Θ 黄金律 Golden law 1948,5,4(TUE)

Ⅰタラント蜘蛛 Ariane


おやおや、こやつ、気でも触れたか、あの踊りよう! 

さてはタラント蜘蛛にでもやられたか 

      アーサー・マーフィー『間違いだらけ』、若しくはポー『黄金虫』


 五月四日は名探偵シャーロック・ホームズと宿敵モリアーティ教授がライヘンバッハの滝壺に落ちた日だ。名探偵が逐電した日に探偵が望む密室殺人事件が発生し、それを解決せねばならぬのは何かしらの因縁か。

 警察による久流水一族の人々の事情聴取が終わった後、阿見の呼びかけにより御堂、平戸警部、岩田が聖餐の間に会した。御堂は阿見と同席することに気が進まなかったようだが、岩田と平戸警部の説得によって参加することになった。

「では要点の復習といきましょうか」

 阿見はそう言うと辺りを見回した。

「まず教司氏の動きから始めましょう。教司神父は聖堂で万里雄氏と阿紀良氏に見送られて写字室に向かいました。それが午前九時です。ほぼ同刻に直弓と清枝が墓地近くの四阿で出会い、そこから直弓と清枝は四阿で一二時まで議論を続けていた。教司神父のいる写字室に向かうには彼女達の前を通らなければならない。

だがその間に彼女達の前を通ったのは益田老人だけです。一二時になり直弓さんと清枝さんは聖餐の間に戻ります。聖餐の間には桐人を除く全員が揃っており、遺体が発見される一三時までに聖餐の間を出た者はいない。証言がすべて正しいとすれば、九時から一三時までに久流水家の人々の中で写字室に出入りした者はいない。密室殺人事件の亜種ともいえる事件ですネ。開かれた密室と言うべきか」

 阿見はここまで言うと皆の顔を窺った。平戸警部は小さく頷き、御堂も異論はないようでジッと腕を組んだまま聞き入っていた。

「九時から一三時の桐人のアリバイはどうなのですかネ」

「桐人君のアリバイは関係者の中で最も完璧に近いよ。アリバイの証言者が何よりこの私なのだからね」

 平戸警部は阿見の問いに応えると続けて言った。

「午前一〇時頃だ。私は桐人君がいる地下聖堂に行き、昨日中断してしまった事情聴取をしようとした。昨日と同じ調子でただ怯えるばかりで話にもならなかったがね。私はその後地下聖堂を出ると上の聖堂で遺体発見の通報がなされる一三時まで過ごした。その間、桐人君は地下から出ることはなかった。午前九時からは直弓さん達が写字室への人の出入りを見ていて、誰も通らなかったと証言している。桐人君は九時から一三時までのアリバイがあることになる」

「貴方の目を逃れる脱出トリックなんかはないのかネ?」

「地下聖堂には秘密の出入り口なんてなかったよ」

「秘密の入口なんて期待していないよ。第一に『ノックスの十戒』に違反するじゃあないか。それじゃあ面白くないですしネ。では他の人間のアリバイはどうですか?」

「他の人間の一二時前までアリバイははっきりしない。一二時少し前からの桐人以外のアリバイは皆さんが証明できるでしょうけど。それにアリバイがなかろうと、直弓と清枝の証言がある限り益田老人以外の人間は写字室に近付いていないことになる。単純に考えれば益田老人が犯人になるが。では、益田老人が犯人としてどうやって殺したと思います?」

 岩田は阿見と平戸の二人のやり取りに続いて訊ねた。

「何言っているのですか。簡単でしょう。羽目殺しがあったとはいえ、窓に僅かばかりの隙間があるでしょう。窓に近寄って来た教司神父をその僅かな隙間から剣を差込んで殺したのでは?」

 岩田の問いに平戸警部が呆れた様に応えた。それまでずっと黙って長い髪を弄っていた御堂がこれに代って応えた。

「莫迦か? それが成立するには幾つかの課題があるだろ。第一に剣が四尺であること。いいかい、老人の体躯はおおよそ四尺といったところだ。ならば老人は自分の体長と同じほどの剣を持ち歩いていたというのかい。それとも老人が持っていた葡萄の杖が仕込み杖だったとでも? 俺はあの剣を見たが、どう見ても仕込み杖の様な安普請の剣ではなかったぞ。それとも老人のダルマティカに剣を隠し持っていたとでも言うのか? 不可能だ! 第二に直弓女史たちの証言がある。彼女らがそんな益田老人を見て咎めないと思うか? 清枝さんが老人の写字室の窓での様子を見ているのだぞ。老人が怪しい行動をしていたと証言したか?」

「清枝は老人の愛人です。証言に信用がない。それに別に凶器を持ち運ぶ必要がないではないか。あらかじめ写字室の付近に隠しておけば問題がないでは?」

「莫迦か、平戸君。遺体の位置を覚えているか? 遺体は窓の側にあったのではないのだぞ。遺体は真ん中にあったのだよ。」

 御堂がそこまで言うと岩田は反駁した。

「御堂は剣が神父まで届かないとも?それは解決できるだろ。老人は神父に窓越しにこう言ったのじゃあないのか。『立ち話も疲れるだろうから、椅子を持ってきて話したらどうだ』と。あの書斎の椅子は革張りの車輪付きだったよね。教司神父を窓の側で車輪つきの椅子に座らせればいいのだよ。益田老人は他愛無い話をして教司神父を油断させ、隙を見て神父の胸に剣を突き立てた。 神父は椅子の中で絶命する。神父の死を見届けた後、老人は神父の遺体を車輪付きの椅子ごと、すうッと床を滑らせたのだよ。椅子に乗った遺体は部屋の中心あたりで止まる。そうすれば問題がないじゃないのか」

