Υ 預言者の窒息 Erstichung Prophetie 1948,5,9(SUN)

Ⅰ人間の証明 Humanus


「ああ夫れでは此私は天の使いではなかったのか」

二人の話を立聞きしていた四郎時貞は余りの意外に仰天しましたが、次に来たものは絶望でした。その絶望が劇しかったためか、転換した彼の性格が忽然旧に復して了い、一個白痴の美少年増田四郎となって了ったのは止むを得ない運命と云うべきでしょう。               国枝史郎『天草四郎の妖術』


「ああ、そうだ。俺は神ではない!」

 その声は太く、男のそれだった。世間を冷笑したような響きを持ち、地上に在りながら世界を俯瞰した気になっている、世間を知らずに世間を冷笑し、それにもかかわらずどこかしら蟲惑的な美しさを持つあの少年特有の声。世間を冷めた眼見詰め、何処かしら甘ったれた感のする揺籃期の少年の声だった。桐人は今までの神々しき輝きから一転して地に這う獣になった。先程まで茫然とただ寝台に座して虚空を見詰めていた様相は一瞬にして消え、少年は寝台を悠然と降りて地に足を着けた。   

 これが久流水桐人の本来の姿。神衣を纏うことのない少年の姿なのか。

 桐人の突然の変貌にあたりは騒然となった。それは眼前に拡がった突然の変貌振りに愕然となったせいか。悲しみとも憤怒ともつかぬ感情のせいか。あたりを見回すとマリヤは涙腺を潤ませ、阿紀良や万里雄、老人は愕然とした表情を見せていた。各々が各々に眼の前に広がる状況を理解出来ぬ様な表情をしているように思われた。

 桐人は寝台から降りると伸びをして頸を三度ほど回すと、赤く燃え上がる炎の色をした瞳を狡猾に御堂に向けた。

「この科白をもっと早く言いたかった。誰かに肩の荷を降ろしてもらいたかった。礼を言うよ」

 御堂は黒眼鏡をクッと指で上げて、「どうも」と小さく応えた。するとマリヤが桐人の震えながら前に出た。その瞳には涙が浮かんでいた。

「桐人……」

 ところが、桐人はマリヤのことなど意に介さなかった。

「では、この事件の真相を述べ立てよう。神への追放の勅状を叩き付けよう」

 少年の口元には永遠の無垢と残酷さが帯びていた。『親切なだけに残酷なこと』。『ハムレット』はいう。モラトリアムから抜けきらぬ人間の人生の内で最も甘美で苦悩に満ちたあの残酷なまでの一瞬を過ごす少年だった。

「俺が神として目覚めたところから話すべきかな。神として玉座に座りし時よりの、俺の最古の記憶から始めようか。それは婦と臍帯で繋がりし時に遡ろう。あの生の中で最も幸福な胎の中から……」

 神の子だった者の告白が始まる。

「俺の最古の記憶、それは羊水の中のだった。水の中なのになぜか溺死することが無かった、あの不思議な空間。生を保ちながら、明確に活きる事の自覚ができぬ不可思議な大海、あれが僕の最初の記憶だ。そこは薄暗く、生温い。俺は気付くと其処で漂っていた。なにゆえに漂っているのか解からぬ。ただ心地良かった。俺は小さく同時に無限な大海に身を委ねていた。ただ感覚のみが生存の証明となる世界だった。それはとても心地良かった。新たなる世界に生まれることに希望を一部の不安を抱きながら、僥倖たる時を過ごしていた。ただそれだけで良かったのだ。胎児として生を受けし者はうつらうつらの半覚醒を愉しめば良かったのだ。

 だが俺はその幸福たる時を、人生の内で最も裕福な時期を、完全に享受することが赦されなかった。俺は生まれる前からして思考の世界に飛び込まねばならなくなった。あれは生を受けて何日目のことだろうか、いつもと変わらぬ朝とも夜とも付かぬ時に目が覚めた。俺はその日も感覚の世界を存分に愉しもうをしていた。温く幸福なひと時を愉しもうとした。だがその日は愉しめなかった。何かが違う。昨日とは違う何か恐ろしいものが大海の成分を占めている。不愉快な物質が存在している。何が俺の平和を妨げておる? 俺は俺を不快にさせているものは何ものかを思考し始めた。俺の人生における最初の思考だった。俺は生まれる前から活きなければならなかった。

 思考の末にこの不快な要素が俺と俺を包む肉の壁を繋ぐ臍帯より伝わって来ているのに気が付いた。臍帯より不快な物質が俺の血肉に血肉をつくる栄養とともにやって来ている。だがそれがなぜ俺を不快にさせるかは解からなかった。俺はそれも思考した。

 幾日かの昼と晩を過ぎた頃だろうか。とうとう俺は知った。それは母の思いだった。俺を包む肉の壁の主の声だった。母親という俺の最大の保護者であるべき人が俺を嫌っているのを。俺と太陽の下で対面することをおそれていることを。俺を己の内に宿している事を呪っていることを。俺の存在を心のそこから望んでいないことを知った。母の呪いが臍帯を通して俺に伝わってきた。

