私の彼氏にならない?

 目を覚ますと、インターフォンが鳴っていた。


 ぬすっと起き上がり、時計を見る。午後四時半。双葉も母さんも父さんもまだ帰ってきていないようだ。インターフォンの画面で来訪者の姿を確認する。セーラー服を着ていた。


「りん?」


 心臓がどくりと跳ねた。


 呼んでないのに、どうして?


 とりあえず玄関へと向かう。口元のあざを隠すために、靴箱の上に常備してあるマスクをつけてから扉を開けた。冬の凶暴な冷気とともに家の中に入ってきた声は、白い息に包まれていた。


「よ、風邪はどう?」


 りんは、中学生とは思えないほど大人びた顔の下半分をブラウンのマフラーに埋めていた。程よく膨らんでいる胸元には、真っ赤なリボンがついている。


「あ、ああ。だいぶよくなったかも」


 そういや、風邪で休んでることになってるんだったな。


「そっか。ならよかった」


 りんの頬はリボンと同じくらい真っ赤だ。紺色のスカートは、少し前屈するだけでパンツが見えるんじゃないかってくらい短い。そこから伸びる華奢で真っ白な両脚の方を、マフラーで守った方がいいんじゃないかと思った。


「ってかなにしに来たんだよ。看病してくれるようなやつじゃないだろ」

「サイテーそれ。ま、する気は微塵もないけど」

「じゃあなんで来たんだよ」

「別に。ただ奏平に会いたくなって」

「嘘つけ」

「これは嘘じゃないよ」


 うーさむ、とりんが嘆くので、仕方なく暖房の効いたリビングへと招き入れる。ソファに座ったりんは、マフラーをしゅるりとほどいて脇に置き、「やば、幸せ」と呟いた。


「で、本当の用事は?」


 りんの隣に座ってから聞く。


「用事……か。そうだね。ってか私の用事ってわけではないんだけど」


 りんは目を伏せて、口元に翳のある笑みを浮かべた。


「奈々がね。私に聞いてきたの。『奏平って好きな人とかいるのかな』って」

「え……」


 マスクで覆い隠している青あざがずきりと痛む。


「それで私、ビビビってきたんだ。あ、奈々は奏平に告白しようとしてるんだーって」


 奏平は、昨日利光に「奈々のことどう思ってる?」と聞かれたことを思い出していた。奈々もりんに聞いていたってことは、あの二人グルか?


「で、奏平はなんて答えるつもりなの?」

「答える?」

「そ、奈々から告白されたら」

「そりゃセレーナがタイプだって言って断るよ。前にも言ったよな? 絶対にそこだけは妥協はしない」


 セレーナ・ジョーダンというのは、艶やかなブロンドヘアとサファイアのように透き通った青い瞳が特徴のアメリカのトップモデルだ。胸も大きくくびれもすごい。


「ふーん。そっか」


 顎に指をあてながら呟いたりんは、ちょっとだけ頬を赤く染めた。


「じゃあ、もし告白したのが私だとしても、奏平は断るの?」

「なんだその無意味なたとえ話は」

「いいから、仮にの話」

「当然断るな」

「それは、そのマスクの下もかかわってるの?」


 なにを言われたのか、奏平はしばらく理解することができなかった。「ねぇ、どうなの」と、りんに肩を揺さぶられたことでようやく我に返り、必死で言葉を絞り出した。


「どういう、ことだよ?」

「だって、奈々の告白の話をした時も、右の口元を手で押さえてたから」


 言葉がうまく出てこない。


 そんな行動を自分がしていたなんて。


「ベ、別に関係ないから。癖みたいなもんだよ」

「嘘つかなくていいって。もう私、知ってるから」

「知ってるって?」

「月曜の夜、学校のプリント届けに奏平の家の前まで行ったら、奏平がお父さんに殴られて家から追い出されるところ見たよ」


 りんの顔は真剣そのもの。


 ぐうの音も出ないとはこのことか。


「ねぇ奏平。どうして相談してくれなかったの?」


 もう、どうあがいても覆せない。


「黙んないでなにか言ってよ。私たちに知られるのが格好悪いと思ってたとか?」

「そんなくだらねえ理由でこんな悩むわけねえだろ」


 ずきり、と口元のあざが痛む。


「じゃあどうして」

「俺は父さんのことを、本当は優しんだって信じたいんだ。父さんが優しければ、その息子の俺だって優しいって、信じられるから」

「奏平は充分優しいじゃない」

「優しくない」

「私は、奏平の優しいところをたくさん見てきたよ」

「みんなには、俺の表面的な部分しか見せてないんだよ」


 今までずっとそうしてきたわけではない。子供のころは自然に、自分の素を見せてみんなと接していた。


 でも、父さんが毒親だと認識してから、途端に素を見せるのが怖くなった。


「普段の俺は、取り繕った俺なんだ」


 優しさという殻で心を覆って、他人から見た高麗奏平ばかり意識するようになった。この行動をとると優しくみえるだろうかと、頭で考えてからでしか行動に移せない。


「俺はもうそんな俺しか、怖くて見せられない」


 父さんの血が流れていることを否定したくて、みんなに最大限の思いやりを持って接しようとはしている。それを自覚してやっている時点で、自分に本当の優しさがないことも分かっている。


「奏平。それは違うよ」

「違わない。父さんと同じだ。俺は気に食わないことがあれば、きっと暴力を振るうようになる。俺が彼女を作れば、絶対に同じ過ちを繰り返す。それが俺の本質なんだ」


 結局、父さんは変わらなかった。


 沢崎さんもそうだった。


 父さんが再婚して三日目の夜に殴られて思ったのは、ああやっぱりな、という落胆と納得。最近は、そんな父さんを殴り返そうとしてしまう自分にも幻滅している。


 やはり自分は父さんの子供だと。


 父さんという気に入らないものに対して暴力で対抗しようとする。だからこそ、父さんがふとした瞬間に見せてくれる優しさの方を信じたくなる。


「俺はこの血を、俺で断ち切らないといけないんだ」


 ――私は独りで暮らすしかないんです。誰も頼れない。きっと孤独死するんでしょうね。


 沢崎さんが、未来の自分に思えてならなかった。


「え……っと、さ。その……なんていうの? いろいろとぶっ飛びすぎててなんにも分からないんだけど、奏平が告白を受け入れられない理由はそれってことだよね?」


 奏平は、本当に小さく顎を引いた。


「そっか。それなんだ。そうなんだね」


 沈黙が訪れる。


 奏平は、それを自分で打開してやろうとは思わなかった。


 それから、どれくらい時間が経っただろうか。


 停滞した空気を打ち破ったのは、りんだった。


「じゃあこれからも奏平は、誰ともつき合う気がないってことでオッケー?」

「つき合ってはいけないってことでオッケー」

「だったらさ、私の彼氏にならない?」

「は?」


 張りつめていた空気が、パリ、とひび割れる。


 りんは胸元のリボンを撫でながら、不敵な笑みを浮かべていた。


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