第7話 無理なんて言わないで

つむぎが身体強化が苦手だというので、離宮の前の芝生の上でちょっくら練習することになった。


「手取り足取り教えてあげますよ」


などとうそぶくデニスを紬がゴミのような目でねめつける。


「ーーー昨日のお相手とは随分盛り上がったようね。スカーフでも巻けば?後、私には指一本触れないで」


デニスは首筋につけられた生々しい歯形の跡を指さして「姫さまのえっち」などと口元を上げる。

ーーーふざけたマスキラだと思う。恥じらいをどこかへ捨ててきてしまったのか。


「騎士団でも隊長たちに流石に怒られたんだよね〜風紀が乱れるって」


ただの鬱血痕じゃんと口を尖らせるデニスを無視して身体強化のための魔力を練り始めた紬。

デニスは紬の希望を無視して距離を詰めるとあれこれと指摘し始めた。


「ちょ、離れてーーー」


「俺のことはいいからさ、腕の魔力減らして、ここの関節にもうちょっと魔力集めて。紬姫は魔力量少ないんだから無駄遣いしてる余裕ないよ?」


魔力量のことは一言余計だが、デニスの言った通りに膝のあたりに魔力を流せば随分と動きやすくなった。


「今なら徒競走で負けない気がするわ」


紬の呟きにデニスが呆れている。魔法使いが白の人の競技で負けるなんて論外らしい。

ーーー悪かったな、論外で。魔法のレベルも運動神経も論外なんだよ。


「身体強化しながら生活するとぐっとレベルが上がるよ?」


たぶんデニスは入部初心者にオリンピック選手の練習法を教えてくるタイプだ。

紬がこの短期間で息切れしているのが見えていないんだろうかーーーいや、全部わかった上で言ってるな。すごいバカにしたような顔をしてるし。


「紬姫は魔力量がな〜操作センスはそこそこなんだけど」

「悪かったわね、これでも和国では一番くらいに魔力量が多いのよ」


言い合いをしているとーーー軋むような音がした。

デニスが心底面倒臭そうに音の方向を見る。


「なんかきちゃったな…時間選べよ。仕事中だっっつーの」


デニスは低い声で吐き捨てながら、羽で撫でるように紬の頭に手を滑らせた。


ーーーやめろ、イケメンに撫でられると心臓が誤作動するから!


目を剥く紬に対し、デニスは乱入者の方へとすでに歩き出している。

紬は恨めしげにデニスが向かった方向を見た。

遠ざかっていく背中とーーーデニスを睨みつけて、明らかに憤怒している中年の男。


ははーん。


「ーーー修羅場だわ!」


抑えたつもりだったが、紬の声は思っていたよりも響いた。

背中を向けたデニスの肩が一瞬震える…笑ってないか、あのマスキラ。


マスキラはデニスの態度が全て気に食わないようで、ゆったりと近寄ってくるデニスを血走った目で凝視している。


中年の男は自分の前で立ち止まったデニスを見上げる格好になり、少し怯んだ。

ーーーデニスは長身だし、帯剣もしている。

明らかに文官風の中年男からすると少し怖いのかもしれない。


「何かご用でしょうか?ビート宰相補佐官殿?」


穏やかなデニスの声。

ビートと呼ばれた男は怯んだ様子を見せたがーーーここにきた目的を思い出したらしい。唾を飛ばさん勢いで捲し立て始めた。


「お前!私の妻に手を出しておいて、よくもぬけぬけと!」


デニスは場違いなほど穏やかに相槌を打っている。

許さない、この報復は絶対してやるーーーそんな呪詛の言葉が続いた後、疲れたように黙り込んだビートに向かって、爆弾を発射。


「ーーーで、奥様のお名前は?あと、できれば髪と目の色も」


いや、まじかこいつ。

あんぐりと口を開けたビートと紬たちはきっと同じ顔をしていた。

愁傷な顔をしながら誰のことかもわかっていなかったらしい。


赤を通り越して白くなったビートは、掠れた声で「名前はララだ!」とだけ言った。

デニスはのんびりと腕を組んだ後でーーー何か閃いたらしい。


「あの子か。金髪碧眼の…歳の離れた奥様ですねえ。ーーーちょうど良かったです、俺の実家まで押しかけてくるんで困ってたんですよ。ーーー旦那様のご意向なら連絡先もブロックしますし、今度来たら憲兵に突き出しますね」