 俺は生まれても歓迎されない。生まれし前より俺の人生に暗雲があることを知ってしまった。嗚呼、生に何の望みがあることだろか。母に歓迎されぬ子供とは何たる不幸か。俺は生まれても親がおらぬのだ。俺は生まれながら原野に独りきりで置き去りにされる。

 生まれたくない。俺にとって生まれることは即ち不幸を意味するのだ。生まれるくらいならば、いっそ生まれることなく死んだ方がマシだ。俺は生まれる前から死を望んだ。俺は臍帯を首に巻きつけて自殺を図った。だが大海の波は俺を潮流に巻き込み、首から死の綱を引き離してしまった。何度も何度も首を縊ろうとも失敗に終わった。俺は縊死を諦めて撲殺を試みた。大海を泳ぎ、大海の臨界点の肉の壁に頭を打ち付けた。だが肉の壁は生を拒むにはあまりにも軟らかかった。俺はその後も様々な自殺を試みた。溺死、圧死、転落死……。どれも失敗に終わった。

 そうやってしている時だったろうか。ある日、大海に変化が起こり始めた。大海の水が激しい潮流を起こし始めた。羊水がぐるぐると渦巻き、その渦は一点に集中し始めた。俺は潮流に翻弄され、その渦に巻き込まれていった。俺は眩暈を起こした。ただ俺はそれが真ッ黒な闇が段々と白色に染まっていく。黒は紺青となり、赤黒くなり、そして真ッ白に変わった。俺はそのグラデーションに気付いた時、すべてを理解した。嗚呼、とうとう俺は産み落とされるのだ。絶望の淵に立たされる。畜生め! 俺が死ぬ方法を発見するよりも生を授ける自然の摂理の方が早かったのか。嗚呼、何故俺は胎の中で死ねなかったのか。

 ふと気付くと俺は大空の下にいた。嗚呼、生まれてきてしまった。俺は泣けてきた。俺がこれから歩むべき絶望を嘆いて。もう感覚の世界で漂うことが赦されぬことを悲しんで。俺は泣いた。蜿蜒と嘆いた。俺は生まれてしまった。

 二番目に古い記憶。俺はケルビムの寝台の上に寝かせられていた。絢爛豪華なこの天蓋の寝台で俺は目を覚ました。薄暗く、ぼんやりとした場所だった。俺は再び母胎の中に舞い戻ったかと思った。そこは何もかもが満足ゆく揺り篭だった。俺が一度泣けばどこからか人が遣って来て、俺に乳房を舐らせてくれた。俺が一度喚けば、何処からか気遣わしそうな顔をした者どもがご機嫌を伺いに来る。何もかもが充たされていた。あの胎の中のまどろみと同じものがあった。俺は生まれるとすべての幸福の中にいたのだった。オヤッ、胎の内より感じたあの呪いの言葉は幻だったかしらん。胎児の夢は、所詮夢だったのかしらん。ああ、俺は望まれるべくして生まれたのか。

 俺はそれからこの幸福な時間を延々と過ごした。ただ寝台で眠り続ける幸福なる日々を過ごした。仕事といえば、時折俺に何らかの選言を求める、俺に傅く者に対して適当に言葉を発するだけだった。選言は大抵にして俺の枕元にある分厚い本の一節を述べ立てるだけで良かった。俺は格段に記憶力が良かった。俺はただ適当に諳んじていれば良かった。それを者どもはありがたり、涙を流して喜んだ。

 幾星霜を経ただろうか。俺は永遠と続くかと思われた母胎から引き摺り出された。甘く甘美なる夢を、緩やかな崩壊が待つだけの世界を食む事が許されなくなった。俺の夢は一人の夢を失った男に目覚めさせられた。その男は自分を深見重治と名乗った。

 その男は己を養っていた女が死んだことによって、女が相伴していた金銭を代わりに受け取ろうとしてやって来たらしい。男は雄人に面会をする前に俺の顔を拝みに来たと言った。俺の顔を見て、あははと哂っていた。

 男は俺の前に屹立すると、下卑た声で俺の鼓膜を振るわせた。

「お前、久流水桐人は久流水家の人間ではない」

 それが男の齎した崩壊の言葉だった。男の連れ合いだった女、浅井ハルは助産婦をしていた。その女は俺の出生の秘密を知ったという。一〇数年前、浅井ハルの下の娘がやってきた。久流水マリヤ。不義の子を堕胎するためにハルの下へやって来たという。それは近親相姦の証だった。ハルは多分の報酬を貰いマリヤに堕胎薬を処方した。ところが堕胎薬を与えようとも、ちっとも胎が萎まぬ。奇異しい。胎から兒の心音が聞こえぬのだ。ハルは焦った。マリヤは妊娠をしていないのではないか。だとすれば、多分の報酬を貰うことの理由がなくなる。ハルは報酬が取り上げられることを懼れてマリヤ達にもう堕胎ができぬ期間に入った、これはもう生むしかない、と宣った。そしてマリヤの胎を裂いた。ハルがマリヤの胎を裂くと、それは恐ろしいものが飛び出したという。

