最後の希望
りんが目を覚ますと、すでに窓の外は明るかった。
体を起こしてみたが、あくびが出るだけでなにもする気になれない。布団の上でぼうっとするだけの時間が続く。スマホで時間を確認すると、午前十一時を回ったところだった。
本当だったら今ごろ奏平とプールに行っていて、新しい水着で奏平を魅了できていたのに。
好きになってもらえていたかもしれないのに。
「なんだよ、私」
心が渇いていく。
少しの希望を抱いてラインを確認するが、りんが送った残念そうな顔をしているウサギのスタンプを最後に、新規メッセージは届いていなかった。
「だよね……」
ベッドの上にスマホを落とす。化粧したまま寝たことを思い出し、あーあ肌やばいと鏡台の前に座った。クレンジングをいつもより多めに使ってメイクを落としている途中で、風呂に入っていないことも思い出した。
浴室へ向かう途中でリビングに顔を出したが、両親はいない。ダイニングテーブルの上に、《そうめんが冷蔵庫の中にあるから》という書置きが残されていた。
シャワーをさっと浴びて体をすっきりさせると、少しだけ気が楽になった。誰もいないしいいやとパンツだけを穿き、バスタオルを首にかけたままリビングへ。冷房を入れ、風が直接当たるところに立ってしばらく涼む。
そうめんを食べてからソファに寝そべり、大きめのクッションを布団代わりにしてテレビを見始める。こうやってなにもせずにぼうっとすることこそが本来の休日の過ごし方なのだと、下着姿のままでだらけている自分を正当化しながら目を閉じた。
次に目を開けると、午後四時から始まるローカル番組が始まっていた。
「あーあ。絶望休日」
腰が痛い。ソファで寝てしまったせいだ。スマホは部屋におきっぱ。頭をガシガシかきながら自室に戻る。ベッドに座ってスマホをぽちぽちするが、奏平からの新着メッセージは届いていない。川端さんから明日の仕事の最終確認メールが送られているだけ。
「ほんと絶望休日」
ってか奏平も奏平だ。こんな美人がずっと彼女のフリをしているのに、どうして本当に好きにならないんだ。普通の男子なら一週間もあれば惚れるはずなのに。
ま、そういう一筋縄ではいかないところとか、優しいのにミステリアスな雰囲気を持っているところが、奏平の魅力と言ってしまえばそれまでだけど。
お母さんが仕事から帰ってきたのか、一階が騒がしくなった。このまませっかくの休日を一歩も外に出ずに過ごすのも嫌だったので、短パンにTシャツという最低限の着替えをして部屋を出る。玄関でお母さんから声をかけられたが、「ああ」とか「うん」とか気のない返事しかしなかった。外に出てドアを後ろ手で閉めた時、思わず笑ってしまった。
「絶望休日ってなんだよ」
もうすぐ十八時だというのに、太陽はまだ空に浮かんでいる。日傘をさして歩いた。風がないので蒸し暑い。ふらふらと坂道を下り、商店街を抜け、駅に併設されてあるコンビニに入る。
そこには、りん自身もモデルとして掲載されてある雑誌が置いてあった。
「いい身体してんのになぁ」
ぱらぱらとページをめくり、水着特集と書かれたページに載っている赤いビキニを着た自分の写真を眺める。
自己陶酔とか自慢したいとかそういうわけじゃないけど、客観的に見て、松園りんという女の子はやはり美人だと思う。それでいて胸もそこそこ大きいし、くびれだってまぁまぁ。目もパッチリ二重で、髪の毛もさらさらで色っぽい。それとなく水着の写真が載ると奏平に伝えたが、果たして奏平は見てくれただろうか。
もし見てくれていたのだとしたら、どういう感想を持っただろうか。
「百万部買えよバカ」
この撮影の時、りんはカメラの向こうに奏平がいると思って臨んだ。というより、撮影の時はいつも奏平のことを思いながら表情を作っている。だから、魅力的な表情も簡単に作れるのだ。
東京にいても地元のコンビニいても、りんは奏平のことを思っている。なのに、思えば思うほど奏平のことが分からなくなっていく。
コーラを買って、コンビニのイートインコーナーで喉に流し込むと、炭酸の刺激が喉の奥でさわさわと弾けた。スマホをぽちぽちしながら駅の改札から出てくる人をぼんやり眺めていると、思わずペットボトルを落としそうになった。
……え?
