第31話 拝啓、"春"へ②





春澤澄歌の家の住所は生前の彼女から聞いていた。


「思っていたよりも駅から近いんだな。」


事前に聞いた住所と地図を見比べながら僕は独り言を言った。舞はいない、今日は僕一人だ。



『2番線、電車が参ります。』



何度も聞いた機会音声が駅のホームに鳴り響く。ゴウゥッと風を切る音と共に電車が来る。


顔をあげる人々。電車から出てくるまばらな雑踏。


僕は深く息を吸い、電車の中に飛び込んだ。







春澤澄歌の墓に行きたい。本当はずっと行きたかった。


でも、行けなかった。行くのが怖かった。どんな顔で行けばいいのかわからなかった。だから、行くつもりなんてなかったのだ。このまま忘れてしまおうと考えていた。


それでも行こうと思えたのは、自慢の後輩が背中を押してくれたからに他ならない。




目の前のピンポンを鳴らす。カメラはない。


表札には"春澤"の二文字。間違いなく春澤澄歌の家だ。


ドタドタと落ち着きのない音がした。少しだけ緊張した面持ちで家の人が出てくるのを待つ。


当然だ。どこの馬の骨かもわからない男が突然自分の家を訪ねてきたとあれば不審に思わないわけがない。


玄関の、凹凸ガラス越しに人影が迫ってくるのがわかった。僕の心臓が緊張で早く動く。


「どなたですか〜?」 


「え」


出てきたのは、大学生ぐらいの綺麗な女性だった。春澤澄歌には姉妹はいないはずだ。


「あの…ここは春澤澄歌さんの家ですよね?」


「え…」


僕が"春澤澄歌"の名前を出すと、女性は驚いたように固まった。そして、僕をじろじろと見る。


「……うん。今、おかあさんを呼んでくるね。」


何かを確信したのか、力強く頷いたあとその女性は家の奥へと戻っていた。


彼女が誰だったのか僕にはわからない。僕は先輩の家のことを何も知らないのだから。それでも好きだった。


それだけは確かだ。



やがて、パタパタとスリッパを鳴らしながらこちらに駆けてくる音がした。


(あ…)


家の奥から出てくるさっきとは違う綺麗な女性に僕は見覚えがあった。あのとき、先輩が死んだときに病院で泣いていたあの人だった。


春澤澄歌の母親だった。


僕は弾かれたように頭を下げる。そして、言葉に詰まった。僕はこの人になんて言えばいいのか分からないのだ。


僕が春澤澄歌の中でどういう関係だったのか、説明する術を僕は持ってはいない。


「あなたが、和季くん?」


「え」


そんな僕の惑いも、目の前にいる女性の一言で霧散した。僕はゆっくりと顔を上げた。


そこには、先輩の母の笑顔があった。


「なんで…」


何で僕の名前を知っているんですか?と尋ねようと口を開くと、先輩の母が遮るように言った。


「そう、やっぱり。あなたが来るのをずっと待っていたのよ。どうかしら、お茶でも…」


「い、いえ…お気遣いは無用です。」


なんとか絞り出すようにそれだけ言うと、先輩の母はゆっくりと頷いた。


「わかった…待ってて、あなたに渡したいものがあるの。」


「え?」


「今、持ってくるわね。」


「………」


そう言って家の奥へと戻っていく黒髪の人を僕は見送る。その後ろ姿は春澤澄歌そっくりだった。


玄関から見える春澤家を見て、在りし日の先輩を想う。ここで生まれ、育ったのだ。


感傷に浸っていると、家の奥からまたもスリッパの音が鳴る。先輩の母がやってきたのだ。


「澄歌は、あなたのことをよく話していたわ。」


「え…」


「とてもかわいい後輩ができたのだと珍しく笑っていてね。"かわいい"だなんて言うものだから最初は主人も私も女の子だと思っていたけれど、よくよく聞くと男の子でね。主人が慌てちゃって…」


「…………」


「…そう…そっか。あなたが"和季"くんなのね。」


先輩の母が、僕の頭に手を伸ばす。


「髪は緑色だと聞いていたのだけど、黒に戻したのね。」


「……はい。」


「……そっか、あのとき病院の待合室で泣いていた君が…和季くんだったのね。」


「…っ………」


あのとき、僕は泣いていたのかと、それを見られていたのかと僕は驚いた。


聞きたいことがいくつもあったがやめた。


僕を撫でる手が少しだけ震えていて、弱々しくて、僕は何も言えなかったのだ。ただされるがままに、彼女に頭を預けることしかできなかったからだ。


「………」


やがて落ち着いたのか、先輩の母が頭を離した。そして、僕の頭を撫でた手と反対の手に持っていた何かを僕に手渡す。


「これが、あなたに見せたかったもの。」


それは、手紙だった。ボロボロになった手紙だった。


僕はそれを受け取り、しばらく眺める。そして裏返して目を見開いた。


『和季へ。』


それは間違いなく先輩の字だった。何度も見た彼女の字。


「これって……」


僕が顔をあげると、先輩の母は微笑んだ。


「それは、電車のなかで澄歌が書いた手紙よ。事故にあったときに大切そうに握りしめていた手紙。」


「!」


僕は手紙を見る。ボロボロのクシャクシャだ。でも血に汚れた様子はなく、薄い桃色の便箋のままだった。


「中身は見ていないわ。それはあなたへ宛てた手紙だものね。」


「…………」


「和季くん。」


「……はい。」


「あの子の…澄歌の隣にいてくれてありがとう。」




涙で掠れたそのひとに、僕は会釈で返した。まともな返答をするには僕の声は涙で滲みすぎていたからだ。

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