 それは未完成の人間だった。人間になりきれなかった人間の一部だった。乳児や髪の毛、爪が生えた肉の塊だった。

 皮様嚢胞腫。卵巣の内部にできる卵巣腫瘍の一種、奇形腫。その腫瘍の内部には油、毛髪、骨、歯牙、皮下脂肪組織など未完成の人間の組織体が詰まっている。卵巣に液状成分が溜まって腫れることが原因と謂われているが、一説には双子の片割れが胎内で一方の胎児に吸収されていたものともいわれている。腫瘍内の組織体は本体である患者が成長するとともに、大きく成長を遂げる。未完成の人間が腫瘍化したもの。

 久流水マリヤはそれを妊娠したと勘違いしていた。処女懐胎の真相だった。そしてマリヤは生めぬ待ち針であった。

 そこで浅井ハルは一計を案じた。近親相姦と思い込んでいるならばそう思わせておこう。それをネタに一生に渡って金を掠め取ろうではないか。では脅すためにはいかなる方法が効果的だろう。ハルが思いついたのはマリヤに兒を授けることだった。浅井ハルの下には兒の処分をもちかけられることがしばしばあった。それらの兒の中から適当な兒をマリヤに与えればよい。兒が手元にあれば罪の意識の大きさが異なる。罪の十字架を負わせれば脅迫は効果的になる。そして見つけたのが白子症の兒だった。白子症ならば近親相姦の証になり、重い十字架を背負わせることができる。白子症の兒が、久流水家と血の繋がらぬ兒がマリヤに授けられた。

 しかし、思わぬ誤算が起こった。白子症の兒が罪の十字架としての機しがなかった。マリヤが兒を連れて死陰谷村に帰ると、兒はヨハネの默示録のイエスと同じ容姿をしているということで神の子として扱われるようになった。哲幹は婿の雄人にハルに適当な額を支払い続けることを命じたきり。ハルはそれを不満に思いながらも、特段の手段を講じることなく、死ぬまで適当な援助を受け続けたということだった。これが深見重治の俺、久流水桐人に話した出生の秘密だった。

 俺は久流水家の人間ではなかった。俺が胎児の時に感じながらも、生まれてより感じなくなったあの母の呪い。あれはマリヤの声ではなかった。

 俺は己の出生の秘密を知った。しかしそれがどうした。俺の今は変わらぬ。俺の目の前にいる深見重治という下卑た老人に浅井ハルに代わって金を支払い続ければいい。俺は深見に雄人ところに行き、適当な金を支払って貰えと言った。すると深見重治がこう言った。

『ハルは適当な額で満足しただろうが、わしはそうはいかない。相当の額を頂く心算だ。錯誤でハルは久流水家から金を得ていたが、俺は真実をもって金を頂く。お前が久流水家の子でないことをネタにして金を頂こう。皆は驚くだろうな。神は死んだ、と脅してやる』。

 そう言うと深見重治は俺の眼前に瓶詰めの恐ろしいモノを突きつけた。瓶詰めになっていたモノ。未完成の人間(Homunculus)だった。本当の神となるべき者の残骸だった。瓶の中にはゆらゆらと肉の塊が浮いていた。久流水マリヤの腹の中に巣食っていた腫物の残骸だった。漂う肉の塊からは水藻の様に揺れる真ッ黒な髪の毛が生え、真珠の如く鮮やかに輝く乳歯が付いていた。生命の残骸。羊水の中で漂う胎児のようであった。

 深見重治はこれで脅迫をしてやるとニヤニヤ哂った。

 そんなこと許されるものか! 俺が神の子でないことが久流水家の人間に明らかにされればどうなる。久流水家の人間は己を支えるべき支柱を失って狂乱するだろう。そして俺を放逐してしまうだろう。感覚の世界、母胎の中の夢は瓦解してしまう。甘美たる、多いなる夢を見る事ができぬ。夢の中の住人でいたい。

 そして……。

 気付くと血に濡れた男の遺体がそこにあった。俺はエデンの園を守るため、彼に地を這わせた。神に近付かんとするバベルの塔の住人に落雷を落とした。真夜中、俺は男の遺体をリリトの胎の中に押し込んだ。俺が聖母の胎にあるなら、奴は妖婦の胎がお似合いだ。

 俺はその晩、安寧の床に着いた。甘美なる夢を見るために。

 だが一度覚めた夢は再び見ること能わない。翌日、俺は夢が根底から崩れていくのを感じた。

 それは俺の義父から齎された。俺はその朝、いつものようにまどろみ続けていた。半覚醒をしながら、ウトウトと床に寝転がっていた。そこに雄人がやって来た。雄人は俺の寝台を覗き込んだが俺が寝ていると思ったらしく、俺の寝台の下で独りごち始めた。

 昨日、深見重治が久流水家を尋ねてきたが、雄人の下には訪れなかったと言った。美麗門を潜ってはいるが出て行った形跡がない。雄人はマリヤを哲幹の言い付けで妻として引き受けたほどの忠義心からか、深見重治に金が払えぬことを気に病んでいた。忠義が果たせぬことを気にしていた子羊だった。

それを独りごちると、寝ている俺にこう願ったのだ。

『それ神の言には能はぬ所なし。桐人様、耶蘇久流水教を救ってください。貴方は神だ。桐人様、お気づきですか。死陰谷村は衰退していくしかないことを。この前の農地改革によって所有地は激減しました。そして久流水家には後継者がいません。百合子さん、直弓さんはもう子が埋めぬ体になっております。教司神父はその役職ゆえに童貞を貫かんとしています。マリヤは妊娠とは無縁の人間です。

