第六章  心の底から変わらなければ意味がない 松園りん1

選ぶ側

 南青山のとあるビルにりんはいた。


「お疲れさまでした」


 本日最後の撮影を終え、手っ取り早く帰り支度を済ませてエレベーターに乗り込む。地下一階の駐車場でエレベーターから下り、車まで小走りで向かった。カツカツというヒールの音が駐車場内にこだまする。車内で寝ていたマネージャーの川端さんを起こすため、運転席の窓をコンコンと叩いた。


 慌てて顔を上げた川端さんが、顔の前で手を合わせてから車の鍵を開けてくれる。川端さんは、一見するとどこにでもいそうなおばさんだが、実はかなり優秀なマネージャーである。少なくともりんはそう思っている。


「ごめん。寝ちゃってたわ」

「大丈夫ですよ」


 りんは運転席の後ろに乗り込んで、大きなあくびをしてから目を閉じた。


「ほんっとに今日はごめんね。朝から夜まで休みなしで」


 車を発進させた川端さんが、ねぎらいの言葉をかけてくれる。


「こちらこそすみません。休みをつくるために予定を詰め込んでもらって」

「いいのよ。それがマネージャーの仕事だから」


 車が地上に出ると、東京の人工的な煌びやかさがりんの視界を埋め尽くした。光が途切れない東京という街が、りんは全く好きではない。


 人の多さとか、無駄にカッコつけてるコスタイリッシュなンビニや書店とか、なんでもあるように見えて実はなにもない空虚な鉄のビル群とか、そういう都会らしさが苦手なのだ。


 東京で呼吸をしていると、地元で生活しているみんなと別の世界を生きているような気がして、とてつもなく不安になる。


 スマホにラインの通知が届いて、りんはスマホに視線を落とした。心の中にささやかな期待が生まれたが、それもすぐに消えてなくなる。先に寝とくからね。母からだった。今日も奏平からのメッセージはきていない。一緒に住んでいる奈々のことで精一杯なのだろうか。


「なーに? また彼氏とメール?」


 からかうような声がして、りんははっと顔を上げる。気づけば、車は赤信号につかまっていた。川端さんにバックミラー越しに見られていた。


「はい。そんな感じです」

「いい加減、写真でもいいから見せてくれてもいいのに」

「普通の、ただの一般人ですから」

「あなたみたいな美人の彼氏なんだから相当な男よ。スカウトしたいわ」

「本当に普通ですから」


 信号が青に変わり、川端さんがアクセルを踏む。他人のプライベートにずかずかと踏み込んでくる川端さんをウザいと思わないのは、その人懐っこい笑顔のおかげだろう。


「いつか意地でも見せてもらうんだから」


 川端さんはハンドルを人差し指でリズミカルにとんとんしている。


「絶対に見せません」

「私、口固いわよ」

「そう言ってる人で口が堅い人見たことありません」

「もー、ちょっとは信頼してよ」

「信頼はしてます。私がここまで来られたのは川端さんのおかげですから」

「逆よそれ。あなただからここまで来られたのよ――あ、そういえば」


 川端さんが醸し出していた明るいオーラが、ぷつりと途絶えた。


「あの話、考えてくれた?」


 さきほどの雰囲気が嘘のように、川端さんの声は重かった。川端さんのいつものやり方だ。深刻な話をする前に明るい話をして場を和ます。空気の帳尻合わせをしているらしい。奈々の父親と一緒だ。優秀な人間に必須のスキルなのかもしれない。


「はい。そうですね。一応は」


 りんはぐっと奥歯を噛みしめる。川端さんが事務所との間で板挟みにあっていることくらい知っている。だけどりんはみんなのそばから離れたくないのだ。


「転校の手続きも手伝うし、家だって用意する。家賃も上京の資金も会社が持つわ。一人が寂しいのなら、お母さんと一緒でもいいのよ」

「さっきも言いましたけど、私には彼氏がいて、友達がいて、そのみんなと過ごす時間がなによりも大切なので」


 その時、りんの頭に浮かんだのは奏平の無邪気な笑顔だった。その横には奈々がいて、利光がいて、もちろん寛治もいる。


「あなたが友達思いの素敵な女の子なのは知ってる。あなたの友達が優しい人たちなのも分かる」

「私は友達思いじゃないですよ。残念ながら」


 りんは首を振った。だって自分は寛治という存在をみんなから奪った極悪人だから。自分が得た能力【虚言】でどうにかできたかもしれないのに、それをせずに寛治を頼った。自分の貴重な能力を使いたくなかったのだ。


