第5話 後輩が情熱的な件について

 その日の帰りは特に明里の様子におかしな点はみられなかった。

 だけどその翌日から、彼女の態度があからさまに変化した。

 まず挨拶しても、ほとんど無視されるようになった。勤務中も極端に口数が少なくなり、なんとなく話しかけづらくなった。仕事の話をする時もどこか他人行儀な態度で接してくるようになり、心なしか目も合いづらくなった気がする。廊下ですれ違った時、以前までなら向こうから軽く雑談を仕掛けてくるのが通例だったのに、それも伏し目がちに会釈するだけの塩対応になった。エレベーターの中、偶然ふたりきりで居合わせた時なんかは地獄だった。窒息しそうなくらい空気が重々しく、たった数秒が永遠のように感じられた。無論、会話らしい会話が生まれることもなかった。

 さすがに避けられているという自覚はあった。だが、はっきりとした原因がわからなかった。

 きっかけは十中八九、ブラ紐が見えていることを指摘したあの飲み会での一件だろう。しかしそれは遠因に過ぎない気もした。仮にそれが直接的な原因であるならば、駅までの帰り道、和気藹々と談笑していたあの時間は何だったのかという話である。

 しかし確証は持てない。何分あの時の明里はほろ酔い状態だった。酔いが冷めて冷静な頭で振り返ったところで、俺という人間のデリカシーの無さをつくづく思い返して嫌気が差した挙げ句、本格的に俺のことを蔑視の対象にすると決めたのかもしれない。

 というかその可能性を考え始めると、むしろそれ以外にないのではないかと思えてきた。それというのも、いくら記憶を掘り返したところで、他に思い当たる節が無いからだ。

 もしその推理が当たっているのだとしたら、なかなか遣る瀬ない話だ。

 あの時自分が忠告していなければ、今頃、彼女のあられもないポルノ写真は衆目に晒されていた。ましてや本人も言っていたことだが、あれは彼女自身の不注意が招いた事故だ。悶絶したくなるほどの羞恥に苛まれていることは察するに余り有るが、だからといって攻撃の矛先を外野に向けるのは八つ当たりも甚だしい。

 どこか釈然としない思いを抱きつつも、一方で達観にも似た思いが胸中に同居していた。

 もともとこうなることも覚悟のうえで忠告したのだ。ひとりの後輩の将来を案じて行動したといえば聞こえはいいが、実際は我が身可愛さに見て見ぬふりができなかっただけだ。断じて正義感が働いたわけではない。

 単純に寝覚めが悪くなるのが嫌だったのだ。過去の自分を呪いながら毎日を過ごすのは、決して望むところではない。また同じシチュエーションに出くわしたならば、また同じように葛藤するだろうが、最後には同じ行動を取っていると思う。ならば後悔したって仕方がないし、反省だってする必要はない。

 残念ながら自分たちは決別する運命にあったのだ。ならば甘んじてその運命とやらを受け入れるしかない。

 そう自分に言い聞かせてけりをつけようとしたが、内心は思いのほかショックを受けていたらしい、なかなか虚しさの蟻地獄から逃れられない日が続いた。しかし1ヶ月も経てば、そんな張り合いのない日々にもようやく慣れが訪れつつあった。

 そんな時のことだ。

 同じチームの工藤先輩が「家庭の事情」とやらで急きょ会社を辞めなくてはならなくなった。

 残務処理に引継ぎにと退職するまでにやらないといけないことが山のようにあり、本人はもちろん、同じチームの面々もかなりの多忙を極めていたが、そんな中でもどうにか時間を捻出して送別会を開催する運びとなった。急な話だったこともあり、メンバーにして10人程度のささやかな会となったが、本人はいたく感激した様子で、しきりに感謝の言葉を零していた。幹事は工藤さんの直属の後輩にあたる、入社2年目の若手社員が務めた。

 参加するメンバーの中には飯田明里もいた。彼女と宴席を共にするのはなんとなくトラウマで、参加を見送ることも考えたが、しかし工藤さんには色々と借りがあるのも事実。悩んだ末に今回は先輩の顔を立てることにして参加を決意した。

 ところがその飲み会の席で、思いがけない事態に直面した。

 横長の座卓のいちばん左端の席がその日の俺の席だったのだが、その後偶然か必然か、真正面の席に、なんと飯田明里が着いたのだ。

 俺は面食らった。その席だけは絶対に避けるだろうと思っていたからだ。

 さらに驚くべき展開が続いた。その日、そこにいたのは以前までの彼女だった。ここ最近の素っ気ない態度はどこへやら、まさに天真爛漫という言葉をそのまま体現したかのような振る舞いを見せつけてくるのだった。