 哲幹様の血を受け継ぐ者は久流水家には貴方以外にはいない。そして貴方以降に久流水家にその血を引き継がんとする者はいない。

ご存知ですか。国民優性法を。一九四〇年に永井潜の建議案によって成立したあの法律です。今年一九四八年に『この法律は、優性上の見地から不良な子孫を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする』ことを掲げて優生保護法として新たに成立する法律のことを。これらの法律は『精神病、精神薄弱、遺伝性精神病質、遺伝性疾患又は遺伝性奇型を有する』者に対して『優生手術』、いわば去勢をしてしまう法律です。『本人及び配偶者の同意』を得て行なうと定められていますがね。白子症もこれが適用されます。それに貴方の伯母の由紀子さんは籟病によって亡くなっています。優生保護法一四条二項には『本人又は配偶者の四親等以内の血族関係にある者が』、精神病、遺伝性疾患等に罹っていた場合も適用されます。

 お解かりでしょう。貴方もいずれ優生手術を受けることになるでしょう。今までのように哲幹様の力は及ばなくなりつつあります。貴方の代で久流水家は、耶蘇久流水教は終わってしまいます。久流水家が滅びようとも信仰のみが残ることはあり得ましょう。しかし、それが残ってどうなるのでしょうか。久流水教は久流水家を中心としていたからこそ成立している宗教なのです。耶蘇久流水教は崩壊に向かいつつあります。現に耶蘇久流水教の信者は僅かずつですが減少しています。耶蘇久流水教はもう衰退してゆくしかないのです。

 衰退してゆく久流水家はもう貴方しか頼みの綱がありません。桐人様、どうか奇跡を起して戴けませんでしょうか。神よ、貴方の力を見せて下さい』

 雄人は延々と俺に願った。俺の寝台の側で跪いていた。

 俺はとんでもない深淵に立たされている。俺は昨日、己の夢の床のために深見重治を亡きものにした。翌日になってその感覚の世界自体が崩壊の危機に立たされている。危機を救うためには、俺が神として奇跡を起すことが求められている。俺にそんな奇跡なぞ起こせるわけない。ならば起こさずに諦観するか。否、それは無理というものだ。俺が無視をしてしまえば俺が神でないことの証明になってしまう。神としての求心力を失い、夢の寝床、母胎回帰が許されなくなってしまう。あはは、あはは――。

 何という馬鹿げたことだろうか。俺は何者なのだ。神の子として奇跡を起こせと願われる。だが俺には叶えられっこない。俺は砂漠の中でぽつんと突っ立ているしかない。俺は無力であり、放擲されようとしている。俺は母胎の内で思考した日々を思い出した。なぜあの時首を縊ることができなかったのか。

 俺は寝台の上で絶望していた。身を震わせていた。暫くそうしていただろうか。俺は寝台から、フトッ見た。俺に祈り続けていた久流水雄人がいまだに寝台の側で跪いている。俺にすべてを、何もかもを、預けている男がいた。

 神は死んだのだ? 人間を神として崇める者はいいだろう。だが崇められる側、神は人間であってはならない。俺は神ではない。

 俺を見てみろ。俺は生まれながら不自由なき感覚の世界に放り込まれた。そこで崇められ、眠りを貪ればよかったはずだ。俺は愛されていたのだろうか。俺は幸福なる渦中にいたというのだろうか。寧ろ生まれながらにして不幸だったと言えはしまいか。神として生まれたことこそが俺の不幸だったのではないか。俺は呪いの言葉を吐いていた実母に生まれ、そこで忌み嫌われながらも生きていった方が遥かに幸せだったのではないか。人間として生きた方が幸福だったのではないか。

 俺は憎くなった。俺を神として崇めた人間を。俺を偽りの楽園に住まわせた久流水家の人間を。俺は、憎くて、憎くて、仕方がなくなっていた。俺の生命はお前たちの手中にあった。俺は自分の生命を自分の手の中に戻したい。

 俺は久流水家を滅ぼすことに決めた。奴らは俺を神として崇めている。ならば俺は神として奴らを滅ぼそう。奴らは俺が殺人に及んでも、それが天罰、終末だとして甘んじて殺されるに違いない。俺は苦なく、久流水家を滅ぼせるだろう。奴らにとって俺は神なのだから。あはは。 

 俺は明日五月九日に日蝕があるのを知った。ならばヨハネの默示録に見立ててやろう。そうすれば、奴らは被害者であり共犯者になる。俺が久流水家の血を滅ぼしてやろう。見立てによって死ぬのは四人。確実に血を絶やしてやる。