 奏平の父親が毒親だと知っていて、奏平のためにそれを使うべきだと分かっていたのに、嘘を本当にできる貴重な能力を、自分のために取っておきたかった。


 嘘が本当になるなんてチート能力があれば、なんでも願いが叶えられると思った。


 なんでも叶えられるからこそ悩んでしまって、結局まだなにも叶えられていない。これは寛治の殺人と引き換えに手元に残した能力なのだと考えると、罪悪感からだろうか、自分のために使ってしまうことがためらわれた。


 だったら寛治の罪を消してしまおうとも思ったが、寛治からは自分のために使えと言われた。


「なにを言ってるの? あなたは素敵よ。とっても素敵」


 川端さんの優しい声も、今は皮肉にしか聞こえない。りんは言葉を返さずに、窓の外で騒ぎ散らす若者に目をやった。


「その彼氏さんもお友達も、あなたが活躍するのを願ってるんじゃない?」


 やがて、そんな言葉が川端さんの口から放たれた。


 りんはそっと目を閉じる。


「そうかもしれませんけど、私の彼氏はモテるので、不安なんです」

「その彼氏に対する不安と、あなた自身の成功、どっちが大事なの?」


 川端さんの声に、少しだけ棘が混じる。


 車は徐々に速度を上げながら、煌びやかな東京の街を進んでいく。


「……どっちも大事です」

「そんな曖昧じゃダメよ。ちゃんと選ばなきゃ」

「分かってますけど」

「本当に大事なものは、たとえそれを一度手ばなしたとしても、ヨーヨーみたいに戻ってくるものよ」

「意味が分かりません」

「私も言っていてそう思ったわ」


 川端さんはしばらくの間笑っていた。


 これはあれだ。


 また帳尻合わせをしている――ほら。笑い声が唐突になくなった。


「あなたの彼氏のことを悪く言ったらごめんなさい。だけど、これだけははっきり伝えとくわ」


 りんは無言のまま、シートベルトをぎゅっと握る。


「もしあなたが上京を決意して、それに対して行くなって反対する彼氏だったら、それはあなたの彼氏にふさわしくない。あなたが東京に来て、その間にモテるからって別の女を作るような男ならなおさら、あなたには適さない」

「私の彼氏は、そういうことをしませんので」


 りんは唇を噛んだ。


 奏平は誰ともつき合わない。


 そう確信しているし、本人だってそう言ってくれた。その言葉を信じればいいだけなのに、それがりんには平然とランウェイを歩くことより難しい。


「だったらなんの不安もないじゃない。こっちに来なさい。断っている仕事だってあるんだから。その分チャンスが減っていることを自覚して」

「それは、そうですけど」


 目を閉じつつ、りんは思ってしまう。


 どうして奈々は奏平の家に行ったの?


 どうして友達の彼氏の家に、なに食わぬ顔で住むことができるの?


 なんて色々理由を並べてみたけど、本当は全部違う。


 松園りんという女が弱いだけだ。


 本当に奏平が好きなのに、奏平と偽装の関係を作ってしまうくらい。


「私は、私に自信がないだけなんです」

「自信って、あなた撮影の時はすごくいい表情してるじゃない」

「撮影は簡単だから。仕事だから」

「それが、あなたが天才である証よ」

「だけど」

「セレーナ・ジョーダンみたいになりたいんでしょ?」


 腹の底から熱いものが込み上がってくる。


 川端さんが言った言葉は、事務所の面接に行った時に、りん自身が宣言したものだ。


 ――セレーナ・ジョーダンみたいになりたいんです。


 面接官だった川端さんの目が、その言葉を聞いた途端に輝いたのを今でも覚えている。この人についていけば大丈夫だと、彼女が確信した瞬間でもあった。


「それは、はい」

「だったらよく考えなさい。あなたの心に正直になって、嘘だけはつかないこと」

「わかりました」


 その後、川端さんとは東京駅につくまで、一言も言葉を交わさなかった。

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