唖然とする。
紙袋を持った奈々と奏平が改札から出てきて、商店街の方へと消えていった。
「え?」
背後のレジで誰かが店員にクレームを入れている。なんで店員なのにタバコの名前も知らないんだ! そんな些細なこと気にも留めず、りんは去っていく二人の背中を目で追い続けていた。
「……なんでよ」
奈々と奏平は友達だから、二人で遊びに行っていたとしても、別に普通のこと。りんだって、利光と二人きりでファミレスで駄弁ることはよくある。その時の自分に他意がなかったのと同じように、友達だからという理由で奏平と奈々は二人きりで出かけただけに過ぎない。
「なんだよ」
ラインアプリをタップする。
起動するまでの数秒間に、画面に涙が三粒落ちた。
「おかしいだろ」
昨日送られてきた奏平からのメッセージには、やはり、
《ごめん。明日は忙しいんだ》
と書かれている。
「忙しく、ないじゃん」
体の内側、ちょうどみぞおちのあたりに、ものすごく冷たいなにかが生まれた。
奏平とは偽装カップルだ。
嫉妬すること自体おかしいのに。
「暇だったんじゃん」
りんはゆっくりと歩いて帰った。
お母さんが作ってくれた夕食は、少しだけしか食べられなかった。
「ごちそうさま」
「え、もう食べないの?」
「うん。体系維持」
りんはそそくさと自分の部屋に戻り、ベッドの上に座って奏平とのやり取りを再度見返す。
――ごめん。明日は忙しいんだ。
鉛筆の芯ほどの大きさだったなにかが、今はもう体中に広がっている。ザラザラしている砂みたいな感じだ。その正体は分からない。分かりたくないだけなのかもしれない。
「ごめん。明日は忙しいんだ」
呟いてみた。続けて今度は、
「ごめん。明日は奈々と出かける予定があるんだ」
と言い直してみた。
「ごめん。明日は奈々と出かける予定があるんだ。休みならりんも一緒に行くか?」
普通はこうであるべきだと思う。
どうして奏平は、奈々と出かけることを隠したのか。
みんなを誘わないのか。
「奏平……」
こういう思考になること自体が間違っていると分かっている。
自分の心が狭いだけだと分かっている。
「でも、おかしいよ、奈々も」
どうして奈々まで二人きりで出かけることに反対しなかったのか。みんなには偽装だなんて教えていない。明日、奏平と一緒に出掛けるんだけど、いい? と伝えるくらいの気づかいができない奈々ではないはず。
「ほんとにつき合ってないのに、こんな、嫉妬……」
百万部買うよりもまず、私に一回会ってよ。
りんは親指をそーっと動かした。スマホを耳に押し当てて息を殺す。四回目のコールの音が途中でブツリと切れた。
つながった。
りんはなにも言わずに、声が聞こえるのをじっと待つ。スマホの向こう側からは一向に声が聞こえてこない。東京行きを引き留めるほどに大切な友達からの電話なのだから、ためらう理由はないはずなのに。
『どう、したの?』
ようやく聞こえてきた奈々の声は明らかにぎこちない。親友からの電話だ。どうして怯えなければならないのだろう。言葉の区切り方や声色で、相当の勇気が含まれているとも判断できた。考えてみると、「どうしたの?」という言葉も変だ。なにかあることが分かっている前提の言葉だと思う。
やはり後ろめたいのだ。
奏平と二人で出かけたことを奈々は気にしている。
友達と出かけたくらいにしか思っていないのであれば、こんなことにはならない。
松園りんという存在を、高麗奏平という男を意識しているから、第一声が「どうしたの?」になる。
『もしもし? りん?』
って、なにをこんなに嫉妬してるんだ。
奏平とは偽装カップルなのに。
いつまで経っても、高麗奏平が松園りんに惚れてくれないのがいけないんだ!
『え? もしもし? りんだよね? なにかあったの?』
スマホをそっと耳から離す。ベッドの上で足を伸ばし、太ももの上にスマホを置いた。鼻からすーっと息を吸い込んでから、スマホの画面に向かって声を飛ばした。
「奏平は私の彼氏なの。そこんとこ、考えて行動してよ」
すぐに電話を切る。
とてつもなく苦しい。
清々したなんて思えなかった。
「最低だ」
りんはしばらくの間泣き続けた。自分に対する幻滅が止まらない。気がつけば利光に電話をしていた。
利光は、ツーコールもしないうちに電話に出てくれた。
「おお。りんから電話なんて久ぶ――」
「ごめん。やっぱり私もう限界だ」
「いきなり……どういうことだよ」
「お願い、利光」
そこで言葉をいったん止めて、伸ばしていた足を折りたたむようにして体に引き寄せる。
「私の恋心、利光の能力使って奪ってよ。消したいの」
この黒い感情とおさらばするには、これしかないと思った。利光の能力は【強奪】だったから、この感情も奪ってしまえるでしょ?
「ごめん。それはできない」
しかし、利光の返事は否だった。
「どうして?」
「りんの大事な感情だからだ」
そんなこと言わないで、とりんは利光を侮辱したかった。
利光が優しさは毒だって言ったんだよ?
利光だって優しいじゃんか!
その優しさが毒なんだよ!
本当はそう糾弾したかったが、りんは利光の言葉で、奏平へのこの気持ちを失いたくない、大事な感情なんだと改めて思ってしまった。
「じゃあもう私、どうしていいか分かんないよ」
「俺が、なんとかしてみせる」
力のこもった声がりんの心を優しく包み込む。
あの日、奏平を救って欲しいと頼んだ時に、寛治が言ってくれた言葉と同じだ。
松園りんという人間は、また誰かにすべてを委ねるのか。
自分のことなのに、自分じゃなにもしないのか。
「本当?」
でも、誰かに縋らなければもう苦しくて生きていけない。
「本当の、本当に?」
「ああ。約束する」
「ごめん、ね」
「気にするな。俺はいつでもりんの味方だ」
「うん。ありがとう」
そのままスマホを胸に押し当て、抱きしめる。泣き続ける。利光が「なんとかしてみせる」と言ってくれなければ、りんは胸の痛みに耐えられずに舌を噛み切っていたかもしれない。
利光の言葉だけが、絶望の淵に立っているりんをつなぎとめる最後の希望だった。
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