 まず手始めに俺に祈っていた雄人に矢を放った。俺には確証があった。たとえ誰かに見られようとも久流水家の人間は積極的に俺を犯人として告発などはしないと。俺は興奮に打ち震えた。俺は生きていると実感した。俺の意思によって俺は生きている。俺は人間なのだと。俺はその充実した感覚を深見重治が眠るリリトの胎内納品仏の前で告白したくなった。深見重治は俺に生を与えた。俺はリリトに跪いた。あそこで尨犬に吠えられるとは思わなかった。あの時、山羊の剥製を被っていたのは俺の人間の証明たるが故。山羊は神に退けられた生き物。俺は神を退きたい人間。俺と重なって見えた。直弓を殺すのは簡単だった。あいつは熱心な信者だった。それに教司神父の殺害時に妄信的であるが故に俺を犯人として認識しなかった。あいつは俺が天秤を振りかざすとニコリと笑って進んで死んでいってくれた。阿見光治の殺害は誤算だった。あいつは十字架の中から何を見つけたと思う? あいつが見つけたのは、あの深見重治が脅迫のネタに齎したあの瓶詰めの未完成の人間だった。俺が深見重治を殺した後にそっと隠していた。阿見光治はそのことから処女懐胎の真実を見抜き、俺が久流水家の人間でないこと、深見重治が脅していたわけを知り、殺害の動機がある者は誰かということに気付いた。俺はたまたま阿見が十字架の扉を開く現場を目撃した。俺は慌てて奴を殺して瓶詰めの人間を回収した。最後は久流水穂邑だ。俺は奴を殺害した。俺は奴が扉を開くなり、槍を付きたてた。奴は驚いた顔をして俺の槍を胸に受けた。奴は唯一この事件が俺によるものであることを知らなかったからね。穂邑は久流水家にありながら不信者だったから、終末論なんてことは閃かなかった。奴にとっては予定調和ではなかったからね。穂邑は俺の第二手を恐れて自ら扉を閉めたのだ。鍵を掛けてねェ。偶然にして密室ができあがったというわけさ。これが事件の真相だ。俺が神の名を借りて、人間として殺害に及んだ。それが事の真相だったのだ。あはは、あはは」

 久流水桐人の哂い声が地下聖堂中に谺した。薄暗く、薄ら寒い、真夜中の神聖なる場所に哂い声が響き渡った。哂い声は聖堂中の燭台の炎を揺らしたかのように思われた。ゆらゆらと……。その哂いは嘲笑なのか、冷笑なのか、苦笑なのか、哄笑なのか、その性質は解り得なかった。何故なら此処に神になった者は彼以外にいないのだから。桐人を取巻く聖堂中の人々は桐人の哂いに息を呑んでいた。  

 桐人は暫く哂い続けていたが、哂い疲れたのか、頚をがくりと落としてホウッと息を吐いた。その息のせいで桐人の側にあった燭台の炎はフッと消えてしまった。辺りは深ッと静まり返っていた。皆がみな、神だった男の告白にものが言えなかった。

「桐人……。神の重圧に耐えられなかったのですね。妾は貴方の苦しみに気付いて挙げられなかった。ごめんなさい……」

 沈黙を破ったのは久流水マリヤだった。マリヤは瞳に涙を浮かべていた。それは母性に充ちた母親の顔だった。マリヤは手を桐人に差し伸べ、一歩一歩近付いていった。震える体で、人間として、息子として桐人を抱締めようとしていた。

 マリヤが桐人の前に出て、抱締めようとした時だった。桐人はそれをスッと避けて、御堂周一郎の方へ歩を進めた。桐人にとってマリヤは眼中にないものか。マリヤは息子の振舞いに呆然した。桐人は母の抱擁を拒んだ。

「御堂さん、補足することはありますか?」

 桐人は母親の振舞いなどどこ吹く風といった按配で御堂に意見を求めていた。御堂は桐人に訊ねられると暫しジッと桐人の顔を見詰めて嘆息した。

「俺からは特にはない。君は満足したのかい」

「ええ、大満足ですよ。『貴方は神ではありませんね』と、そう言って頂き有難うありがとうごいました」

 桐人は御堂に対して頭を下げた。神だった男が頭を下げた。皆はその出来事に固唾を呑んでいた。暫くそうしていただろうか、桐人がスウッと頭を上げた。そこに皆は恐ろしいものを見た。

「あはは、あはは」

 桐人の顔は哂っていた。あの冷笑とも何とも付かぬ哂いをしていた。その哂い顔のまま、桐人を取巻く久流水家の人々の顔を順繰りに見ていった。マリヤ、阿紀良、万里雄、益田老人、清枝、百合子、帥彦……。

「默示録は第四の封印まで解かれた。だが俺の目的は久流水家の殲滅にある。まだ七人も残っているではないか。彼らを殺さねば俺の目的を達したことにならない。俺はお前達皆すべて殺す!」


第五の封印を解き給ひたれば、曾ての神の言のため、またその立てし證のために殺されし者の靈魂の祭壇のしたに在るを見たり。 彼ら大聲に呼はりて言ふ『聖にして眞なる主よ、何時まで審かずして地に住む者に我らの血の復讐をなし給はぬか』                  ヨハネの默示録第六章九―一〇節




Ⅱ神の罰 Brimstore and fire


ヱホバ硫黄と火をヱホバの所より即ち天よりソドムとゴモラに雨しめ 其邑と低地と其邑の居民および地に生ふるところの物を盡く滅ぼし給へり

                       創世記第一九章二四―二五節


「ヤイッ、久流水桐人! 君はこの期に及んでまだ凶行を犯さんとしているのか。素直に縛に付かんか」

 平戸警部が身を乗り出さんばかりの姿勢で叫んだ。

「桐人様!」

 久流水阿紀良も同調して叫んだ。久方ぶりに聴くような感じがした。久流水桐人はもう神ではない。

「桐人、止めなさい!」

 久流水マリヤが二人に続いた。岩田の位置からは、マリヤの表情などは解らなかったが、後姿だけ見ても一週間見ていたあの神聖さは薄れているように思われた。肩は打ち振るえ、声も弱弱しかった。