デニスが全く悪びれないどころか…どうやら妻の方が入れ上げているらしいと悟ったビート。

デニスに輝かんばかりの笑顔を向けられ、「二度と妻と会わないと約束しろ」と捨て台詞を吐き、(デニスは喜んで!と答えていた)悲壮感を漂わせてプレートで帰っていった。


紬は思った。このマスキラ最悪すぎる、と。

デニスにはおそらくあらゆるところにツテがある。憲兵もその一つだ。

だって紬の離宮にも紺の制服の憲兵が助けを求めに来るのだ。面倒だとか何とか言いながらも紬を離宮に戻してデニスはよくいなくなる。

しかも国王陛下夫妻のお気に入りで、黒竜団長にも目をかけられているらしい。

実力行使しようにも相手が悪いとしか言いようがない。


「いつか刺されるわよ」


紬が思わずいうと、デニスはこてんと首を傾げた。


「もうすでに刺されかけたことありますよ。ーーー全部返り討ちにしたけど」


修羅場の直後だろうがあまりに普段通りなデニスに、紬は「処置なし」と白旗をあげたがーーー代わりに、紬の横でずっと震えていた側近長の雷が落ちた。


「デニス様!他人の奥方に手を出すなど正気ですか!?」


流石のデニスもバツが悪そうな顔になる。


「いや、よくないとは思いますけどーーー誰も本当のこと言わないから。はっきり配偶者の顔と名前がわかってる子は避けてますし」


子供が言い訳するみたいに話すデニス。

側近長は「そもそも不特定多数を相手にするのが間違ってるんです!」とド正論をぶつける。


紬はハラハラと話の成り行きを見守った。

少し後悔だ、ばあやを遠ざけておくんだった。


説教を続ける側近長に対し、デニスは黙り込んでいたがーーーポツリと、泣き出しそうな顔で言ったのだ。


「だって、寂しいんっすよ。ーーー俺、一生独りだろうし」


「ダメだってわかってるけど、断れないんです。人の温もりが欲しくなる」ーーー端正な顔を歪ませて、痛いんだなってわかる顔でうつむくから。


流石の側近長も勢いを失ったらしい。

たぶん全員がデニスの学園時代の初恋の君を思い出した。

確かに、彼女にはもう一生会えない。


紬は命令して側近長を下がらせた。


ーーーだってその顔とセリフは卑怯でしょう!泣かないで!


