Γ 天国の門 Bab-ili 1948,5,3(MON)

おお君たち小さな船にいる人よ、君達は歌いつつ進む私の船の後から、

聴きたさのあまりついて来たが 君達の岸を指して帰るがいい、沖合に出るな、君たちは恐らく 私を見失い、途方に暮れるにちがいない。

私が乗り出す海はかつて人が走ったことのない海だ、ミネルヴァが風を吹き、アポロンが私を導く、そして九人の詩神が私に大熊座を示してくれる

                         ダンテ『神曲 天国篇』 


――此処が天都門村――

 空には暗雲が立ち込め、どんよりと翳り始めた。ひょうッと風が啼き、虎落る。ばさりと一匹の鳥が男たちの頭上を掠め飛ぶ。此処には季節外れの日差しはもうない。日入りにはまだ少し時間がある筈だ。僅かの時間でこれほど天候は変わってしまうのか。それともこの辺りだけ太陽は避けているのか。

 彼は辺りを見渡した。あるのは鬱蒼とした山々。静かにじッと此方を窺うのみ。山頂から裾野に目を向けると青々とした葉をつけた葡萄畑が傾斜をなした一帯の土地に広がっている。山々は猫の額ほどの小さな土地を囲繞して擂鉢状の盆地をつくる。

 彼は改めて擂鉢の底を見る。僅かな平野には寄せ合う様にぎゅうッぎゅうッと農家屋が軒を並べて犇き合っていた。

――向こうの端にある城塞の様な建物が目的の場所です――

 案内役である黒服の神父が言った。

 農家屋の犇めく村には場違いな建物が其処にあった。中世ヨーロッパに迷込んだ様に錯覚させるゴチック様式の大聖堂。 この国の黒幕であり世紀の預言者の最後の咆哮。 終幕の藝術。周囲を真円形の城壁で囲み、幾数か点在している壮麗な装飾を成した石建築。冥府と地続きとなった墓地。ゴルコダの丘の様な塙。白色の十字架も聳え立つ。城壁の中心に十字架の形を見せて位置しているのは聖堂だろうか? 其処に現実感はなかった。あるのは神を信じる者の神聖な情熱と不信心者の不気味さ。

――鬼が出るか、蛇が出るか、果たしてそれとも神なのか――

 真ッ赤な支那服の男が言った。支那服の男は女のように肩まで伸ばした真っ黒な髪を、風に任せて棚引かせていた。

――見給え、道祖神だ。道祖神は村と外の境界線の証――

 村に続く一本の道、村の入り口には三尺ほどの一〇数体の石像が道の両側に並んでいた。その石像はそれぞれ異なった道具を持っていた。左側の石像は鍵を持つ像、T型十字の杖を持つ像、帆立貝を持つ像、肉切り包丁を持つ像、翼と斧を持つ像、手紙を持つ像と、その像に抱き合って鋸を持つ像……。

――ペテロ、ピリポ、大ヤコブ、バルトロマイ、マタイ、ダタイ、熱心党のシモン。一二使徒の道祖神か――

 支那服の男は黒眼鏡越しに彼を見た。

――此処からは異界。何が起こるか解らない。裾を絡ろよ――

――ああ、判っている――

――よし、じゃあ、行くか――


イエス人々に言ひたまふ 力を盡して狹き門より入れ。我なんぢらに告ぐ、入らん事を求めて入り能はぬ者おほからん。      ルカ傳福音書第一三章二四節

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る