 その他の久流水家の人々は先程の無言であった状態から覚めたようで、口々に騒ぎ始めた。

 その時だった。ある一人の大声が辺りの雑踏を一斉に制した。

「貴様、何をするつもりだ!」

 ざわめく一同を制したのは御堂周一郎だった。岩田は御堂を見上げた。御堂は唇を噛締めて、黒眼鏡越しに桐人を睨みつけていた。拳がギュッと握られ、今にも桐人に飛び掛らんようだった。

 御堂の言葉に久流水桐人は口角をニイッと上げて応えた。その立ち姿は地上の人間の為に悪の計画を発表せんとする堕天使のよう。桐人は御堂に哂い掛けると、くるりと踵を返して寝台に向かった。桐人は寝台に冷笑とともに寝台に座した。

「あはは、あはは。言葉のままさ。皆に死んで貰うのだよ。俺と一緒にね。俺は久流水家への復讐を果たす。そして同時に己の身を滅ぼすのだ。 俺は殺人によって生きているということを感じた。だが復讐が終わった後どうなる。俺は畢竟にして生きていけない。胎児である時間が長すぎた。今更、蒼天の空気を吸うことなどできないだろう。温床で育った薔薇が荒原で育たぬように。

『あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである』。芥川龍之介が『侏儒の言葉』で言ったとおりだ。神は自殺ができない。でも俺はもう人間だ! 自殺ができるのだ! 死ぬ権利があるのだ! 自殺は僕にとっての人間としての証なのだ! 俺は死んでやる。神にできない自殺という手段で! 人間として死んでやる。久流水家の人間を全員殺して人間として生き、自殺して人間として死ぬ。俺は人間なのだ!」

 そう言うなり、狂乱の桐人は周りにある燭台を一斉に倒した。蝋燭から零れ落ちた炎は一気に燃え広がった。ケルビムの天蓋は一斉に炎に包まれた。

 桐人は炎に包まれて焼身自殺をする気か。

 炎は先程の蝋燭の芯を焦がしていた様相とは一変して、ボウボウッと真ッ赤で凶暴な顔を見せ、桐人の寝台を包み込んでいた。取巻く人々が一斉に後ずさった。炎の勢いは激しく、見る見るうちに寝台を焼いていった。岩田が炎の灯に目を細めて桐人の寝台に眼を向けると、炎に包まれる天蓋の奥に真ッ黒な人影が見え、同時にその影の主からの嘲笑が聞こえて来た。

「あはは、あはは。君たちは不思議に思っているだろ。これでは俺だけが炎に包まれて独りの自殺ではないかと思っているだろ。莫迦か? 君たちはこういうことは知っているかい。あるエジプトの墓の扉を学者が開いた。すると何千年も外気に触れることの無かった墓の中には王の寝床には赤々と炎が燈されていた。何千年も炎が墓の中で燃え続けていたのかな? 否、違う。学者が扉を開けたという行為が王の寝床に灯を燈すスイッチになっていたのだよ。扉を開けることで自動的に中で灯が付く巧繰になっていたのだよ。

 この地下聖堂はその仕組みの逆の巧繰が組み込まれている。炎を寝台に付けると、聖堂の扉が自動的に閉まってしまう構造になっている。あはは、晩年俺のせいで影が薄くなった哲幹が嫉妬して俺が過失で寝台で小火を起してしまった時に、上の聖堂の信者ごと焼死させるための罠だったかもねェ。それならば、この久流水家に電灯がないのも頷けるね。炎を使って貰わなければ哲幹の復讐は完成しないからね。

 あはは、あはは。君たちは見たはずだ。この地下聖堂に描かれている迷宮図を。『ヱホバ硫黄と火をヱホバの所より即ち天よりソドムとゴモラに雨しめ 其邑と低地と其邑の居民および地に生ふるところの物を盡く滅ぼし給へり』という聖句が描かれていたはずだ。思い出したかい? こいつは哲幹が仕掛けた天罰の巧繰だったのだよ。君達も僕と一緒に死ぬがいい! あはは、あはは」

 人影は嘲笑とともに炎に包まれて見えなくなった。だがその哂い声はいつまでも地下聖堂中に響き続けていた。

「哲幹様の天罰ですって!」

 久流水哲幹を慕っていた清枝が叫んだ。清枝は気を失わんが如く蹌いた。側にいた老人が杖をついた老体で必死に支えた。

 その隣では同じ様に気を失い掛けた百合子を帥彦が懸命に揺り動かしていた。

「何ということを!」

 久流水万里雄が叫んだ。万里雄の表情は多毛によって判別つきかねるが明らかに慌てふためいていた。

その時だった。狼狽する皆の中からマリヤが身を乗り出した。

「桐人ォ、桐人ォ」

 久流水マリヤが桐人の名を叫びながら燃え盛る寝台に飛び込んだ。血の繋がりがなくとも母子の情愛があったのだろう。マリヤは子のいる燃え盛る寝台に飛び込んだ。マリヤが飛び込むとそれを契機に寝台は一層勢いを増して燃えた。

 地下聖堂の中に母の悲痛な叫びが木魂した。聖母久流水マリヤは子、桐人と伴に死を選んだ。

 それはアッと間の出来事であり、あたりにいる者は止めようがなく呆然と見ていただけだった。その炎の勢いからもうマリヤを救うことなどできないことは明らかだった。感傷に浸っている暇はなかった。炎は勢いを増して桐人とマリヤだけでなく、皆も呑み込もうとしていた。一同は混乱の渦に叩き込まれていた。

 このままでは焼き死ぬ! 亜里沙よ、どうしたらよいのだ?