ああ、このアンバランスさが人を惹きつけてやまないんだろうなと他人事のように考える。


「もう今日は帰ろうかな」とわざと聞こえるような声量でつぶやいたデニス。

ーーー紬は最近察していた。「帰ろうかな」と言いながらデニスは紬の離宮の周りで過ごしている。紬が出歩いたらこっそり危険を排除して回っている。

どこまでも職務に真面目なのだ、この騎士は。


「ーーー独りが寂しいんならもう少し魔法を教えていってくださいまし」


気がつけば紬はそんなセリフを口にしていた。ふらふらしてると、どうせ新しいフィメルに言い寄られるのだ。だったら紬の成績向上に付き合ってもらいたい。


デニスは目を見開いた。

引き止められるとは思ってなかったらしい。

そしてーーー照れたように頬をかいた。


「年下の子に気を遣わせたねーーーうん、なんの魔法の練習する?」


「俺、カッコわる」と落ち込むデニスを見て、紬は怪訝そうに眉間にシワを作る。


「首元に歯形つけてる方がよほどカッコ悪いと思いますけど。ーーーデニス様の羞恥のポイントは少しおかしいです」


「手厳しいな。お兄さんも傷つくことあるんだよ!?」とわざとらしくしょげて見せる彼はすっかりいつも通りの調子を取り戻していて、紬はちょっと安心した。


「私全体的に火力が足りないって言われるんですよね」


「基礎魔法の練度が足りないのかな?ーーーちょっとやってみて」


まずは基礎魔法を一通りおさらいすることになった紬。

デニスにお手本を見せてもらいつつ、学園で習った通りに魔力を練り上げていく。

ーーーびっくりした。熟練の魔法使いがやると基礎魔法って岩を溶かすような威力が出るんだね。


「こんな感じ」と石を熱で溶かしてみせたデニスに言わせると…紬は器用貧乏らしい。


「それなりに全部できるけど上位には入れないって感じか。ーーー年齢的にもう少し魔力量は伸びるかな?」


図星をつかれて紬は項垂れる。

その通りだった。つい先日あった前期の期末試験でも紬の成績はほぼ真ん中だった。


「休憩しようか、つかれたでしょう」


デニスに勧められて紬は大人しく腰を下ろした。デニスは少し離れた場所で立ったまま魔煙を取り出している…紬と違って元気そうだ。彼女のお手本でデニスもたくさん魔力を使っているように見えたのに。

恨めしそうに「デニス様は成績優秀だったんでしょうね」と紬がこぼすと、デニスは魔煙から吸い込んだ赤い魔素を吐き出した後、困ったような顔で笑った。


「一年の前期は全然だった。ーーーその後は、飛び級目指してたから満遍なくそこそこ勉強したけど」


紬はいぶかしむようにデニスを見た。

一年の時に成績がイマイチだったなど信じられるはずがない。

でも、デニスは懐かしむように空なんか見上げている。知らなかったけどヘビースモーカーなのかもしれない。もう一本、新しい魔煙を取り出した。


「入学したての頃かな。まだ性分化前でさ、体も小さかったし、特に目標もなかった。ーーー剣は好きだったけど、誰も末っ子の俺が騎士として大成するなんて考えてもなかったんだよ」


今の紬よりも成績は悪かったと聞かされ、紬は絶対に嘘だと思ったのだがーーーデニスが言うには作り話ではないらしい。先生に聞いてみなよと言われれば信じるしかない。


「青魔法がからっきしでさ。補修とか引っかかってたのーーーそこで、あいつに出会えたから、馬鹿で良かったって思うけど」


色なしの彼女の話だ。

紬は思わず唾を飲み込む。

その話題には触れていいんだ、と胸の中でつぶやく。


「その方もーーー入学時は補修を受けてらしたのですか?」


紬は初恋の彼女のことを、映像でしか見たことがない。

それでも選ばれし生徒しか出られない(と紬は勝手に思っている)最強位戦に出てたくらいだから成績優秀だったのかと思っていたのだ。

紬の問いにデニスは心底おかしそうに口元を緩めた。


「入学当時どころか卒業試験も再試だったよ。ーーーみんなで寄ってたかって勉強見たのに…二教科も落ちてさ。ミシェーラちゃんと呆れ返ったもん」


デニスの柔らかいところを垣間見た気がして、紬の思考がちぎれる。

ちょっと切なそうに寄った眉とか、自然に上がってしまった口角とか。

あなたそんな顔できるんですね。今でも彼女のこと好きで好きでたまらないんですね。

…なんて言えないので、紬は新しい有名人の名前に食いついてみる。

ーーーそうだった、あのミシェーラ様とデニス様は幼馴染なんだっけ。


「デニス様に…ミシェーラ様にエゲート殿下が在籍していて、教師陣にはシャロン様とシャーマナイト陛下がいたんでしたっけ?ーーー凄まじいメンツですね」


デニスは救国メンバー勢揃いだよねと目を細めた後で、


「俺は当て馬騎士だけどね」


とふざけた調子で言った。


「今の国王夫妻は優しいから俺のことも救国メンバーとして発表してくれたけどーーー俺はさ、前代の黒竜さまに選ばれてない人間だよ。儀式本番に参加した騎士もそこそこいたから…俺だけが何もしてないって、ブリテンの魔法使いはみんな知ってる」