 岩田が一気にいうと御堂は肩を落として、ふうッと息を吐いた。

「莫迦か?岩田。お前は現場で何を見ていた?さては遺体に畏怖して部屋を確りと見ていなかったな。いいかい、机と窓、椅子若しくは遺体の位置関係を考えればそんなことは不可能だ。よく思い出せ。それに老人の証言の『窓越しに部屋を覗いても見当たらず』をどう見る?」

 岩田は御堂に指摘されて、はッと気付いた。神父の遺体は椅子から滑り落ちんばかりに、だらりとした体勢を採っていた。加えて遺体は机の陰に隠れんばかりだったではないか。おそらく老人が覗いた窓からも机が陰になって遺体が見えなかったのではないだろうか。ならば窓と遺体の間に机があったことになるではないか。そうならば椅子の車輪を使って遺体を動かすことはできない。動かそうにも、机が障害になる。

「益田老人による犯行は無理と?」

「無理とは言わんさ、可能性は無限だからね」

「その可能性から最も確実なものを選び出すのが探偵の仕事だろ。無限かどうか知らないが、可能性の少ないものは排除する。最後に残った可能性の高いものを真相とする。君は最も可能性のありそうなものを捨てたのだ。ならば益田老人には無理と考えるのが妥当でしょう」

 御堂の言葉を拾って阿見が言った。

「まあいい、取敢えず益田犯人説の可能性が低いとするならば、一体誰だ。写字室に近付いた者はいないぞ」

 平戸警部がそう言うと、阿見は続けた。

「直弓と清枝の証言は信用に足るのかネ?」

 ずっと阿見と平戸警部の遣り取りを聴いていた御堂が言った。

「この事件は結局においてそこになるのだよ、阿見。今回の事件は証言をどこまで信じるかということなのだよ」

 御堂が髪を掻き揚げて言うと、岩田はその意図が判った。

「教司氏が九時に写字室に入ったと証言しているのは万里雄氏と阿紀良氏の二人。この二人が嘘をついているとしたら教司神父の入りの時間はおそらく九時より遥か前になり、直弓と清枝の証言の意味はなくなり、誰でも九時以前になら犯行が出来ることになる。特に嘘をついた万里雄と阿紀良の共犯説か、彼ら二人が誰かを庇っているのかということになる。同様に直弓と清枝の証言が嘘ならば、誰でも犯行が可能となる。その際にはこれもまた二人の共犯説と、誰かを庇っているという説が浮上する。桐人も九時から一〇時までのアリバイはないから全ての人間に犯行が可能となる。次は益田老人だ。益田老人が嘘をついているならば教司神父は生きていたことになる。そうするならば犯人は益田老人その人か、それ以降に部屋に入った誰かになる。併し先程において益田犯人説が消えたのだから犯人はそのほかの誰かとなる。その他の誰かとなれば写字室に誰かが訪れていたことになり、直弓と清枝の証言が嘘にもなり、結局、先程と同じように誰でも犯行が可能になる。誰か一人の証言を嘘と見做すならば結局皆が容疑者になってしまう。証言を疑うことが犯人の特定をさせることにはならず、むしろ誰でも犯人である可能性を広めるだけだ。誰かの証言を一つでも疑えば、不可能犯罪ではなくなるが、それは同時に誰でも可能な犯罪になる。証言を疑うことが返って真実から遠ざかる! 証言者は誰も嘘を付かないという前提を認めたほうが事件を解決し易くなるのだな。奇異しなものだ。まるで量子力学だ。運動を知ろうとしたら位置が判らず、位置を知ろうとしたら運動が判らない。犯人を指定すれば、密室は不可能ではなくなる。不可能を疑えば犯人は指定できない」

 岩田がそこまで言うと、御堂が真ッ赤な支那服の弛みを大きく揺らせて哂った。

「あはは、探偵小説のような事件とは難しいものだね。誰でも、全員が嘘を付いている可能性があるのに、俺らは無意識の内に大半の登場人物の言っていることを全面的に信じて真相は、犯人は誰とか言っている。俺らは物語陳述が信用できると保証する機能(Authenticatin function)が常に働いていると考えている。でもこいつはあくまで慣習にしか過ぎないのは明らかなことだ。世の中には矛盾の無い嘘なんて幾らでもあるのに、犯人以外の登場人物は『矛盾のない嘘』すら付かないという前提に立って証言の矛盾を求めて、嘘を見つけだそうとしている。ノックスが『読者が疑うことのできないような人物は犯人であってはならない』という項目を先頭に挙げた理由が判るよ。すべてが疑えたら謎も何もないからねェ。読者が勝手に一人相撲をとっている可能性だってのだからね。探偵小説とは何だ。虚構の中に虚実を求めるものなのに読者は虚構の中にも真実と虚偽があるという認識に立って、頭を捻らせ謎解きをする。

 例えばこうだ。登場人物の皆が扉に鍵か掛かっていたと証言する。すると読者はこれを密室と見なして鍵の具合はどうか、トリックはあれかと推理する。莫迦か? その推理の前提となる条件自体が正しいなんて証明しようがないのに。登場人物が揃って鍵が掛かっていたと証言したら、密室が出来上がる。皆が嘘を付いていれば全員が犯人、『オリエント急行殺人事件』だと考える。だが実際はそんなこと無理だ。さっきも言った様に人は嘘を付く心算がなくても嘘を付くことがある。皆が皆、幻覚を見る様な精神状態の奴かもしれない。登場人物凡てが、容疑者も、被害者も、探偵も、警察も、作者ですら、皆が皆、頭が狂うているのかもしれない。全員狂っていないと考えて事件を解こうとする! 探偵作家は機械仕掛けの神である探偵の強引な推理を妄信的に信じて、『ああ、なるほどねぇ。こいつはリアリティがあるなぁ』なんて言いやがる! 作者も、犯人も、証言者も、第三者に公正と現実性を約束した覚えがなくても、第三者は小説が自分の思い通りに進まないと公正や現実性がないとして怒り出す。今回の事件もそうだ。皆が証言していることが正しいという前提に立つからこそ、探偵小説的な不可能犯罪が創り上げられている。そして創り上げられた不可能犯罪を解こうとしている。クダラナイ。全ての証言を疑えば、不可能なんてないのに。探偵小説馬鹿が!」

