第17話 先輩のある日





「おはようございます、お父様。」


「君は…和季の………。」


朝4:30。私は改札口の前である男と対峙していた。いや、対峙という言葉を使うのは少し物騒だろうか?これはあくまで今日はご挨拶なのだから。


「初めまして…ではないですね。昨日ぶりです。私、羽賀くんの通う高校の二年生の春澤澄歌です。」


「はぁ…ご丁寧にどうも。それで一体…」


「いえ、ご挨拶と謝罪をと思いまして。」


「挨拶と…謝罪ですか?」


「まずは昨日、失礼な態度を取ってしまいすいませんでした。つまらないものですが…これを。」


私は手に提げていた菓子折りを目の前の男、羽賀和久に渡した。男は少し迷う素振りを見せたが渋々それを受け取った。


「わざわざありがとうございます。それで…ご挨拶というのは?」


男が困惑しながらも尋ねてきた。私は迷うことなく彼に告げる。断られないようにするには結局のところ自信のある素振りをを見せつけるしかないのだ。


「私を羽賀和季くんの家庭教師として家にあげることを許可してはくれませんか?」



 




「和季。」


「………」


起きない。


「和季、起きて。」


「ん……」


まだ起きない。


「起きなさい、和季。」


「んぅ……!…え」


起きた。


「な、なん…なんで先輩がここに?」


「私あなたの家庭教師になったの。」


「は?…ど、どういうことすか?」


「お父様の許可は取ってあるわ。」


「いや、だからどういうこと…?」


目の前の男、羽賀和季がベッドから転び落ちるような姿勢で私のことを見上げている。


先ほどから私に疑問を呈しているようだが、何がわからないのか私にはわからない。私は何も間違ったことは言っていないはずだ。


「せ、先輩。今何時かわかってます?」


「馬鹿にしているの?朝の6時よ。」


「…っ…っ…も、もういいです。」


「?」


なんだ?なんでそんな顔をしている?寝顔を見られたことを恥じているのだろうか?ならば問題ない。


「安心して、涎は垂らしてなかったわ。」


「いや…そうすか。」


「理解したなら早く起きなさい。私はリビングで朝ごはんを作って待っているわ。」


「え?朝食作ってくれるんすか?」


「ええ。私料理は得意なの、楽しみにしておきなさい。」


「はい…楽しみです。」


「そう。」


和季な返事を聞き満足した私は階段を下っていく。彼の部屋は二階にあるのだ。


ギシギシと鳴る階段を踏みしめながら朝ごはんは何にしようと考える。いかに男の子といえど朝からがっつり食べられるわけではないだろう。


だが手を抜くのもなんだか嫌だ。和季に簡単なものしか作れない女だと思われてしまう。それは先輩としての沽券に関わるだろう。


「……エッグベネディクト?」


閃光のように脳裏に浮かんだ。


おしゃれすぎるだろうか?そもそも作り方もわからない。でもエッグベネディクトを食べる和季は見てみたい。


「…挑戦してみようかしら。」


決心を固め、キッチンに降り立ち、腕捲りをして台所を見渡した。そこで私は気づいた。


「勝手がわからないわ。」







「自分の家のキッチンならちゃんと作れたのよ?でもここはあなたの家だから作れなかったの。」


「はい、わかります。」


「でも部屋の掃除は任せて?これでもお片づけは得意なの。あなたの部屋は少し散らかりすぎているわ。しっかりと片付けて綺麗な部屋にしましょう。」


「……はい、よろしくお願いします。」


「………」


なんだか和季が生意気そうな顔をしている。あれから部屋から降りてきた和季と共にエッグベネディクト…ではなくベーコンエッグを作った。


塩と砂糖を間違えたせいで少しだけ変わった味になってしまったが食べれないわけではなかった。


大体食事というものは栄養が取れればいいのだ。味は二の次と考えるのが人間として正しいのではないか?


「和季、私は間違ってないわよね?」


「もちろんです。」


思ってもなさそうに和季が返事をした。


「……やっぱり生意気ね。」


和季の誤解を解くのは難しそうなので諦めて彼の部屋を掃除する。男の子の部屋にはエッチな本があるものだと風の噂で聞いたことがあったが、どうやらないようだ。



「こんなもんかしらね。」


小一時間ほど掃除したところ、たちまち和樹の部屋は綺麗なった。まあ許容範囲といったところではあるが。


「床が見える…。」


「あなたは床にものを置きすぎよ。物も少ないのだし、きちんと整理すれば汚くならないわ。」


「み、耳が痛いです。」


「でも男の子の部屋はあんな感じなのかもしれないわね。さぁ、勉強をしましょう。」


「え」


私が"勉強"という単語を出すと和季が素っ頓狂な顔をした。


「勉強するんすか?」


「言ったはずよ?私はあなたの家庭教師なの。お金は払わなくていいけどね。無償の愛というやつよ。」


「愛……」


「さあ、椅子に座って。」


なぜか頰を赤くしながらも、和季が机の前に座り参考書を開いた。

私たちはあの海小屋での日々のように勉強を始めた。


この一月の間に着実に彼の学力は上がっている。、もう少しだけ頑張らねば。


「——ぱい?先輩?」


「!」


「あの…ここわかんないすけど…。」


参考書の一点を指差して私を見上げる和季。


「………」


「先輩?」


「ああ…えっと……」



私が教えてあげると、彼は決まって嬉しそうな顔をする。まるで子供のように無邪気な笑い方をするのだ。 


『ここはなんて読むの?』


『これはね…。』


『そうなんだ、ありがとう。』


あの時から何も変わっていない。



「…………」


「……先輩?」


「本当はあなたに伝えたいことがあって来たの。」


「え?」


「優季さんのことよ。」


「!」


和季が私を見上げている。彼の肩にそっと手を乗せた。和季には少しでも、その心のわだかまりを軽くしてほしい。


「和季、あなたは優季さんが将来の話をしなくなったのはあなたの将来に期待していなかったからと言ったわね。でも…それはきっと違うわ。」


「え…」


「優季さんは話せなかったのよ。どんな夢物語を語っても、あなたの未来に自分の姿がいられないことを確信していたから、言えなかったのよ。」


「!」


「自分を卑下しないで和季。優季さんはあなたに期待していなかったわけではないわ。心のなかではずっと想っていたはずよ……大人になっていくあなたを。」


いつ言い出せばいいかわからなかった。昨日からの秘密を知ったあと、ずっと考えていたことだ。


私の推測でしかないから言わなくていいと思っていたが、一晩考えてやっぱり言うことに決め、彼の家まで押し掛けた。彼の心がすっと軽くなることを信じて。


「先輩…俺……」


「和季…」


少しだけすっきりしたような顔で和季が私を見上げている。私は彼に笑いかけようとしたのだが…。


「へ」


私の視線があるところで止まる。


「え?…あ!」


「〜〜〜〜!?」


珍しく私の顔が熱くなるのがわかった。きっと頰は赤くなっているだろう。彼の机の上、参考書に紛れて乗っていたのは紛れもなく男の子のための本で…。


「そ、そんなところにあったのね…。」


「違うんす先輩!これは…!」


「だ、大丈夫よ和季。あなたも男の子だものね…。」


「これは…父さんのです、先輩!信じてください!」


「………ふ、ふふ。」

 

私はあまりに必死な和樹の様子に思わず笑ってしまった。




どうか泣かないで、和季。


怖がらないで、和季。


大人になることを。忘れゆくことを。


どうか笑っていてね、和季。


私が死ぬまでは、大人になっていくあなたのことは見守っていてあげるから。


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