第七章  前に進むためには覚悟が必要 財津利光2

未来の自分へ

 利光はカーテンを閉めてベッドに座り、スマホの画面をじっと見つめていた。りんの弱々しい声が、スマホから今も出ている気がする。あんなにも必死で縋るようなりんの声を聞いたのは初めてだ。


「なんとかするって、言ったんだから」


 痛む胸に手をあてがう。


 りんの笑顔に勝る幸せはなにもない。


 利光が、りんに抱いている感情の特別さに気づいたのは、五歳のバレンタインデーの時だ。


 その日、利光はりんと奈々、幼稚園のクラスメイトの何人か、そして担任の保育士からチョコレートをもらった。りんと奈々は奏平にも渡していた。奏平へのチョコレートには二人とも甘酸っぱい想いを込めていたに違いない。


 つまり、利光へのチョコはカモフラージュチョコってことだ。


 まあ、幼稚園児にそんな感情の機微が分かるはずもない。


 利光は女の子からチョコレートをもらうたびに、はしゃぎまわりながら封を開けてものの数秒で食べきっていたが、


「これ、利光の分、あげる」


 教室の隅で、りんからチョコレートの入ったピンクのビニール袋を渡された時、それまでと同じように飛び跳ねることができなかった。体が湯船につかっているかのようにポカポカとしているのに、うまく笑えなかった。


「ありがとう」


 受け取ったそれをじぃっと見つめた。心臓の鼓動が、ドク、ドクと全身に爆音で響き渡っている。ようやく顔を上げると、りんはもう去ったあとだった。


 利光は家に帰ってから、りんのチョコレートをゆっくり味わって食べた。少しだけ溶けていたハート形のチョコレートの甘さは、今もなお舌にこびりついている。ビニールの中が空になって、ああ、もっと食べたかったな、と残念に思ったことだって、昨日の出来事のように思い出せる。


 その日から、財津利光の後悔と嘘は始まっていたのかもしれない。


 五歳の子供にはまだ女とつき合うなんて考えはなかったので、一緒に遊べているだけで嬉しかった。


 小学校三年生の時、夏休みの昼ドラ枠で放送されていた小学五年生の恋愛物語を見て、自分もりんとああなりたいと思った。


 その時は勇気がなくて告白できなかったけど、他の男子よりりんと仲がいいというだけで、自分は特別な存在なんだと優越感に浸っていた。


 六年生になると、ちらほらカップルができ始めた。


 利光は、まだ行動に移せなかった。


 もしフラれて、今みたいにりんと遊べなくなったらどうしよう。関係性が変わってみんなと遊べなくなったらどうしよう。


 そんなことばかり考えていた。


 りんがクラスの男子に何度も告白され、それを毎回きっぱりと断っているという情報を仕入れた時には、すごく安心した。


 それは、りんが奏平のことを好きだっただけに過ぎないのだが、当時の利光は、りんが好きなのは財津利光だと本気で思っていた。


 小学校を卒業したら告白しよう。


 利光は未来の自分に、全責任を丸投げした。


 未来の自分だったら勇気を振り絞ってりんに告白できる。そして、それが成功すると本気で思っていたのである。


 だからこそ、結果はこのありさま。


 結局、告白なんてできぬまま、りんと奏平がつき合うことになった。利光は過去に取り残された。


 りんのことを諦めるために色んな女とつき合ってきたが、りん以上の女はいないと思い知らされるだけ。


 初恋が運命の人というのは、最高なのか最悪なのか。


 初めて野球をして、第一打席からホームランを打てる人が果たしてどれだけいるのだろう。


 利光は、もし仮にりん以外の誰かとつき合い、結婚し、子供を産み、孫が産まれ、死の間際に泣きじゃくる妻や子供や孫に看取られるのだとしても、その時に思い出しているのは間違いなくりんだという確信を持っている。


「女々しいよなぁ、ほんと」


 今回、奈々と奏平が一緒に住むことになったのだって都合がいいと思ってしまった。【強奪】で盗めるのはものだけという先入観を与えたのも、万が一、りんの奏平に対する恋心を奪っても問題にならないように保険をかけたのだ。なのにさっきは、物以外にも使えるかのような返答をしてしまった。りんの切実な思いに、嘘で応えてはいけない気がしたのだ。


 でも、さっきの口ぶりだとりんは嘘に気がついているのかもしれない。とすると、もしかしてみんなにも嘘はばれているのか? まあ、もういいや。どうせこの後使うんだし。


 利光は嘲るように笑った。


 奏平と奈々がくっつけばりんが悲しむというのに、利光はこれまで自分の感情を優先し続けてきた。奈々が告白せずにフラれた後も、二人がくっつくように画策したことは一度や二度ではない。そんなことをしてしまう自分に一丁前に罪悪感だけは覚えているから、愚痴を聞くだけでりんから許してもらった気になっている。


「俺は、進まなきゃいけないんだ」


 今から奈々に電話をするのはそれに対する贖罪だ。「俺がなんとかする」とも言ってしまったし。


 勢いで発した無責任な言葉を、今度は無責任のまま放置したくない。


 奈々と奏平をくっつけようとして奈々を傷つけた罰を自分に与えるため、りんの苦しみを少しでもやわらげるため、利光は電話をする。奏平とりんがカップルであり続けられるよう手を打つ。


 そうすることで、今度こそりんのことを諦めたい。


 りんの笑顔を見ることが利光にとって一番の幸せなのだから、自分の気持なんてどうでもいい。


 利光はスマホが震えないよう、強く耳に押し当てた。

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