「お前は久流水家の人間の凡てが犯人だと言いたいのかネ!」

御堂の長広舌に続いて阿見が反駁した。

「そういうことではない。全員が嘘を付いて不可能犯罪を作り出す必要が何処にある? 寧ろ誰にでも可能か、証言者の誰でも可能でないという結論が出る証言でなくては全員が嘘を付く必然性がないだろ。確証が持てないものでも、信じるしかない。信じて頭を捻らせるしかない。嘘を付いている人がいるかもしれないがその場合は犯人による嘘だ。その他の人間は全くの嘘は付かない、現実と矛盾していない嘘だろうと、ここに不可解な事件があると信じてやっていくしかないということだ! それは信仰に似ている。神の存在証明が最終的に信仰、信じるという行為でしか証明が出来ないように不可能な犯罪も信じるという行為でしか不可能たり得ないのだ。だが気を付けろ、お前の信じているものは金製の牛なのかも知れないぞ! 信じる事が真実を創り出す。探偵小説も一種の信仰さ」

「御高説はもういい。 何が言いたいのだネ」

 阿見が御堂に詰め寄ると、御堂は静かに言った。

「今回の事件ではすべての証言者が嘘を付いてないと考えるしかないということさ。この事件では人々がモーセの十戒の『汝その隣人に對して虚妄の證據をたつるなかれ』を律儀に守っていると考えて推理していくべきだということだ。嘘を付かない。これがこの事件解決のルールさ。この事件が探偵小説として発表され、読者の眼に触れる場合には、読者に忠告しておかねばならないね。この事件については誰も嘘は付いていないと。嘘を付いていない事を前提として謎を解いて下さい、とね」


(1)犯人は小説の初めから登場している人物でなくてはならない。又、読者が疑うことのできないような人物が犯人であってはならない。(例、物語の記述者が犯人)


(2)探偵方法に超自然力を用いてはならない。(例、神託、読心術など)
(3)秘密の通路や秘密室を用いてはいけない。


(4)科学上未確定の毒物や、非常にむつかしい科学的説明を要する毒物を使ってはいけない。


(5)中華人を登場せしめてはいけない。(西洋人には中華人は何となく超自然、超合理な感じを与えるからであろう)


(6)偶然の発見や探偵の直感によって事件を解決してはいけない。


(7)探偵自身が犯人であってはならない。


(8)読者の知らない手がかりによって解決してはいけない。


(9)ワトスン役は彼自身の判断を全部読者に知らせるべきである。又、ワトスン役は一般読者よりごく僅か智力のにぶい人物がよろしい。


(10)双生児や変装による二人一役は、予め読者に双生児の存在を知らせ、又は変装者が役者などの前歴を持っていることを知らせた上でなくては、用いてはならない。

                 ロナルド・A・ノックス『陸橋殺人事件』



Ⅱ赤い水 aqua 


朝はやく興きいでしに水の上に日昇りゐて對面の水血の如くに赤かりければモアブ人これを見て いひけるはこれ乃ち血なり王たち戰ひて死にたるならん互いに相撃ちたるなるべし然ばモアブよ掠取に行けと 而してモアブ人イスラエルの陣營に至るにイスラエル人起ちてこれを撃ちければすなはちその前より逃げはしれり是においてイスラエル人進みてモアブ人を撃ちてその國にいり

                      列王紀略下第三章二二―二四節


「穂邑君。犯人は君ですね!」

 阿見は穂邑の部屋に入るなり口走った。穂邑の部屋は黄水館の1階西側にあり、内装は岩田と御堂の部屋と同じく円形の卓子一つに二脚の椅子と寝台に本棚といった至って殺風景なものであった。部屋には穂邑の妻である百合子もいた穂邑は相変わらず黒い背広を崩した風体をしていた。穂邑は慇懃無礼な阿見の行為に一瞬たじろいだが、直ぐに言い返した。

「いきなり何だ! 貴様は!」

「お芝居が上手ですネ。彫刻家でなくて俳優を生業にした方が良かったのじゃあないのかネ。さっきは聖餐の間で御堂君が訳の判らない奇異しな演説をやらかして犯人が写字室に行けなかったことを強調したかったようだが、穂邑君、貴方が犯人ならばあの不可解性は簡単に蹴りがつく」

 神父殺害事件について談義を重ねていたときだった。阿見はいきなり笑い出して、「犯人が判った。そんなクダラナイ高説でもないではないか。今から無能な君たちを犯人の下に案内しよう」と言って岩田らを連れて穂邑の部屋に向った。阿見は気障な立居振舞いで穂邑に攻め寄った。

「いいですか、そもそもあの事件を複雑怪奇にしていたのは直弓と清枝の証言ですネ。彼女たち二人の証言があるからこそ写字室に向かった者がおらず、不可解な状況ができあがったのですよ。けれども彼女たちの証言が嘘と考えることは返って事件を真相から遠ざけることになる。なるほど証言は疑えないかもしれない。しかしですネ、彼らの証言を疑わずとも教司神父を殺す方法が一つだけあるのですよ。それができるのは穂邑君、君だけだよ」

 阿見は先程の御堂の演説を取り入れながら一気に捲し立てた。阿見の勢い立った様子に百合子は怯えたようだった。百合子は部屋の隅から阿見と視線を合わせまいとしていた。穂邑は阿見の様子を呆れながらジッと見ていたが、口角をキュッと歪めた。