「それなのに騎士団長なんかになったからやっかみ受けるんだよね〜」とデニスは困ったように笑う。

知らなかった。

紬はてっきりデニスも彼らと同じだと思っていたのに…当事者の中では少し認識が違うらしい。


自分でも気づかないうちに随分沈んだ顔になっていたらしい。

デニスが困ったように「姫様はそんな顔しないで」と眉を下げる。


「前代の黒竜様には選んでもらえなかったけど、あいつらと同じ学年じゃなければ俺は騎士団長になってなかったと思う。ーーー父さんを慕ってた騎士団の古株には悪いけどさ、正直俺に勝てる奴いないんだから黙っとけよって思うしね」


沈黙が流れる。デニスの吸っている魔煙からキャラキャラとした軽い音が弾けていた。


「ねえ、紬様」とデニスに呼ばれて紬は顔をあげる。

デニスは見慣れた雑誌モデルみたいな笑みを浮かべていた。綺麗だけど距離を感じさせる表情に、過去の話はもうしてくれないようだと紬は悟る。


「赤魔法使いにとってライバルって大事だよ。感情のエネルギーになるから。紬様も『こいつムカつく』ってやついないの?」


紬は困った。確かに赤の魔力量が一番多いけど、あんまり得意ではない。どちらかと言えば黄色魔法の方が得意なくらいだし。


情熱の魔法なんて揶揄される赤魔法にとっては致命的なことに、紬は闘争心とかそういったものには無縁だった。

兄の影に隠れ、父には絶対服従。

それが和国の文化であって、紬の生き方だった。


紬がそう言うとーーーデニスは理解できなかったらしい。

パシパシと目を瞬かせた。


「慣習とか難しくてわからないけど…嘘だ。許せない、ムカつくって思ったことないってこと?」


めんくらった顔になった紬。

びっくりしたのはーーーそう言われてみれば、浮かんだ顔が二つほどあったことで。

デニスは見透かしたように目を細める。


「俺は越えたい人がたくさんいるよ。ーーー今の目標はジョシュア様だから。絶賛魔力総量のアップ中」


登っても登っても壁ってあるよなあとつぶやいたデニスは心底楽しそうで。


ジョシュア様ってジョシュア=シャーマナイト国王陛下のことだろうか…世界最強の魔法使いとか千年で一人の逸材とか言われている。


いや無理じゃない?と紬は言いかけてーーーでも、デニスならできるのかもしれないと考え直した。


「一流の人は考え方から違うんだな」と紬は感心してしまう。

だって、


「ーーー私には無理です。デニス様にも言われた通り、魔力量も少ないし。人を惹きつけるようなカリスマ性もない」


紬が発した言葉にデニスはちょっと残念そうな顔になって、でもあっさりと頷いた。


「まあ、みんながみんな魔法使いとしての上を目指せばいいわけじゃないよね。やりたいことは人それぞれだし」


そして、紬の心に抜けない棘をさしたのだ。


「でも俺はーーー無理って言葉は嫌いだなあ。諦める言い訳みたいに聞こえるし」


紬が何も言えないうちに、ピロピロと気の抜けたような呼び出し音が鳴って、デニスは慌ただしく立ち上がった。


「申し訳ないですが紬様、もう夕方ですし、あとは離宮内でお過ごしください」


