目の前にいたのは

 夢佳に待つよう伝えた公園はかなり廃れている。


 危険だからという理由で遊具は全て撤去。走り回るの禁止、大声出すの禁止、ボール遊びも禁止。あるのはぼろい四阿くらいだ。


 そんな公園に人が寄りつくわけがない。近くには住人がいるのかいないのか分からないボロいアパートしかなく、夜間は野外セックスのスポットとして有名である。


 当然、利光もそれをしようと思って夢佳を連れて行ったことがある。夢佳もその覚悟はしていたと思うが、結局その時はできなかった。


 人がいたわけではない。


 無条件に興奮できそうな条件も環境も覚悟も揃えたのに、利光は夢佳をそういう目で見ることができなかったのだ。


 公園の中を見渡すと、四阿の中に誰か座っていた。


 あの髪型は間違いなく夢佳だ。俯いて、太ももの上で拳をぎゅっと握っている。なぜだか物音を立ててはいけない気がして、利光はそっと近づいていった。四阿に足を踏み入れると、ぎぃと床板が鳴った。


「あ、ひさ、しぶり」


 その音に反応して、夢佳が顔を上げる。


 目元の赤さはチークじゃない。


 唇の紫色は口紅じゃない。


「なんか用あんだろ。早くしろ」


 長話をする気はないので利光は座らなかった。彼女のために考えうる限りの酷い言葉を並べて、早く財津利光という男の呪いから解放させてやらないと。


「うん。ごめんね、わざわざ」


 夢佳は苦しそうに笑った。胸に手を当てながら、大切そうに言葉を紡ぎ始める。


「私は、まだ利光のことが好きなの。あの日は私が悪かった。私が利光のこと信じられなくて、疑って、ごめんなさい」


 夢佳は深く頭を下げる。


 だからそういうことをするなって!


「は? うざ。俺はお前になんか興味ないの」

「でも、こうして来てくれた」

「最後のお情けだから」

「利光が優しい人だって、私、知ってるから」

「お前以外に優しくするのは得意だよ」

「ねぇお願い利光。もう一度やり直さない?」

「俺にはもう別の女がいる」

「二番目でいいから、お願い」

「ふざけんな」


 そうやって、二番目でもいいと割り切れる夢佳が羨ましかった。


 そんなことを言わせてしまうほどの魅力を自分が持っているとは思えなかった。


「もう帰れよ。俺はお前が目の前で野垂れ死のうとしてたって助けない。その辺に落ちてるたばこの吸い殻と同じだ。まじで気持ちわりぃんだよ」


 軽蔑のまなざしを向け、冷淡な言葉の矢を浴びせる。頭を下げたままの夢佳の足元に涙がぽつぽつと落ちていく。


「……そっか。分かった」


 ゆっくりと顔を上げた夢佳は、歯を食いしばって笑っていた。


「今まで、ありがとね」


 横を通り過ぎて行った彼女のすすり泣く声が耳の中で反響している。利光は決して振り返らない。ふぅ、と一息つき、四阿のベンチにうなだれるようにして座る。なにを考えるでもなく目を閉じた。考えていた糾弾の言葉の一割も言えなかった。


 四阿の床板がぎぃと音を立てる。


「なぁ。ちょっと聞きたいんだけど」


 いきなり抑揚のない声で話しかけられた。


 男の声だ。


 今話しかけるなよ。


 虫の居所が悪いんだ。


「あ?」


 顔を少しだけ上げ、前髪の隙間からその男を睨む。


「お前さ、なんであんなひどいことができるんだ?」

「は? お前誰だよ――」


 瞬間、頬に鈍い痛みが走る。殴られた、と思ったのも束の間、今度は胸ぐらを掴まれて体を持ち上げられた。


「夢佳は本気だったんだぞ」


 利光は至近距離で睨んでくる男の顔をまじまじと見た。


 記憶にない。


 きっと初対面だ。


 夢佳の友達だろうか。


「本気で、お前を好きだったんだ」


 だったらなんだよ。


 ほんとどいつもこいつもさぁ!


 口の中に血の味が広がっていく。


「勇気を振り絞って会いに来た夢佳に言うセリフがあれかよ! ふざけんな!」


 ふざけてんのはどっちだ。


 ほんとムカつく。


 利光は怒りのままに男を殴り返そうとしたが、男の目から涙がこぼれたのが見えた途端。


 こいつを殴ってはいけないと思ってしまった。


「なんでお前は、夢佳のことを愛してやらないんだ」


 どうして、お前が泣いているんだよと思う。


「夢佳はずっとお前のことを思ってきたのに」


 泣きたいのは、こっちだよ。


「お前なんかのことを、夢佳は、本気で好きになったんだ」

「もしかしてお前、夢佳のことが」

「黙れ!」


 また殴られた。


 腫れている頬よりも胸の奥深くが痛い。


「お前なんかのことを、夢佳は、好きだったんだぞ」


 だから、なんでお前が泣いてるんだよ!