「ハッ、莫迦らしい。何を根拠に言っているのだッ、貴様は! 根拠はあるのだろうな」

 阿見は自信満々の様子でニッと哂うと、後ろを振り返り御堂を見て勝ち誇ったような笑みを見せて、再び穂邑に視線を合わせた。

「ははは、殺された時間を直弓と清枝両名が監視していた時間である九時から一二時と考えるからこの事件は不可能犯罪となり、密室が成立しているのですネ。つまり九時から一二時の間以外では写字室は密室ではなくなるのですネ。では、いつ殺されたのでしょうかネ。九時以前? それは違いますネ。それは九時に教司神父が写字室に入っていくのを見たという万里雄氏と阿紀良氏の証言を否定することになる。御堂君の言う通りに、嘘を付くものがいないという前提に立つ必要がありますからネ。そうすると殺害時間は一二時以降になりますネ。

だがここで反論が起こるでしょう。一二時以降は久流水家全員のアリバイがある、犯行は無理だと。果たしてそうでしょうか。果たして本当に一二時以降から一三時の遺体発見の間までに誰も殺害の機会がなかったのでしょうか。いいえ、ほんの僅かですがありますネ。そうです。遺体発見をした瞬間です。

 あの時、穂邑君と百合子さん、帥彦の三人は写字室に向かいました。三人が写字室に入ると直ぐに二組に分かれましたネ。百合子さんと帥彦は写字室の前面の印刷室で姦淫聖書ならぬ殺人聖書を発見して慄くことになりましたネ。一方の穂邑君は写字室に入ると百合子さんたちと別れて奥の書斎に向かいました。そうです、この時に殺人が行われたのですよ。 奥の書斎と印刷室は一応壁で仕切られていますが扉はないのですよネ。百合子さん達のいる写字室からは奥の書斎の全体を見ることができないのですネ。

 穂邑君はその百合子さん達の死角に隠れて神父に剣を突き刺したのです。 遺体発見と殺害が同時に行われたのですよ。 何と恐ろしきトリックでしょう。 僕でなくては解決出できなかったトリックでしょう! どうです、穂邑君。犯人は君でしょう。どうですか、間違いありませんネ」

「はッ、何言いやがる! 神父を刺した剣はどうした。 俺が百合子たちと写字室に向かった際に、剣を肩から下げていたとでも言うのか」

 阿見の長広舌に穂邑が反論した。阿見は余裕の表情を見せた。

「悪足掻きも大概にしなさい。剣は問題ではありませんよ。剣はあらかじめ書斎の何処かに隠していたのではないですか。それをもって教司神父を刺したのではないですか!」

 それまで阿見と穂邑の遣り取りを黙って聴いていた御堂が哂いながら言った。

「莫迦か? 阿見ッ。遺体発見と殺害が同時に行われただと? そんなトリックが成立する訳ないだろう。よく探偵小説にはそのようなトリックが使われているが考えてみろ。そんなトリックは成立し得ない。特に今回の場合はな」

「どういう意味ですかネ。御堂君。僕の推理が間違っているとでもいいたいのかネ?」

 阿見がそう言うと、御堂は静かに応えた。

「いいか、 阿見の言う様に遺体発見時に殺害が行われていたら、死亡時間は即ち発見時間と同じ一三時ということになるだろ。一三時の遺体発見から直ぐに久流水家に残っていた数名の警官に通達されたのだろ?」

 御堂はそういうと、平戸警部を見た。平戸警部は首肯した。

「サテだ。阿見のトリックが使われていたとしたら、死亡直後の一三時数分には警察によって遺体の確認が行われたことになる。警官は殺害直後の遺体を見たのだぞ。さて平戸君、教司神父の志望推定時間はいつだ? 一三時だったかね?」

「否、あれは殺された直後ではない。死後二時間以上経っていたものだ。噴出した血の海の淵が乾き始めていた」

そういうことか。岩田は御堂の意図に気付いた。よく探偵小説でこの種のトリック、遺体発見時と殺害時が同時というトリックは実際の殺害時間と架空の殺害時間が極めて近い状態ではないと成立しない。そもそも今回ならば一二時から一三時には皆アリバイがある。架空の殺害時間を遺体発見時間に極めて近付けることは不可能だ。むしろ自分の首を絞めてしまうことになる。

「辺獄を知れば、地獄の深さを知る。阿見には詩人ヴィルギリウスの案内がなかった。ベアトリーチェも微笑まない。失態は仕方がないかも知れない。それにそのトリックが成立するためには、教司神父が剣を前にした穂邑氏を見付けても何ら抵抗しなかった前提となる。刃物を持った怪人を前にして大声でも立てられたら一発でトリックは駄目になる。するとどうだ。教司神父はあらかじめ薬で眠らせてあったのか? 睡眠薬を飲ませる余裕があるならば、そのときにトリカブトでも飲ませればいいだろ!」

 御堂が捲し立てると、阿見は唇を噛締めて顔を真ッ赤にして御堂を睨み付けた。先程の勝ち誇ったような笑いは何処に行ったのか。

「調子に乗らないでくれよ、御堂君。そもそも君は現場検証に立ち会えたが、僕は立ち会えなかったのですよ。たまたま君に運があっただけです。 それに君ならば、この事件をどう解決する気ですか?さぞかし論理的な推理を行うのでしょうネ! さあ、君の推理を教え給え! 犯人は誰ですかネ。 透明怪人か、蝿男か、それとも幽霊男か」

「幽霊! 噫々、何と恐ろしい、義人様の亡霊!」

 阿見の発言に返答をしたのは、御堂ではなく、ずっと黙っていた百合子だった。


止めてみよう、たたられてもいい。待て、まぼろし。

きさまに口がきけるなら、声があるなら、

話してくれ。

きさまの功徳になり、われわれにとっても

ためになるようなことがあるというなら、

話してくれ。

あらかじめ知っておれば避けられるかもしれない

この国の不幸な運命を知っているなら、

頼む、話してくれ!

         ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』



Ⅲ薔薇の名前 Il Nome Della Rosa


わたしたちが薔薇と呼んでいるあの花の、名がなんと変わろうとも、薫りにちがいはない筈よ     ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』


 風が鳴る、ごうごう、と。

岩田らは穂邑と百合子に連れられて城壁の外側を壁に沿って西側へ進んでいった。部屋からずっと百合子は一切言葉を発することはなかった。ただ黙黙と歩き続けていた。百合子は肩を落として、ゆっくりと滑るような足取りに対して、穂邑は絶えず肩を怒らせ、険しい顔をして苦虫を噛締めんばかりであった。空はいつの間にか暗澹たる黒雲がどんよりと垂れ込めていた。真綿で全身を囲まれたような息苦しい湿気が如何ともしがたい重苦しさを与えた。陰鬱な行進。向かう先は冥府か、天国か。

「此処ですわ。この西側(occidens)こそが義人様、殺された(occidere)義人様の眠っていた場所です」

 先頭を進んでいた百合子が、ぴたりと足を止めた。『そこには十字架が立っており、少し下の方には、窪地に一つの墓があった』(ジョン・バミヤン『天路暦程』)。墓は白く塗られており、薄汚れていた。墓銘碑には魚を模った象形が描かれており、ICHTHUSと小さく書かれていた。暮銘には『この石の下、久流水義人とこしへに眠る。悪しき世は悪しき人を生めり、良き世は又良き人を作らん〝人は悪魔ならず神ならず人以外の何の者にもあらず〟』と書かれていた。

 荒廃した墓銘碑とは対照的に墓石の周囲には五月の薔薇が咲き乱れていた。薔薇の美しさなくても美しい薔薇はある。五月の薔薇は陰鬱な空にも何もいわず微笑みを湛えていた。

 風が吹き荒ぶ。

「『汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまの穢れとにて満つ』。マタイ傳曰く、偽善者。久流水義人の墓。女がかつて愛した男の墓。何故彼は独りで西に眠っているのか」

 御堂の声は静かに響いた。百合子は偽善者の墓を見詰めていた。

「久流水義人――。妾がかつて愛した男」

 百合子が悲哀の衣を纏うと、隣にいる今愛されるべきはずの男、久流水穂邑は続けた。

「そして彼は俺の最も憎むべき男だった」

 風が鳴る、びょうびょう、と。

「妾と義人様は幼き日からとても仲良しでした。年齢も近く、まるで兄妹の様に常に一緒にいましたわ。妾はいつも義人様の後について回っていました。義人様は不思議な方でした。義人様は神に好かれた人だったのでしょう。義人様は哲幹様の血を最も多く受け継いだ存在、預言者でした。桐人様が生まれるまで義人様こそ、哲幹様に次ぐ崇拝の対象でしたわ。村の人々は義人様を敬い、崇拝していました。けれども当の義人様は自身が崇拝されていることを露とも思わず、気負わず、どんな方にも優しく接していましたわ。妾はいつも義人様の背中を見ていました」

風が舞う、くるりくるり、と。

「ですけれど、可愛らしい少女と少年も時が経てば大人になります。破瓜期を迎えて少女は恋という感情があることを知りました。その若々しい萌芽の感情は、最も身近な優しき男性に向けられました。義人様の方も妾が抱いた感情と同じものを、同じ時期に抱き、妾を好いてくれましたわ。いつの頃からか、妾と義人様の関係は兄妹から異性の関係へと移行していきました。私は今でも覚えています。義人様の妾を慈しむ薔薇色の瞳を。妾達の秘密の感情は誰にも久流水家の誰にも知られることもなく幸せな時を過ごしていました。

 妾たちはこの秘密の感情をいつか堂々と告白していずれは一緒になろうと約束し合っていましたわ。そんなときです。妾に縁談の話が持ち上がったのは……」

 風が止まる、ほんの一瞬だけ。

「その縁談の相手こそが俺だった」

 穂邑の声が蠢いた。

 風が鳴る、だんだん、と。

「穂邑さんとの結婚の話は哲幹様から持ち込まれました。穂邑さんは辣腕政治家の御子息でした。同時に新進気鋭の彫刻家として、その道では名を上げ始めていました。哲幹様が妾に穂邑さんをあてようとした理由はお分かりでしょう? 妾と穂邑さんの結婚は当時日本の黒幕として隆盛を極めていた哲幹様が、より自分の地位を強固するために計らったものです」

「俺は百合子に対して勘定はなかった。いや、初めはあったさ。実家の地位をより確固たるものにするため、俺の藝術家としての後ろ盾を得るためと目論み、百合子に近付いた。『藝術はパンに従う』というようにな。

 そんな目論みも百合子と接していく内に消え去っていった。『ああ、五月の薔薇、かわいい乙女』。俺はいつの頃か、百合子と一緒になりたいと心から思うようになっていた」

「妾は苦しかった。二人の愛が哲幹様という神にも等しい方が。哲幹様は絶対でした。穂邑さんは素晴らしい方です。妾は途方にくれました。妾の心は既に義人様のものなのに。妾の魂は義人様に繋がれているはずなのに。

 嗚呼、人は何と恐ろしいものなのでしょう。心を喪えば、世界を喪う。世界を喪えば、浮揚華となる。心を喪った妾はある恐ろしい計画を思い付いたのです!」

 風が止まる、ぴたり、と。

「俺は百合子の不審な行動に気付いた。俺が何万語の愛の言葉を並べようとも、百合子は上の空だった。俺は百合子の行動を探偵し始めた。彼女が何を見て何を思い煩っているか。何を心の闇の奥底にしまい込んでいるのか。蒼天の下に何の薄暗い秘密を隠しているのか……。