カモシカみたくかけていくデニスの背中をぼうっと見つめ、紬は訳もわからず放心していた。

デニスのほんのり失望したような顔だとか、父の画面越しの見下すような顔だとか、兄の余計な親切だとかがビュンビュンと脳裏をかけていく。


小さくなっていくデニスを見ていたら、猛然と腹が立った。

みんな勝手だ。

紬に諦めることを強いてきたくせに。どれだけ我慢してきたか知らないくせに。

勝手に紬の評価を下げてーーー「まあいいんじゃない」とか言って笑うのだ。


そりゃあ、兄様みたくチヤホヤされればこんな卑屈な女にはなってなかったでしょうよ。

デニス様みたいに才能も何もかも持ってて、好き勝手やれる強さがあればうじうじ悩んだりもしないでしょうよ。


痛いくらいに唇をかみしめてーーー違った、と思い直す。

兄はともかく、デニスはたくさん苦労してきた人だ。何もかも持っているなんて彼に失礼だ。全部自力で手に入れたのだろう。

…あのお綺麗な顔面はやっぱり羨ましいけど。正直、紬とさんざん比較されてきた兄さえも霞む。デニスだけでなく、ブリテンの上位陣の容姿の良さはちょっと異常だとさえ思う。前代の黒竜様は面食いなのだろうか。


座り込んだ紬にそっと差し出された水筒。

浅葱色の着物の少女、桜だった。

若いのによく気が効く子だと思いつつ、受け取ろうとするとーーー

なぜか、グッと腕をひかれ、小さな体に抱きしめられた。


「さ、桜?」


侍女の奇行に紬は戸惑う。

遠くで側近長が怒ったような声を出していたので、ひらりと手を振っておく。

怒ってはない、びっくりはしたけど。


桜は震えていた、彼女の薄い魔力がゆらゆらと波打っている。

ーーーものすごく怒ってる?


「紬様…なんで言い返さないんですか。デニス様に紬様の苦労の何がわかるって言うんですか。和国で一番の才女で、優秀な家庭教師は全部兄君につけられたのに、独学で留学できるくらいまで勉強なさって。魔法大国で普通に過ごせるフィメルなんてあなただけですよ。もっと自信持ってください」


紬は桜の言葉に感動しかけ…あれ?と思った。

待って、聞いてないよ。


「ーーーー聞き逃せない言葉が聞こえた気がしたのだけど、私につけられた家庭教師ってレベル低かったの!?」


「え!?紬様知らなかったんですか?皇王さまが紬様の賢さに頭を抱えて、わざとダメな教師ばかりつけたのに、独学で教師のレベルを超えていくから…」


グリンと勢いをつけて紬は振り返った。

初耳すぎる。

和国のレベル低すぎじゃない?と思っていたのはどうやら紬だけだったようだ。

だって、紬と目を合わさないように使用人たちの多くは目を逸らしている。


「ばあや?…その顔を見るに、知ってたのね?」


側近長は苦笑いだ。ーーーなんだか残念な子を見るような目を向けられているのは気のせいだろうか。


「まさかお気づきになってないとは…紬様はご自分のことには鈍感ですねえ」


他にも、これ以上双子の能力差が開いたら困ると、留学には兄を向かわせようとしたのに嫌だと駄々をこねて父王が頭を抱えた話だとか…紬が知らなかっただけで、紬たち双子は王をずいぶん悩ませてきたらしい。


