたくないのだが事実上嬢とライターの両輪で働いている以上、店のシフトは当然前後数日空けていた。しかしその日はそれなのに突然、生イチゴにゃんにゃん(所属の店)から電話がかかってきたのであたしは驚いた。


「あ、はい。モヨコですが。今日は非番のはずですけど……え、どうしてもモヨコさんを指名したいっていう客がいる? 他の日にしてもらうわけには……いかない? どうしても今日がいい……? 誰です? ああ、この間の…………」


 あたしは真剣に悩んだ。締め切りは目前だ。今からデリヘルの仕事で出勤するなら、締め切りをぶっちぎるしかないだろう。それはもちろん当該の仕事のクライアントとの関係の深刻な悪化をもたらすであろうし、あたしのライターとしての死を意味しかねない。


 儲からないとはいえ、いちおう「自分はただの風俗嬢じゃない、本当はライターなのだ」と思い込むことで、なんとか自分のプライドとか精神的なそういうもろもろのバランスを取っているのである。伊達と酔狂だけでライターごっこをしているわけではないのだ。


 とはいえ。


 あの客は、金を持っていた。


 巨額の現金を。


 たぶん、のあるカネだろう。ということは、何かでかいネタ、金脈に繋がっているのかもしれない。あの男自体が。


 興味はないわけではなかった。一介の風俗嬢としてではなく、堕ちたり腐ったりと言えどもルポライターの端くれとしての矜持きょうじが、うずく。


 結論からいえば、私は男の誘いを断り、再びネットカフェのブースの中であぐらをかいて原稿に向かった。ただ、すっぱりと断ったかというと微妙である。


 例の男……自称‟ケンジ”氏には、店長から丁重な謝罪をしてもらって、別の日に私の予約を入れてもらった。今日は無理だがその日に特別サービスをはずみます、ということで話をつけてもらったのである。店にはもちろん、「太客だ」という一報は入れてある。ケースいっぱいに怪しげな札束を詰め込んでホテルの部屋に転がしている、なんてことはあたしだけが知る秘密だが。


 もっとも別の日といっても、「なるべく最短で」というので、翌朝にしてもらった。うちの店は24時間営業だから、早朝だろうが何だろうがやっている。つまり、今格闘している原稿が上がり次第、あたしはサウナで一汗流して(さすがにこんなときはネットカフェのシャワー以外の場所も使う)、身体を磨いてケンジうじのもとに馳せ参じるという手筈だ。


 さて。そんなこんなしている間に、原稿は上がった。校正もした。送信。速やかに、外出である。


 深夜の歌舞伎町を女一人で歩くのは危険ではないかとよく知人などには言われるが、深夜はともかく、この時間になると暗黒街も平和なものである。


 そこここに転がっている酔客であった成れの果て。気力尽き声も枯れ果て、でもまだ頑張っているポン引き。それを東の空から見下ろすギラギラとした朝日。早暁の歌舞伎町は、ある意味深夜のそれよりもなおいっそうの混沌に包まれた、ある意味で愛おしくすらある人間臭さに充溢した世界なのだ。


 と。ここの通りを抜ければ24時間やってる女性専用サウナがある、というところまで来たときに。


 喧噪が聴こえた。


 何が起こってるのかと思ったら、ストリートファイトが展開されていた。


 片方は、明らかにこのあたりをねぐらにしている壮年のホームレスだ。汚いが、意外と頑健そうな身体で、子供の喧嘩ではない、ちゃんとファイトスタイルを取っている。格闘技経験者のようだ。


 もう片方は……


 知っている顔だった。ケンジ氏じゃねーか。人を呼びつけておいて(予約の時間までまだだいぶあるとはいえ)何をやっているんだ。


 ホームレスが衰えたりとはいえども格闘技経験者らしい動きを見せるのに対し、ケンジ氏の方は若くて健康だというだけで、素人であるらしかった。で、もろもろの加算と減算の末、結果的には割といい勝負になっていた。で、それを周囲の、酔っ払い切っていない連中とか、別のホームレスとか、通りすがりの不良少年とかがはやしている。


 嗚呼、アンダーグラウンド・サーチ・ライ。なんという、汚れて輝く命の横溢おういつする世界か。


 と、ふと、ケンジ氏の目があたしの方を見た。気付かれたか? こっちはいまノーメイクだから、こないだ会った時の印象からだけでは簡単には分からないはずだが。


 とはいえ、巻き込まれてはかなわないので、あたしは足早にその場を通り過ぎ、予定通りサウナへと向かった。で、朝の六時ちょい、ケンジ氏のホテルの部屋へ。こないだとは別のホテルだった。だが、ホテルを転々としているのだろうか。気になる。


 さて、部屋に入るなり、こないだとは様子が違った。


 まず、例のアタッシュケースだが、ツインのベッドの片方の上にどーんと開帳されている。うわぁ、いくらあるんだこれ。そしてケンジ氏は言った。ストリートファイトの事などはおくびにも出さない。


「生で本番したい。いくら要る?」

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