 暫くすると百合子が何やら怪しげな青い小瓶を手に入れていたことを知った。俺は百合子の目が届かないうちに、そっと青い小瓶を拝借した。その小瓶には『stigma』のラベルが張ってあった。一体百合子は何をしようというのか。 俺は小瓶の中身をシュレーディンガーという名の白い飼猫に飲ませてみた。するとどうだ。猫の体は忽ち動きを失っていったじゃあないか。 筋肉は弛緩し、眼は虚ろとなり、口からは涎を垂らし始めたじゃあないか。仕舞いには猫はグッタリと横たわってしまった。

 ヘベノンだ。サマエルの毒薬だ。百合子はこの毒薬で何をしようというのだ? 考えられるのは一つしかなかった。心中だ! 百合子は義人と心中する気なのだ! 永遠の愛の証を得る気なのだ! 百合子の性格からして、それ以外に考えられない。百合子がこの毒を俺に飲ませるようなことは考えられない。百合子の心の内にそのような悪はない。心中としか考えられなかった」

 風が鳴る、ごうごう、と。

「心中なんて許せる訳がない! 死という運命をともにさせてたまるか! この毒薬は百合子には返さない。返してはならない。だが毒薬を取り上げようと心中を止めるとは限らない。此岸に生きる術が無限にあるように彼岸へ向かう術も無限にあるものだ。

 義人と俺が二人いるから宜しくない。百合子に愛を捧げるのは、どちらか一人だけだ。俺は義人を殺そうとも考えた。けれども俺の矜持が許さぬ。それは卑怯だ。俺もあの時は若かった。己を縛り付けるものがない若者は、時として無謀になる。若さは自ら溺れる危険だ。英雄主義のために盲目になる。俺は義人に決闘を申し込んだ」

 風が激しさを増す。五月の薔薇を吹き飛ばされんばかりに。

「薔薇の下に俺らは決闘を行なった。方法は毒杯決闘――。二つの杯の一方に百合子の用意した毒を入れ、俺と義人はそれぞれ杯を取る。どちらか一方が毒杯に当たって死ぬ。お互いに遺書を書いてどちらが死んでも自殺と見做されるようにした。遺書には決闘のことは書かないと、互いに約束して……。

 俺と義人、二人は同時に杯を口に運んだ。赤色の液体が二人の咽喉に嚥下された。生と死、愛と悲恋、二人の運命の美酒が。

 勝敗は呆気なく付いた。義人は杯と口付けすると間もなく、額に汗を浮かべて真ッ赤に眼を見開いた。その眼はパンドラの箱の中身をソッと覗いたように驚愕、恐怖、焦燥に充たされていた。だがその開かされた目も直ぐに精彩が失われていった。虹彩には輝きが失せていき、口元は歪んで行った。

「主よ、今こそ御言に循ひて僕を安らかに逝かしめ給ふなれ」

 恋敵はそう言うなりすべてを悟ったような表情をするとぐらりと上体を揺らすなり、倒れて大地と永遠の接吻をした。俺が勝ったのだ。百合子は俺のものになったのだ。俺は哂った。運命を哂った。あはは、あはは」

 風が五月の薔薇の根を弱らせた。今にも何処かに消し去ろうと。

 かああッ、かああッ。

 上空には風に乗った真ッ黒な怪鳥が鳴き声を上げた。

「見て下さい、義人様の眠る場所を。死を取り囲む美しい薔薇を。墓の辺に咲く薔薇は美しい。奇麗な薔薇でしょう。ちっとも枯れていない。自殺した者は地獄の第七圏で、枯れゆく樹木となって永遠に苦しみ続ける。義人様の死後暫くして、妾はこの墓の薔薇の美しさに気付きましたわ。墓地に咲く薔薇は美しい。 義人様は自殺ではない。 自殺ならば、薔薇は枯れているはず。薔薇は天国の最上の姿。自殺という大罪を行なった者の回りに咲くことはない。美しい薔薇は、薔薇の美しさを宿すことはありません。

 妾は穂邑さんを問い詰めました。義人様の死後、直ぐ様妾の良人となった穂邑さんを。最初に義人さんの死を見付けた穂邑さんを。穂邑さんは渋りながらも、話してくれました。義人様との決闘を。 嗚呼、それを聞いた時、妾はどんなに心乱れたでしょう。私の良人として妾の眼の前にいる方は、妾の愛した男に毒を飲ませた男だったとは。

 妾は穂邑さんを恨む気にはなりませんでしたわ。その行為は妾を愛するが故の行為ですもの。妾の優柔不断さが二人に決闘させたのですわ。責められるのは妾です。ですが穂邑さんが更に続けた詳細に妾は愕然としてしまいました。

嗚呼、使われた毒は、妾の用意した物だったと言うではありませんか。また穂邑さんは妾と義人様が心中するために毒薬を用意したと思い込んでいた言うではありませんか。妾はそこに恐ろしき錯誤を見ました。妾が毒を用意したのは、心中するためではありません! 駆け落ちのためです」

 悲しき風が、びょうびょう、と。

「あの薬は人を仮死状態にする薬なのです。妾はあのロミオとジュリエットが目論んだように二人同時に仮死状態となって、皆に死んだものと見せかけて二人と墓地に埋葬される。四二時間後にあらかじめ言い含めていた帥彦に墓を掘り起こして貰って、この久流水家から二人で逃げ出す心算だったのです。

 けれど何の運命の悪戯か、義人様だけが薬を飲み、死者として埋葬されてしまいました。当初の計画のように帥彦が墓を掘り起こすことなどありません。 義人様はさぞかし驚いたでしょう。目を覚ますと真ッ暗な棺桶の中に閉じ込められているのですもの。その時の義人様のお気持ちはどのようなものだったのでしょう。 早すぎだ埋葬。これほど恐ろしきことがこの世に在りましょうか。幾ら涙の谷でもこれほどの恐ろしきことは在りません。妾はその恐怖を想像して、何と妾は罪深い女であろうと思いました。