 目が合わないなんてこともない。むしろほとんどの時間、彼女と目が合っていた気がする。この数日間で隔絶した距離を取り戻すかのように、その日の彼女はいつにも増してぐいぐいと来た。

 時間と共にアルコールの摂取量もかさんでいき、開始から1時間が経つ頃、明里のおもてには随分と朱が差しているのが目立つようになった。瞳も膜を張ったようにとろんとしていて、傍目からはようやく平常時の落ち着きを取り戻しているかのように見えた。

 やがて明里は席を立った。見ているこちらが不安になるような覚束ない足取りでお手洗いの方に消えていった。

 今日の彼女はどうしたのだろう。そう不思議に思っていると、隣に座っていた戸塚という年配の社員に脇腹を小突かれた。見ると、その顔にはニヤニヤと意味深な笑みが張り付いていた。


「あいつ、お前さんに気があるんじゃないか?」


 そう耳打ちされて反射的に、えっ、と漏らす。それから、いやいや、と手刀を振った。


「まさか。あいつに限ってそんな気は起こさないでしょう」


「そうかな。今日とか、わかりやすいくらいお前さんにアピールしてたように見えたけど」


「いつもと様子が違うなとは俺も思いましたよ。けどまあ、たまの飲み会でテンションが上がっているだけでしょう」


 そんな他愛もない会話を交わしているうちに、明里が戻ってきた。

 戸塚は依然として意味ありげな笑みを浮かべたまま俺の肩を叩いて、明里と入れ替わるように離席した。その手には煙草の箱が握られていて、長く席を外す気配があった。

 それから俺は無言で目の前の唐揚げをつつくことに専念した。

 戸塚が変なことを言ってくるものだから、急に明里を意識してしまい、なんとなく彼女に視線を向けることに躊躇いが生じたのだ。

 そしてどういうわけか、明里の方も一向に話しかけてくる気配がなかった。

 3分ほど無言の時間が続いた。さすがに様子がおかしいと思った俺は、躊躇いを振り払って明里に視線を定めた。その時、彼女は梅酒の入ったグラスを両手で持って、控えめに傾けていた。

 そんな彼女と目が合った。おぼろげに艶めいた瞳を浮かべていた。

 瞬間、目を疑う光景が飛び込んできた。

 急速に心臓が早鐘を打ち、脳幹がくらくらと揺れた。

 明里の襟元がちょっとばかしはだけていた。そして白い肩甲骨とブラ紐が露わになっていた。明里の頬よりも真っ赤に染まった、扇情的な色のブラ紐だった。

 不意にフラッシュバックする。1ヶ月前の飲み会で目撃した光景が。

 その時にも明里は同じ色のブラジャーを付けていた。まるであの日の再現のようだった。

 それから飲み会終わりの公園で投げかけられた質問が脳内をよぎる。


『もしわざと見せてたって言ったら、どうします?』


 それに俺はなんと返しただろう?

 思い出した瞬間、身体に電流が走った。

 彼女の浮かべる湿っぽい瞳が意図するところを理解して、生唾が喉を通過した。

 頭の中が真っ白になり、思考がまとまらなかった。

 もう自分の全神経は飯田明里の支配下に置かれていた。

 そうこうしているうちに送別会はお開きとなった。

 これから二次会が開かれるという話だったが、俺はまたも適当な理由をつけて辞退した。

 そして彼らとは反対方向に歩き出した。

 傍らには無言で俯く明里の姿があった。

 俺たちは黙々と夜の街を歩いた。体中の血が沸騰しているのではないかと思えるくらい、全身が熱く汗ばんでいた。

 街を抜け、人通りの少ない路地まで至ると、不意に袖を小さな力で引っ張られた。

 振り返ると明里がこちらをじっと見つめていた。心なしか息が荒い。せんぱい、とやや舌足らずな声で彼女は言った。


「もう、我慢できないです」


 その言葉は俺の理性を崩壊させるのに充分な破壊力を備えていた。

 人目を憚ることなく、俺は明里の桜色の唇を塞いだ。

 久方ぶりに交わすキスは少しだけ甘酸っぱい梅の味がした。

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ブラ紐イニシエーション 西木 景 @nishiki_k

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