「皆さん!落ち着いて下さい。執りあえず炎から遠ざかりましょう! 地下聖堂から上の聖堂に出ましょう! ここに居続けていても死期を早めるだけだ。桐人はそうは言ったがひょっとしたら出鱈目かもしれない。巧繰なんて存在していないかもしれない。聖堂を出ましょう」

 冷静な判断を下したのは平戸警部だった。警部に皆従った。

皆は一斉に地下聖堂の出口に向かった。岩田は最後尾で皆の後に付いて行った。出口は一斉に人が集まり混乱の呈を示した。岩田は後ろをフト振り返った。

 ケルビムの寝台は累累と炎に包まれていた。それは炎の柱のようであった。薄暗い地下聖堂を煌煌と照らしていた。地下聖堂のあらゆる物に引火し始めていた。トランプやロイヤル・ゲーム・オブ・ウル等の遊戯具は炎に焦がされつつあった。すべては燃え盛り炎々としていた。何もかもが炎に包まれる。すべてが灰燼に帰すのだ。真ッ白な灰と、真ッ黒な炭となってしまう――。

 だがあの久流水桐人の哂い声だけは燃えつきることは無かった。地下聖堂の隅々まで、否、世界の両端まで響き続けていた。何もかもを冷笑しようと……。

「あはは、あはは」

 平戸警部の誘導によって、皆は地下聖堂より聖クリストポルスの石盤の入口から上階の聖堂に這い出した。平戸警部と万里雄は聖堂に出るなり、聖堂入口の重い扉に走った。扉の前に着くなり、何度も扉を揺らし、ドンッ、ドンッと扉に体当たりをした。しかし扉はビクともしなかった。やはり桐人の言うとおり扉は自動的に鍵が掛けられてしまっていた。

「妾たちはもうこれで終わりなの?」

 百合子が聖堂の中央で泣き崩れた。それに同調して清枝、老人、阿紀良も同じく聖堂中央でへたり込んだ。絶望が充満していた。

 もうこれで僕は死ぬのか。岩田は死の迫る絶望に慄き、そして震えていた。

 地下聖堂は火が充分に回ったのだろう。閉じられた聖クリストポルスの石盤の隙間からモクモクと真ッ黒な煙が徐々に侵入し始めていた。真ッ黒な煙は段々と皆の足元を埋め始めていた。

 もう終りなのだな。岩田は死の迫る恐怖に麻痺してしまったのだろうか。岩田は不思議に何の感情も起きなかった。体の震えも、忍び寄る真ッ黒な煙を見ている内に止まっていた。黒煙は岩田の胸の所まで上って来ていた。

 岩田は皆を改めて見直した。黒煙が迫って来ているためにもう座り込んではいなかったが、それでも全身から諦観の赴きが窺えた。

 平戸警部だけは扉に体当たりを続けていた。ドンッ、ドンッと虚しい音だけが響いていた。

 アッ、そういえば御堂はどうしているのだ?

 岩田はぐるりと黒煙が漂い始めた聖堂中を見回した。御堂の姿は金の十字架の祭壇の前にあった。

 御堂は祭壇の前でジッと腕を組んで眉間に皴を寄せていた。その表情は険しく、何かを考え込んでいるようであり、腰下に漂う黒煙がその表情をより深刻に見せていた。

 御堂は何を考えている? もう考えるべきことは何もないだろうに。

「御堂ッ、楽に死ねる方法でも考えているのか?」

 御堂は岩田をちらりと見ると、そう応えた。

「莫迦か? お前は気が付いていないのか。あの天罰の聖句『ヱホバ硫黄と火をヱホバの所より即ち天よりソドムとゴモラに雨しめ 其邑と低地と其邑の居民および地に生ふるところの物を盡く滅ぼし給へり』が迷宮図と一緒に書かれていたことを」

 天罰の聖句が迷宮図に描かれている?