 そう思うと、私は居ても立っても居られずに皆様に事情を話して、義人様の墓を掘り起こして貰いました。ええ、判っていました。今さら掘り起こしても、あるのは生きながら死者として扱われた義人様の恐ろしき形相の遺体だけであることを! ですが妾はそれでも義人様に拝顔しとうございいましたわ。義人様の前で我が罪を謝りとうございいましたわ。 けれども私の望みは叶えられませんでした。墓を掘り起こし、棺を開けるとなんと棺は空だったのです」

 風は何も言わない。薔薇は華を揺らす。

「義人様が眠るべき死者の床はその主を無くしていたのです。棺の中には義人様を包んでいた亜麻の骸布と脱出しようと義人さんが爪で引っかいた傷跡のみ。義人様の姿は無くなっていたのです。

 義人様は自力で、若しくは第三者の手を経て棺から脱出していたのです。私を残してこの世界に復活した。『義人なし、一人だになし、聰き者なく、神を求むる者なし』。いいえ、義人様は亡くなったわけではありません。ですが、妾の脳裏に死者の復活が過ったのには理由があるのです! 義人様が決闘の際に残した自殺に見せかけるための遺書です。遺書にはこう書かれていました」


――まことに汝らに告ぐ、此處にたつ者のうちに、神の國の、權能をもて來るを見るまでは、死は味はぬ者どもあり――


風が静かに響いた、ごおう、ごおう。

「義人様は妾を恨んでいることでしょう。この罪深き女を許さないことでしょう。義人様を苦しませたままに茫漠と生き永らえているこの妾を。妾の心には後を追おうとも考えましたわ。でも妾にはできません。『この胸、これがお前の鞘なのよ。さあ、そのままにいて、私と死なせておくれ』。ジュリエットのような死を妾は迎えることはできませんでした。妾は神に従えるもの。神に与えられた命を捨てるわけにはいきませんから」

 風は騒ぐ、夜の獣の臭いを嗅ぎ付けて。薔薇は枯れんとする。朝の絶望を思い出して。

「俺と百合子は不和になった。当然だ。百合子の心には未だ久流水義人がいて俺の頭には角が生えているのだからな」

 百合子は腰に下げた貝殻状のReliquiae(聖遺物入れ)を掌に乗せた。

「戦後間もなく、授かった子供は小頭症で直ぐに死にました。妾たちの子供ばかりではありません。直弓と英良さんの子供もです。義人様は妾達を恨めしく思っているでしょう。妾達の動向を見張っているでしょう。今も妾たちを見ているはずです。あはは」

風はすべてを知っている。けれど姿は見えない。薔薇はすべてを包み込む。けれど止ったままだ。


風は己が好むところに吹く、汝その聲を聞けども、何處より來り何處へ往くを知らず。すべて靈によりて生まるる者も斯くのごとし

                        ヨハネ傳福音書第三章八節


Ⅳ宇宙生物学 Cosmobiology


およそ天球は、人間各自に、その運勢にしたがい

目的を定めますが、かれは

天球の作用のみか、

発源の蒸気がいとも高く、目にも見えぬ

神の大いなる恩恵を

雨の様に浴び、

青春の盛りに大いなる可能性に

恵まれました。彼の秀れた資質はことごとく

立派な驚嘆すべき行為に具現化し得た態のものでした。

                          ダンテ『神曲 煉獄篇』


 『蝙蝠が寂しく飛び出し、かぶと虫が凄い魔女に呼び出されて眠そうな羽音をたてて、夜の欠伸を促し顔に鳴き渡る前に、容易ならぬ恐ろしいことが……』。シェイクスピアの名文が似合いそうな夜だった。夜の帳は既に閉じ、暗雲から覗く三日月の一条の光が僅かに嫋嫋と地表を照らしていた。すべてが寝静まり、在るのは二人の顰めく声と小さな衣擦れ。無限の闇が二人を包み込んだ。

「男と女は不思議なものですね。誰とて純粋に愛している心算でも時として悲惨が顔を覗かせる。結果は行為を駆逐する。たとえ始めが純愛であろうとも、結果が悲劇ならばそれを純愛と見做す者はいない。『すべて善き果を結ばぬ樹は、伐られて火に投げいらる』。お芝居の中だけですよ、純愛なんて。芝居は行為を見せる。でも現実は結果だけしか見せない。純粋な魂が生きるには世界は余りにも窮屈だ。皆はその窮屈さに気付いても忘却しようとする。誰だって怖いからね、汚れた悲しみの淵を見るのは」

「貴方はどうでしたの? 亜里沙さんとは純愛でしたか?」

「誰だって人を愛したい。でも現実はそんなものじゃあない。僕も亜里沙と小さいながらも確実な幸せを築こうと思った。でも僕も亜里沙も自覚なきワガママだった。幸せになろうとして自ら不幸の淵へと進んでいった。不幸になる事をお互いの所為にした。自分が可愛いものさ、誰だって」

 暫くの沈黙が続いた。岩田はマリヤに今宵も語り合った。傷が癒えそうな気がして。岩田とマリヤは墓地を逍遥していた。永遠の眠りが約束された夜の地は現世の悲しみを誤魔化した。

 岩田とマリヤは沈黙のまま暫く歩いた。赤い鉄の錨を配置した陰府を北に抜けて時計台を左にした。右側の手前には何やら白い建物があり、その奥には小高く盛られた石と土の塙があり、その頂点には五尺ほどの木製の十字架が立てられていた。二人はその手前の塙に登り、頂点で腰を下ろした。十字架は単純な木僕を重ねたものではなく、小さな黒色の扉の付いた意匠の凝ったものであった。黒の扉には緋色で『QUID EST VERITA』と浅浮き彫りがしてあった。マリヤに訊くと此処は髑髏の丘というそうだ。二人は無限に続く大宇宙を見上げた。体が無間に吸い込まれることを夢幻して。