「夢佳を傷つけたお前を俺は許さない」


 脳がぐらぐらと揺れている。また殴られた。顔が横を向いて、男の姿が視界から消えた。


「この拳は夢佳の怒りだ」


 その震えた声に引き寄せられるかのように、顔を正面に向けなおす。


 そこにいたのは、財津利光だった。


 涙で顔をぐしゃぐしゃにしている自分自身に、じっと見つめられていた。


「夢佳の受けた痛みは、こんなものじゃないんだ」


 こいつは夢佳のために殴っている。


 だからこそ、こいつを怒りの感情のままに殴り返したら、財津利光のすべてを否定することと同じになると思った。こいつが夢佳を思う気持ちは、財津利光が松園りんに抱いている感情と全く同じなのだ。


「お前は夢佳を弄んだ、クソ野郎だ」


 また殴られる。


 これでいい。


 こいつの気がすむまで殴られてやらないといけない。


「なんでこんな奴なんだ。夢佳は本気だったんだ」


 この男は夢佳のために泣いて、夢佳のために怒って、夢佳のために拳を痛めている。


 夢佳から恋愛相談でも受けていたのだろうか。


 自分の気持ちを隠して、夢佳の思いを最優先にしてアドバイスを送り続けていたのかもしれない。


 夢佳のことが不安で、今日は陰から見守っていたのだろう。もしかしたら今日のこともこいつが提案したまである。


 本当に、狂っている。


 夢佳のためにそこまでできるなんて。


 アホすぎる。


 それほどまでの執念と義憤を抱くくらい、こいつは夢佳のことが好きなのだ。それだけ好きなのに、これだけ無謀な行動ができるのに、どうしてこいつは夢佳に好きだと伝えないのか。どうして正当な方法で、好きの感情を開放できないのか。やっぱり俺と同じじゃないか!


「俺はお前を許さない。絶対に、夢佳が許してもだ」


 何度殴られただろう。抵抗なんてできるわけがない。


 自分の恋愛感情を押し殺して好きな女の恋愛が成就するように行動する、自分と同じ気持ちを抱えているこの男を、利光は無条件に受け入れる。


 惚れた女のために振るわれる拳を受け入れることが、自分自身の救いになる気がした。


「泣いたって、許してやるもんか」


 なにを言っている?


 泣いているのはお前じゃないか…………あ、ああ、あああ。


 ああ、ああ。


 泣いている。


 いきなり水に潜ったみたいに視界がぼやけ始めた。


 なんで。


 え。


 分からないけど、腹の底から燃えるように熱い感情が沸き上がってきて、その正体がなにか分からぬまま利光は純情男の手を払い、逆に胸ぐらを掴んでいた。


「さっきからなにやってんだよお前は!」


 自分じゃない別のなにかに体を乗っ取られているようだ。言葉が止まらない。


「お前がやるべきことはこれじゃないだろ! 俺なんか殴ったってなんにもないんだよ! 本当に好きなら告白すればいいだけの話だろうが!」


 胸を押して純情男を突き飛ばす。


 純情男は尻もちをついた。


「フラれたっていいじゃないか」


 なんだこのクソむさくるしい感情は。


 こいつの恋愛沙汰なんて関係ないのに、なんでこんなにも感情的になっているんだ。


「告白する勇気くらい出してみろよ。男だろ」

「お前が説教たれんじゃねぇよ!」


 叫びながら立ち上がった純情男の拳が顔に迫る。かわせたな、と思いながら、涙で濡れた頬で受け止める。ゴツ、という鈍い音。それから利光も握り拳を作った。


「いい加減にしろよ!」


 一発だけ、渾身の力をこめて殴り返す。


 純情男が後ろによろめいた。


「もういいだろ。もういいんだよ」


 声を張り上げようとしているのに、弱々しい声しか出ない。


「お前はいい男なんだ。俺なんか殴ってないでさぁ、夢佳のそばにいてやれよ」


 痛みや怒りよりも憐れみを強く感じるのは、目の前の純情男が、優しい夢佳にぴったりな不器用な男だと思ってしまったから。


「今すぐ夢佳に好きだって告白するんだよ。なんでお前はそれができないんだよ」

「うるせぇ! ふざけんな!」


 純情男が振りかざした拳が近づいてくる。ああ、この拳が当たれば気絶するな。利光はそう悟った。避ける気はない。こいつに言いたいことは全て言ったのだから。ゆっくりと目を閉じる。


「もうやめてください!」


 しかし衝撃はやってこなかった。


 震えた拳ではなく、必死な叫び声が体にぶつかった。


「私、警察呼びましたから!」


 目を開けると、純情男の後ろ、公園の入り口に奈々がいた。


「それ以上、私の友達を傷つけるなこの暴力男!」

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