「紬様は全て理解された上で何も仰らないのかと思っていました」


寡黙な護衛長にまでこの言われよう。

ーーーずっと行動を共にしている使用人とさえ紬はすれ違っていたらしい。


紬を王にした方がいいという意見まであると聞かされーーー紬は笑ってしまった。自分は本当に目先のものしか見えていなかったのだ。


「ふふふふふ」


突如笑い出した紬を見て、桜がギョッとした顔になったがーーーもう止まらなかった。


「おかしいわ、私に構ってくださらないお父様のことがずっと憎らしかったけど…溺愛してるお兄様にも手を焼いてたのね」


晴れやかな気分だった。

フィメルの自分が、マスキラの父親を困らせていたなんて。こんな愉快な話があるだろうか。


紬はひとしきり笑い転げた後でーーーつきものが落ちたように、からりとした表情で笑った。


「ねえばあや。ーーー私が王になりたいって言ったらついてきてくれる?」


紬の問いにばあやは反論しようとしたのだろう。

眉間にシワを寄せて口を開いたのにーーー彼女より先に、桜が勢いよく「いいですね!」と言ってしまった。


「こら、桜!ーーー紬様、何を恐れ多いことを。ご自分が何をおっしゃってるかわかっているのですか?」


紬は、今までだったらばあやに謝罪して発言を撤回していただろう。

でも、威厳さえ感じさせる姿で「何かおかしい?」と頬に手をやる。


ばあやが怯んだのを見てクスリと笑う。


「別に玉座に興味なんてないわ。ーーーでも、私あのままの兄様に仕えたいとは思えないのよね。後ろで火がつけばあの方も少しは慌てるでしょう?」


静まり返った離宮の前で、護衛長が「私は紬様について行きます」と静かに言った。

側近長が色を変えて護衛長を見る。

でも、護衛長は落ち着いた様子で、「とりあえずデニス様の指示通り中へと入りましょう」と紬の背中に手をやった。


護衛長に先導されながらーーー「あなたは反対しないの?」と心底不思議そうに紬は問うた。

護衛長は皇王の元側近なのだ。

女が大それたことを言うなと絶対叱られると思ったのに。


「主君の意向に従うのが側近の役目。私は老ぼれですがーーーこの国に連れてきていただけてよかった。…デニスのように、若くて才能もあって常に高みを目指す男を見ると震えます。自分も何かやらなくてはと思わされる」


紬は「私は別にデニスに動かされたわけじゃない」と言いかけてやめた。

こんなに楽しそうな護衛長は見たことがなかった。デニスは最近刀の腕をメキメキと伸ばしているらしい。滞在中に抜かれたらどうしようと護衛長が震えている。


「さっきあやつ、『ライバルは大事だ』とか抜かしていたでしょう?ーーー私のことは眼中にないでしょうが、ちょっとドキッとしましたよ。こっそり鍛錬の時間を増やしています」


みんなそうですよ、刀でデニスに負けたくないと必死になってます。ーーー真顔で護衛長が言うものだから、紬はまた笑ってしまった。


「デニス様は騎士団長と陛下の側近の兼務でお忙しいでしょうに。いつ刀の練習する時間があるんですか」


紬とは対照的に、護衛長はうんざりとした様子でため息を吐いた。


「真の化け物は鍛錬を鍛錬と思わないんですよ。ーーーきっとあやつは遊びかなんかだと思ってます。我々の抜刀術を見て、新しいおもちゃをもらった子供みたいな顔しますからね」


だから私は紬様のことを買ってるんですと、急に護衛長が言うものだから紬は目を見開いた。


「だって魔法を学ぶときの紬様は心から楽しそうな顔をなさるでしょう?ーーー桜の言う通りだ。竜大国で平然とやっていける人間など和国には長らくいませんでしたよ…好きなんでしょう?魔法のことが」


知らなかった。そんな風に思ってくれてたなんて。

ちょっと潤んだ視界。ーーーぐっと目尻に力を込める。

私は皇族だ。人前で涙など見せない。


「生まれ持った使命と熱中できるものが重なる人間は希少です。ーーー紬様は大成しますよ」


好々爺みたいな顔で護衛長は笑った。

紬も口元を緩める。そして、拳を握った。


「少なくとも、兄様を焦らせることができるくらいにはなってみせるわ」


決意を固める紬の後ろにそっと立って二人の会話を聞いていた側近長が額に手を当てていた。


「兄君のことなどとうに超えてます…背中さえ見えなくなってしまうので、王の心労を思うなら頑張らないで差し上げてください…」

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