「この宇宙には幾らの星があるのでしょうね。 神は四日目にこの宇宙を創り、昼と夜を生み出した。ガリレオの『偽金鑑識官』にはこうあります。『哲学は宇宙というこの広大な書物の中に書かれてある。この書物は何時も我々の目の前に開かれている』って。私たちの生き方、運命は全て宇宙に描かれているのかしら? ただ私達がそれを読み取れないだけで……」

「運命なんてありはしないさ。僕らは自由だ。現に自分の意思で貴女の前にいるじゃあないか」

 闇が二人の間を妨げていた。 

「奇異しなものね、人間って。運命を認めると息苦しさを感じて神を恨む。何故僕を自由にしないのだ、と。 でも自由を感じるとぼんやりとした不安を感じて神を恨む。何故僕を一人にするの、と。 神を恨んで、神はいないという」

「貴方は運命というヤツを信じるのかい?」

「私は運命から逃れられないのですもの。私だけではありませんわ。この村の人全員そうよ。あのイエスだって運命の星の下に生まれたのだから」

「イエスの運命の星? ベツレヘムの星のことですか」

「ええ、創世記の生命の木を模した、あの降誕祭のツリーの頂点にある星よ。ねえ、イエスがいつ生まれたかご存じ?」

「西暦0年でしょう。イエスの生誕年を0年として聖ビードが西暦を定めたのですから」

「実際は西暦0年数年前みたいなの」

「いつなのですか?」

「イエスの生年を特定する手掛かりが聖書にあるの。ルカ傳には『その頃、天下の人を戸籍に著かすべき詔令、カイザル・アウグストより出つ』とあるの。イエスの父ヨセフと母マリヤはこの命を受けてベツレヘムに向かった。そのころ人口調査が行われたのは羅馬皇帝による紀元前七年と、シリア提督の行なった紀元前六年の二回。ここからキリストの誕生年は紀元前七年以降になるでしょ。マタイ傳には『イエスはヘロデ王の時、ユダヤのベツレヘムに生まれ給ひしが』とあるの。ヘロデ王が亡くなった年は紀元前四年以前とされているの。この二つから、イエスの生まれた年は紀元前七年から四年になるでしょう」

なんだか難しくなって来たね」

「面白くない? これを更に絞り込むための手掛かりもマタイ傳にあるの。『我ら東にてその星を見たれば、拜せんために來れり』と『前に東にて見し星、先だち行き手、幼兒の在すところの上に止る』という二つ。東方の三博士はベツレヘムの星に導かれてイエスの誕生を祝福したのね。

 この記述から三つのことが判るでしょう。一つは星が最低二回輝いたこと。二つ目はこの星が滅多に現れないこと。いつも輝いている星であるわけないわよね。三つ目はその星は肉眼で見えるほどの輝きをもっていること。それに当てはまる星は何か。多くの学者がそれを解明しようとした。

 その中でも最も有力なのがあの『太陽の三法則』を発見したケプラーの説。ケプラーはベツレヘムの星を魚座の西側で木星と土星が寄り添う現象と考えた。これは三連会合が起こる星といわれている。三連会合というのは同じ現象が三度起こることをいうのね。この三連会合は当然二回以上、三回輝く。いつも見える訳ではない。三つ重なっているのだから、輝きはかなりのもの。ベツレヘムの星の条件にピッタリでしょ。イエスを象徴する魚の正座と重なるのもいいじゃない。この現象は紀元前七年に起こっているの。さっきの紀元前七年から四年にも当てはまる。そう、イエスの誕生年は紀元前七年が正しいようですの」

「熱心だね。運命の話はどうしたの?」

「そう、運命よ。二〇世紀に入ってまたこの稀有な現象が木星と土星、魚座の三連会合が起こったの。その時に生まれたのが、あの白髪の無原罪の方です。 彼は神の子としてイエス・キリストの再来としての運命を背負うことになっていたのです」

 マリヤの声はいつしか高潮していた。

「止めないか、これ以上は」

 岩田は聴きたくなかった。聖女から自分より愛されているであろう者のことを訊きたくない。岩田にとってマリヤは聖女でなくてはならなかった。他の男の母の臭いをさせる事は許せなかった。聖女は自分にしか微笑まなければならなかった。皆の敬虔の的であることは必要ない。岩田の女王でありさえすればよかった。ベアトリーチェは一人にしか微笑まなくてはならない。マリヤ、僕以外をその瞳に映さないでおくれ。

 暫し沈黙の夜。時が止まり、夜の闇が静かに哂う。闇は暫く哂った後、哂い顔を残して、姿を消した。あはは、あはは。

「ごめんなさい。止めましょう。でも人間って悲しいものね。運命を背負うなんて。背負わないと均衡を失うのに背負うと苦しい。私の運命は何かしら? ここに縛られることかしら?」

「いつか解放されますよ」

「そうかしら?」

「僕は亜里沙の想い出から逃れられていない。僕も解き放たれるときがあるのでしょうか」

「一緒に進みましょう、無限で無間な夢幻の世界へ」

 風が彼女の香水『non péché』の柔らかな芳香を闇夜に運んだ。 闇夜は裂け目に顰めく人の匂いを残して、すべてを消した。消えて欲しかった……。


善人になりたい、誰だってそう思うさ!

だが残念だよ、この星の上では

ものは少ないし人間は残酷だ。

仲良く暮らしたくないやつはいない。

だが世の中ってえものはそんなもんじゃない。

                         ブレヒ『三文オペラ』

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