「岩田ッ。迷宮図にはどんな意味があるか知っているか。迷宮は一般では迷路の同義語として使われている。しかし本来の迷宮は迷路と違う。出口も入口も一緒で一つきりの隘路をいうのだよ。だから奥へ奥へと進んでいる心算がもといた入口に戻ってしまう。迷宮は薄暗い中に進み、そして最終的に明るい日の当たる場所に戻る。これは人間が死を受け、そして生を享受することの象徴だ。迷宮の象徴は死と再生なのだよ。その死と再生の象徴にソドムの天罰の場面と一緒に書かれている。これはどういうことだ?」

 御堂は死を目睫に迎えんとしていても未だにそんなことに考えを巡らせているのか。

 御堂は何か閃いたのか、顔をスッと上げた。

「そういうことか。俺はなぜ今まで思い出さなかったのだろうか。死と再生だ。今俺達が陥っている状況は、まさに死ではないか! ならば、この死に対応する再生があるはずだ!」

 御堂はそう言うと、皆が集まる聖堂の中央に走った。御堂は聖堂の中央に着くなりこう言った。

「御堂ッ、何を思い当たった?」

 口元まで上がって来た黒煙を岩田は手で押さえて言った。煙は岩田の五臓の空間を埋め始めていた。意識が朦朧として来ていた。

 御堂は口角を上げて言った。

「莫迦か? 落ち着け。いいかい、なぜソドムの天罰が死と再生の象徴である迷宮図と一緒に描かれていたのか、それを見極めれば俺たちは助かるのだよ。今俺らが陥っているのは当然に死という状況だ。ならば迷宮のもう一つの象徴である再生が何処かにあってもいいはずだ。それはどこか。簡単なことだったのだ。それは今俺たちの足元にあるのだよ!」

 御堂の言葉に久流水家の一同、扉から戻って来た平戸警部、そして岩田が一斉に自分達の足元、聖堂中央の床に目を向けた。

 そこには迷宮図が描かれていた。『やその騎士』に描かれていた。阿見が平戸警部と一緒にあの地下聖堂の入口を発見した場面で『聖堂の床には、石を叩くモーセの円い画を《視よ我そこにて汝の前にあたりてホレブの磐に立ん汝磐を撃つべし然せば其より水出でん民これを飮むべしモーセすなはちイスラエルの長老等の前にて斯おこなへり》の聖句が縁取り、それを取り囲む様に迷宮図が描かれていた』と、あったではないか。地下聖堂に迷宮図が描かれているのと同じく上階の聖堂にも迷宮図は描かれていた。

 皆が迷宮図に吸い寄せられたのを確認すると御堂は続けた。

「『視よ我そこにて汝の前にあたりてホレブの磐に立ん汝磐を撃つべし然せば其より水出でん民これを飮むべしモーセすなはちイスラエルの長老等の前にて斯おこなへり』。これはモーセが出エジプトの際に砂漠で水が無くなったので神が水を与え、民衆はこれで死の渇きから逃れたという場面だ。火が死として使われるなら、再生は水だ。哲幹はもしあの炎の仕掛けが誤作動を起した場合に備えて安全装置としてこれを用意していたのだろう。

おそらくこの聖句と同じようにここに描かれているモーセの画を叩くことで何処からか水が湧き出すはずだ!」

 御堂がそう言い放つと、平戸警部が益田老人の持っていた杖を奪い取り、モーセの画を強く叩いた。しかし、カンッという乾いた音が虚しくするばかりで何も起こることはなかった。 

「何も起こらないではないですか!」

 平戸警部が杖を投げ捨てて、御堂に食らい付いた。警部ばかりでない。取り囲む皆も同じ気持ちだった。一瞬の希望はより絶望を大きくする。皆の顔には先程より大きな絶望が滲み出ていた。

「ちょっと叩いた暗いで巧繰が作動するわけないだろ。それ位で作動するなら、誰かが避難の際にそれを偶々足で踏みつけたら直ぐに作動してしまう。そうしたら下の炎の仕掛けの意味がなくなる。多分この画を破壊するほどの力で壊すべきだろう」

「破壊するほどといったところで破壊するための道具か何かがないと無理でしょう」

 久流水万里雄が叫んだ。それを聞くと御堂は少し顔を顰めた。

「チョッ、仕方ない。人に見せるものじゃあないのだけれどもな」

 御堂はそう言うなり、顔を真っ直ぐ上に向けた。気管支等を地面に垂直にせんばかりの角度だった。御堂はその姿勢をすると両手で腹を押さえつけた。

するとどうだろう。眼の前で信じられぬことが起こった。御堂の口からヌッと何か棒状のものが現れ出しだではないか。

 ググッ、ググッ。

 御堂の口から、否、食道から朱塗りの棒切れが徐々に徐々に天頂に向かって迫り出して来た。そして粗方その姿を現したかと思われたところで御堂はそれに手を伸ばして一気に抜き取った。

「御堂、それは?」

 岩田は黒煙に苦しめながらも御堂に尋ねた。

「呑剣術。食道に鞘に収めた小さな剣を隠し持つ技だ。密偵で大陸にいた時に、現地の支那の奇術師に習ったのさ。俺みたいな職業をしていると、いろいろ危ないことにも巻き込まれるからな」

 御堂は呑剣術のせいで咳き込みながら解説した。呼吸を整えて朱塗りの鞘から剣を抜いた。

「これならばモーセの画を破壊できるだろう。さあ、桐人。お前の奇計もこれで御終いだ!」

 御堂はそう言うと、剣を頭上に振りかざした。

「われ磐を撃たん。然せば其より水出でん! ヤアッ」

 カチィン! パァン!

 御堂の一閃の気合と共に、朱塗り鞘の剣はモーセの穏やかな御姿を貫いた。


視よ我洪水を地に起して凡て生命の氣息ある肉なる者を天下より剪滅し絶たん地にをる者は皆死ぬべし。                創世記第六章一七節


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